彼に出会ったころは、まだ肌寒い季節だったというのに、もう季節はぎらぎらと日差しが焼き付ける真夏になっていた。
初めてのお盆休み…社会人になってから長期休みの貴重さに気がついたのは、きっと誰しも同じだろう。
無人の駅を降りて、久しぶりに眺めた田んぼが一面に広がる風景。スーパーも、コンビニも近くにはない、それが私の故郷。
本当はおそ松さんと一緒に過ごしたかった一週間なのに、なんで実家に帰って来てしまったんだろう。
でも、せっかく帰ってきたというのに、親戚にも友達にも誰にも会いたくなくて、外出はしていない。お母さんの小言も耳には入らなくて、もはや今の私はまるで抜け殻みたいだった。
彼に恋をする前は、一体どうやって生きていたのかわからない。
もしかしたら、このままお別れになってしまうのかな。なにも言えないまま、なにも知らないまま。
あの笑顔を一番近くで見ることは叶わなくなってしまうのかな。
思考は螺旋状をくるくる回り続けて、益々、私は身動きが取れなくなる。
「…ねえ、今日、赤塚みたいよ。」
唐突に発せれられたのは、お母さんが好きな芸能人がぶらり旅をする番組のことで、放送されるのが赤塚町の特集だということ。
縁側に腰掛けていた私は、くるりと身体を反転させて、だるそうに真後ろにあるテレビへと目線を向けた。
地名すら知らなかった赤塚。なんで私はこの場所を選んだのだろう。
流れる映像とともに、記憶も思い起こされる。
おそ松さんがたまに迎えに来てくれた、赤塚駅。行ったことはないけど、近くにあるレトロなカフェ。おそ松さんの好きなパチンコ屋さんの看板。彼の好きなものを作るために通い詰めたスーパー。
一番最初に、二人で飲みに行った居酒屋さん。
あの時はまさか、大家さんと恋人になるとは夢にも思わなかったな。
そして、こんなに苦しむほど人を好きになるとは思わなかった。
「ちょっと、何泣いてるの?そんなに嫌なの?それなら、もうこっちに戻って来れば?」
「それはいやだ。」
あれだけ悩んでいたくせに、突飛な言葉は素直だ。
だって、おそ松さんの好きなおでん屋さんにまだ行けてないし、彼の兄弟に、幼馴染のアイドルの女の子にも会いたい。赤塚のことを私はまだまだ全然知らないから。おそ松さんが教えてくれるって言ってたから、だから、あの場所を離れるのはいやなの。
テレビには映らなかったけれども、すぐそばに私の住むアパートがあって、まだ半年も経っていないのに、もうあそこは私の居場所なのだと実感する。
帰りたい、帰らなきゃ。
答えはもう最初から決まっていた。
なまえちゃんって、笑顔で呼んでくれるおそ松さん。同い年のように気さくに話せて、だけど、年上の包容力に優しさを持ち合わせてる私の好きな人。
もしかしたら、私のこと好きじゃないかもしれない。身代わりなのかもしれない。彼の心には他の人がいるのかもしれない。
あの人の過去は知らないけども、なにも知らない私のそばにいてくれたのは、確かに松野おそ松だった。それはなにも変わらないの。
「ねえ、お母さん、」
「なに?」
「……もしも、お父さんの好きな人ができて、自分と同じ顔の人だったらどうする?」
「なにそれ、そんなの関係ないわよ。要はどれだけ相手を思いやるかでしょ。」
私はおそ松さんにもらってばかりで、まだなにもしてあげられてない。彼の中に弱さがあるのなら全部受け止めてあげたい。
今日は、曇り空。星の見えない夜になるだろう。でも、それは隣に彼がいないせいだ。
「お母さん、おねがい。車出して。私、東京に帰る!」
「は?今から?!」
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