時計の針は、もう20時を指している。定時はとっくに過ぎてるのに、同期の仕事を引き受けたのも、明日に回せる仕事を進めたのも、少しでも長く会社に居たかったから。家に帰るということはおそ松さんに会うことで、どんな顔すればいいのかわからず、私は彼を避けることを選んだのだ。
おそ松さんと口を聞かずに、もう2日が経とうとしてる。
好きな気持ちが大きいほど、対処の仕方が思いつかなくて、1人で雁字搦めになる私。
このまま気づかないふりして過ごせばいいのかな。それとも、何も言ってくれなかった彼に別れを切り出す?そもそも、あの女の子は彼の恋人なの?今でも彼は彼女のことが好きなの?一度考え出すと雑念となって、心を支配する。
結局、会社を出たのは21時前だった。疲労感を抱えたまま私は帰路に続く。
アパートの前までたどり着いて、でも、正面をスルーして、裏手に回る。ベランダの塀をよじ登って、開けておいた窓から自室へと忍び込むそれは、まるで泥棒のように見えるだろう。玄関からは帰れない。だって、彼がいるから。
ローファーと通勤カバンを床に置き、戸を閉めようと振り返ったところで、私はその人と目があってしまった。夜風のせいでカーテンがひらひら靡いてる。
「……ふーん、なまえちゃんはそうまでして俺に会いたくないんだー。」
「おそ松さ、ん。」
そのへんに赤いスニーカーを脱ぎ捨て、ぴしゃりと窓を閉めきって、2人きりの空間は以前に比べ重苦しい。それは彼が明らかにイラついた表情を浮かべていたせいもあった。
「不用心だよねぇ〜都会の一階のアパートの窓開けっ放しとかさぁ〜」
「え、」
「ちょっと来い、」
腕を引っ張られて、そのままベットの上に叩きつけられた。馬乗りになられて、彼の冷たい目が私を見下ろす。
「田舎と違ってさぁ〜こっちは危ないやつ多いんだよ?」
衣服の中に彼の手が入ってきて、何をされるのか察した私は、ただ、ただ、恐怖しかなかった。
いつもの優しさは微塵も感じられない。目の前にいるのは、知らない人。
やめて、と言いたいのに、掠れてしまって声が出ない。いや、出せない。でも、底にある勇気を全部振り絞る。
乾いた音が部屋に響いて、震える手を振りかざして、彼の頬を思いっきり叩いていた。
「か、帰って、」
「………帰ってください!」
出てきたのは彼を突き放す言葉。本当はそんなこと言いたくないよ。本当はもっと話すべき事があること、ちゃんと頭では理解してるのに。
後からぼろぼろと目から雫が溢れだす。あと何十回泣けば私の涙は枯れてくれるのだろう。
彼のこと、好きにならなければ、出会わなければお互い傷つかずに済んだのかな。
きっと、私は自分のことばかりで、彼の苦しみに少しも気づいてあげられなかった。おそ松さんがどれだけ私のことを考えてくれてたかなんて、知るはずもなかったの。
抱き起こされて、赤いパーカーに包まれる。好きな人の匂い。酷いことされようが、好きな気持ちは変わらないことを抱きしめられて再確認する。
よしよしと子供をあやすように、彼の手が私の頭を撫でた。
「……何やってんだろうな、俺。本当、ごめん。」
ごめんねをいうのは、本当は私の方だったよね。
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