「もーさー昨日さぁ俺のことほったらかしにしたでしょ〜」
あの後すっげー怒られたんだよ、お兄ちゃん!と、朝一番に声を掛けてきたのは、松野さん。音でバレたのか、私と同じタイミングで玄関から出てきたのだ。越して来てからというもの、毎日なにかしら突っかかってくる…いや、なにも考えてなさそうで、実は気遣ってくれてるのかもしれない。
「そんなつもりは…」
「どーせなら俺はみょうじちゃんに介抱されたかったなぁ〜!」
にひひと笑う彼は冗談なのか本気なのか。うまい切り返しができない私はとりあえずスルースキルを駆使して、「弟さんいたんですね。」と話題をすりかえた。昨日会ったのは、2階の204号室に住んでいる4番目の弟の一松さんで、松野さんは兄弟が多いらしい。
「「あ、」」
噂をしていれば、猫を抱えた一松さんが降りて来たので挨拶をしたが、一睨された挙句、シカトされてしまった。右に曲がる彼の背中を見届けつつ、なにか嫌われるようなことをしてしまったのだろうか…と思い返してみてもなにも見つからない。できれば、同じアパートの人とは仲良くしたいのが本心なのだけど。
「……まあ、あいつ難しいやつだからさ、あんま気にしないで!」
慰めのつもりか、松野さんはぽんぽんと私の頭を撫でてきて、だから、不意にそういうことするのはやめてほしい。だって、どきどきしてしまうから。
松野さんと一松さんを足して、2で割ったらちょうどいいのでは…なんてそんなことを思った。
午後からは足りないものを買い揃える日と決めていた私の隣には、暇だから俺も行くと勝手について来た赤いパーカー。このご時世、私の知る限りでは、こんなに自由に生きてるのはきっと松野さんくらいしかいないと思う。あと数日したら私も仕事が始まるわけで、少し羨望する。ニートって毎日どんなことしてるのかな。
ちらりと盗み見れば、それに気がついた彼とばちりと視線が混ざった。口角をあげて、どうしたの?って彼は笑う。
軽々と彼が手にしてる茶色の紙袋には食器類、黄色の紙袋にはタオル類、ビニール袋には食材が詰め込まれていて、到底一人では持ちきれない量だ。
「荷物持ちさせてすみません…。」
「別にいいよ〜まあお礼は身体にしとく?」
「からだ…?」
「あ、うん、ごめん、流して。俺が恥ずかしいわ。」
なぜか頬を赤らめる松野さんに、私は首をかしげた。
黙り込んでしまう彼に、妙な空気が耐え難くて、あの…と唐突に零せば、彼はすかさず耳を貸してくれる。それも、感じの良い笑顔付きで。
いくら大家と言えども、この人は、なぜこんなに私によくしてくれるのだろうか。聞きたいことは溢れ出す。けども、今は一つだけにしておこう。なぜだか欲張ってはいけない、踏み込んではいけない、そんな気がしたから。
「…松野さんっておいくつなんですか?」
「え、まだ言ってなかったっけ?俺はね、」
同い年だと、もしくは年下だと感じてた彼が、まさか上だとは思わなかった。驚愕とする私に、「なにその反応結構ショックなんですけど!?」と、松野さんは口を尖らせる。たぶんそういうところがダメなんだと思います…なんて冷静にツッコミをいれれば、みょうじちゃんがいじめるぅと泣き真似をした。
やっぱり、大きい子供みたいだ。
おかしいなぁもう。くすくすと笑いがこみ上げてくきて、知らない土地への緊張感や不安はいつのまにか消えていた。それはきっと、松野さんのせい。
私、ここを選んでよかった。心の底からそう思えた。
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