「……ねえ、なまえちゃん」
「なーに?」
「俺さ、やっぱり世界で一番なまえちゃんのこと嫌いだわー」
お皿洗いをしている私のすべての動作がぴたりと止まった。後ろから聞こえた声は聞き間違えだろうか?
いや、彼ははっきりと嫌いだとそう言った。
泡だらけの手のまま、じょろじょろと水道水の流れる音だけが部屋に響く。
顔だけ、後ろにいるおそ松くんの方へと振り向けば、彼はソファーに寝転がり、ポテチを食べながらパチンコ屋のチラシを眺めてた。私のことは見てもくれない。
「あの、」
「だから、嫌いだって、」
ただいまのキスしたのは4時間くらい前で、一緒にお風呂に入ったのは3時間くらい前のこと。らぶらぶだったよね…?
1時間前、ご飯食べてる時も普通だった。おそ松くんの職場の佐伯さんが今度熱海旅行をするだとか、葉月さんのところにお子さんが生まれたとか。私は上司に褒められたこととか、同期の櫻井さんが彼氏と喧嘩した話とか。夕飯のときは1日の出来事を報告し合おうと決めていて、それでお互いの干渉できない時間も共有するの。
同棲をし始めて、あっという間に2年が経ったけど、ルールを決めてうまくやってこれたと思っていたのは、私の方だけだったのかな。家事に関しては、私の専属なのだけど。もしかして、この前、たまにはおそ松くんにやってほしいなーってお願いしたのがいけなかったのかな。
まるで石になったみたいに、うんともすんとも言わない私に、おそ松くんはしびれを切らしたのか一つ溜息をついた。
「……もうさっ本気にするなって!今日なんの日かわかるっ!?」
「あ、」
時計の横にかかっているカレンダーに目をやれば、すぐに思い出した。
4月1日、エイプリルフール。今日は嘘をついていい日だ。前々から思っていたけども、おそ松くんは無駄に演技が上手い。今だって、おそ松くんの表情から流れる緊迫した空気まで、演技には思えなかったの。
つまり、私はまた、騙されてしまった。
おそ松くんがイベントごと好きなのはよく知ってるし、嘘だったことはよかったけど、とても複雑な気分は変わらない。私は黙って、洗い物を再開する。
「もしかして、怒っちゃったー?」
「怒ってはないけど、」
いつの間にかおそ松くんは私の真後ろまで来ていて、お腹に回された腕にしっかりと抱きしめられる。耳元に息を吹きかけられて、くすぐったいけど、もぞもぞと身体を動かすことしかできない。
早く、洗い物終わらせよう。
なまえちゃんも何か嘘ついてよって言われて、「おそ松くんのこと大っ嫌い!」ってお返ししてあげようかと思ったけども、冗談でも口にはできなかった。だって、超大好きだもん。
「じゃ、じゃあ、私、明日から実家帰りますっ!」
「無理でーす!絶対帰してやんないし。」
抱きしめる力が強まって、嘘だって知ってるのに頬を膨らますおそ松くんがかわいい。
帰るわけないじゃん。だって、私の居場所はもう、おそ松くんのそば以外ありえないもの。絶対、離さないって決めてるもん。
きゅっと蛇口を閉めて、タオルで水滴を拭き取ってから、いいこいいこっておそ松くんの頭を撫でてあげた。相変わらず、おっきい子供みたいだな。
彼はなにか思いついたのか、にやりと悪戯っ子のように笑ってる。今度は真正面から、背中に腕を回して、私を抱きしめた。
「俺ねーやっと社員になっちゃったわけよ!やばいよね!だから、今日籍入れちゃおっか!??」
「もーおそ松くん!それも嘘なんでしょ!?」
もう騙されないんだから。冗談だろうことは彼の話し方で察して、本当だったら嬉しいけど、エイプリルフールだもんね。彼の目を見て、彼と同じように私も笑って見せたのに、急に真顔になって「ねえ、時計見てよ?」と囁かたから、私は右上にある壁時計に目をやった。
………現在時刻、24時5分。今日は4月2日。
気がついたら、エイプリルフールはもう終わっていた。温もりから解放された私は、その意味を考えてみる。つまり、それは嘘じゃないってこと…?
「うん、これは嘘じゃないよ。」
ひとつ、唇にに柔らかい感触が当たる。キスをしてから、おそ松くんはなにやらポケットから取り出して、それを私にへと差し出してきた。
「はいっ!それじゃ、なまえちゃんもこれに名前書いてっ!」
「え、」
本物は初めて見る。その白い紙は、私とおそ松くんを一生結んでくれるもので、すでにそれには「松野おそ松」の名前と彼の母印が押してあった。妻になる人の欄に、私の名前が入るんだ。なんだか、現実味がない。おそ松くんが私に結婚しようって言ってくれたのは同棲する前のこと。一緒に暮らしてるだけで幸せで、でも、やっぱり女の子にとって好きな人のお嫁さんになるのは憧れで、本当はいつ約束果たしてくれるんだろうってちょっと心配してた。
「……待たせてごめんね。」
「ううん、」
「でも、まあ、俺カリスマレジェンドだからさ、守れない約束はしないよっ!?」
ごしごしと鼻を擦るくせは、彼の照れ隠しなのはもうよく知ってる。
嬉しすぎて、じわじわとに涙が溜まっていく。それが溢れるよりも先に彼は再び私を抱きしめて、明日、役所に一緒に出しに行こうと、君は歯を見せて笑った。
「なまえちゃんの人生、俺が全部もらうから!代わりに俺の人生をなまえちゃんにあげるから!」
「うん、喜んで!」
ついに私も松野さんって呼ばれる日が来るんだな。松野なまえになるんだ。組み合わせて、しっくりくるのはそれもまた運命なのかな。
想像しただけで、にやけてしまう。早く朝にならないかな。
ねえ、おそ松くん、もう一生離してあげないからね。