「一松さん、」
彼女に名前を呼ばれて、過剰なほどにぴくりと肩が揺れた。逃げなきゃ……ここから逃げないと。
後退りをする僕の背中を押したのは、してやったりと最高に笑顔なおそ松兄さん。
「ほら、早く行けよ。」
「は、」
クズ松兄さんは「邪魔者は退散しまーす!」と、立ち尽くす僕を置いたまま、駆け足で何処かへと行ってしまった。どうせパチンコだろうけども。
くるりと彼女の方を向き直して、もう一度目を合わせる。いや、目なんか合わせられるわけなくて、ただ、ひたすらに彼女の足元を眺めた。たらりと額から汗が溢れる。ついでに手汗もひどい。
「あの、一松さん、」
再び、君は僕の名前を呼ぶ。
緊迫した空気の最中で、ぎゅるぎゅると勢いよく僕を襲ったそれはいつものことで、情けないながらも腹を抑えながら彼女に頭を下げた。
「………ごめん、先にトイレ行かせて。話はそれから。」
「は、はい!」
女の子に支えられながら僕は自分の部屋に向かうために階段を上がる。好きな女の子の前で、脱糞の懇願って、我ながらどうかしてる。それでもみょうじなまえは僕を見つめて、その目先は、同情も、哀れみもなくて、本気で僕のことを心配しているようだった。
ごしごしと擦り合わせ、石鹸まみれの手をよく洗い流す。腹痛は収まらないが、彼女を待たせれば待たせるほど、自分を追い込んでる気がするから。
……腹をくくれ、一松。一応、男だろ。いや、現世に男女の差なんてないか。むしろ、彼女の方が腹は座ってるし。
数歩進めば、座り込むみょうじなまえがそこにいて、どこかぎこちない彼女の姿と、相変わらず散らかった部屋の風景が、最初と重なる。
「お待たせしました。」と小声を零して、僕も彼女の目の前に腰をかけた。なんだかお見合いでも始まりそうな雰囲気、余所余所しさのせいで、どうも落ち着かない。
「………あのさ、」
「は、はい!」
「……アンタさ、他に男いるんでしょ。前から思ってたけど、男慣れしてますもんね。どうせクソ童貞の俺のことからかって楽しんでるだけだろうし…ほんと迷惑。」
突き放したようなセリフが出てきたことに自分自身でも驚いた。いや、こんなことが言いたいんじゃなくて、例の件は気になってはいたけども、今、言うべき事柄でないことはわかっていたはずなのに、自信のなさが妙な禍々しさをもって、言葉となってしまった。
でも、僕の冷淡さは今に始まったことじゃないし。
シカトだってしょっちゅうしてたし、それでも曲げずに僕に突っかかってきた君。
いつものようになんともない顔して、おどけてみせてよ。そんな僕の願いとは裏腹に、彼女は微動だにせずにただ静かに涙を流した。
いつもの騒がしい彼女のイメージとかけ離れてたせいか、綺麗だなんて場違いなことを感じてしまった僕は素直に見惚れてたんだ。
「それが、答えなんだね。」
「あ、いや、」
訂正しなきゃなのに、喉が詰まったみたいに、なにも出てこない。
「……私、来週には引っ越すことになったので、もう一松さんに迷惑かけませんから。」
「え、」
「一松さんのこと、好きになれてよかった。きっと、私の初恋でした。どうすればいいのかわからないくらい人を好きになったのは、これが初めてだった…!」
ぺこりと頭を深く下げて、膝に座っていた黒い猫の頭を撫でる。ばいばいって、君はこの場所から居なくなろうとしてる。
いつだって僕は失うことを恐れているから、失うものを手に入れないようにしてきた。
1人は楽だ。喜怒哀楽の全てになにも意味を持たないから。誰とも共有することがないのだから。ただ、言葉の通じない相手に一方的に癒しを求めるだけ。そんな毎日を送っていた僕の前に君は突然現れた。
2人は面倒だ。無駄が多いし、苛立つこともある。だけど、相手のすることに目が離せなくて、僕のために何かをしてくれる彼女が本当はずっと前から愛おしかった。
「……ごめん、帰せない。」
細こい腕を掴んで、逃さないようにと壁際に追い込む。あーあ、女の子泣かすなんて、これまた人生初めてのこと。彼女に泣き顔は似合わないから、親指で拭ってあげた。
好きと言い出せないなら、それに勝る行為で示せばいいのか。そんなの僕にはわからない。わからないから、君に触れたいって気持ちに全部を託してしまおう。
「口、塞いで、」
「へ?」
「いいから、」
我ながらなんて大胆なことしてるんだろう。死ぬんじゃないかってくらい、心臓がうるさい。
嫌じゃないかな。ちゃんと歯磨きしたっけ。口、臭くないかな。
あの日とは違って触れるだけで、人生2回目のキスはちょこっとだけ、しょっぱい味がした。
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