「おはよ、みょうじちゃん!」
「お、おはようございます…」
昨日の今日でなんとなく顔を合わせづらくて避けるように仕事に向かおうとした私だけど、松野さんはすでにアパートの入り口でたばこを吸っていた。
目を細めてすかさず私の足元へと向ける。たぶん、確認するために先回りされてたのだろうか…軽い威圧を感じた。よく言えば気に掛けてくれてる人、悪く言えばお節介で、松野さんはやっぱり近所に住むおばあちゃんみたいだ。
私服用のローファーが一足あったために、今日はそれを履いてきたから心配はご無用である。
「んーちゃんと俺との約束守ってんじゃん〜えらいえらい!」
ぽんぽんと私の頭を撫でて、歯を出して満足げに彼は笑って、なぜだか心臓が詰まるような感情に襲われた。苦しいような…なんだろうこれ。きっと、すぐに治るだろうと、もやもやとしながら私は駅に向かうことにした。
ここに越してきたからというもの、一日一回は松野さんの助けがあって、私の生活は成立してる。もしも、彼の存在がなかったら、今頃どうなっていたのか、想像もできない。
パソコンの画面を眺めながら、考えるのは一人のことだけ。締め切り時間は刻々と迫ってるし、集中しなきゃって思うんだけど、気がついたら彼が頭の中にいる。
何かをしてもらったら、何かをお返しするのは、故郷では当たり前のルールだ。染み付いてる習慣に従って、純粋に松野さんにお礼がしたい。率直に言えば、もっとあの笑顔が見たかった。
でも、松野さんの好きなものを私は何一つ知らない。結局、名前に、年齢と職業しかわからないの。
………「飲み始めなのに、チャーハン頼むんですか?」
「うん、だって、大好きなんだもん!」
あ、そういえば、好きな食べ物はこの前、手に入れたばっかりだった。
キーボードを打つ手が止まる。そうだ、これしかない。確か、冷蔵庫に卵は残ってたはず…足りないものは、今日は定時退社でそのままスーパーに直行して買って帰ろう。私にできることといえば、お母さん直伝の料理くらいだし。
きっとあの人は今日も隣でぐうたらしてるに違いないから、今頃お昼寝の時間かなぁ。ごろごろと転がる赤いパーカーを思い浮かべて、口元が緩んだ。
早く会いたい。
長年の親友にも、家族にも感じたことなかった感情が私を支配してる。
「え、まじ!?」
「はい!あんかけチャーハンなんですが、良ければ一緒に食べませんか?」
「食べるに決まってんじゃん!」
玄関を抜けて駆け足でテーブルの前へと向かう後ろ姿は実家にいる弟たちにそっくりで、好物を目の前に、その瞳はきらきらと輝いてる。
「お口に合うかわかりませんが…」なんてお決まりの台詞をこぼす前に彼はスプーンを手に持ち、それを掻き込んだ。そんなに慌てなくても、食べ物は逃げないのに。おばあちゃんみたいなのに、子供みたいで、感受性豊かな彼から私は目が離せなくなってる。
「超美味かったぁ!」
そうそう、この笑顔が私は好き。できればもっとみていたい、近くにいてほしい。この気持ちは、なんと呼べばいいのかな?
年上のくせに、同い年の距離で、かと思えば、やっぱり大人だなぁって感じる包容力の高さ。優しさの塊に私は飲み込まれてる。
料理うまいね、いいお嫁さんになるね、って褒め言葉の雨を浴びせられ、私は頬を赤くした。
彼が見つめる先に、私がいる。それは本当に私なの?だなんて、何も知らない私が疑問に思うわけもなかった。ただ、ドキドキするだけ。この気持ちの答えもまだわからない。
二人分の空のお皿をそのままに、隣まできた彼が、私の髪をさらさらと掻きわける。その動作に意味などないとわかってるのに、ただ、心拍数は上がった。
「……あのさ、すっげー優しくするから。いまよりもっとさ、」
近すぎるくらいに彼の顔が近づいてきて、逸らしたいのにできない。私はもうすでに捕まっていたのかな。
「だから、俺のものになって」
それが告白だと理解するのに数秒かかって、答える前にくちびるは塞がれた。
私に恋を教えてくれたのもあなたで、だけど、思い返せば、あなたは私のことを一度も「すきだよ」とは言ってくれなかったね。
back