それからのこと
なまえちゃんと一緒に暮らすことになった。
彼女を1人にしないために、彼女を幸せにするために。まあ、それが亡くなった彼女の父親の望みであったわけで、それから僕自身の望みでもあるわけで。
築20年、二階建てのアパート。駅から10分。僕らの実家へは歩いて30分程度。なかなかの好物件だと思う。実家から近いのは彼女の希望。僕的にもそれは有難いこと。何かあれば、すぐに兄弟たちに相談しにいくつもりだし。ってもトド松かチョロ松兄さんくらいだけど。 あ、おそ松兄さんだけは絶対にありえない。
これからのこと、僕1人で抱えきれるとは思えないし。え、頼りないって?そうだね、でもしょうがないよ。ゴミクズは健在ですから。
引越しは無事に終わり、今日からこの部屋で2人で生きていくわけで、まだ片付け終わってないダンボールがいくつか詰んでるある。比較的荷物が少ないから、全部終えるのにさほど時間はかからないだろう。
「あーもうヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。」
一緒に暮らすにあたって、一つ心配事といえば、僕さ、緊張しすぎて死ぬんじゃないかって思ってるんだけど。
今だって手汗がひどい。それから額を流れる脂汗も。今ここで脱糞もできそうだし、いや、さすがにしないけど。
実際、緊張しすぎで死ぬとかあるの?
基本引きこもりだったから、女子に対しての免疫なんて全くもってないし、ましてや相手は好きな女の子。彼女と同じ空間の空気吸ってるだけでも、ばくばくしすぎて心臓が痛い。やばいよ、これ、破裂するよそのうち。
あーもうゲロ吐きそう。好きすぎて、辛いんですけど。
「しろ、おいで」
「にゃー」
癒しを手に入れるべく、そいつの名前を呼ぶと素直にやってきた。しろを抱きかかえて、ぷにぷにの肉球を触る。
とりあえず落ち着かないと。大きく深呼吸でもしとけばいい?
あ、紹介遅れたけど、僕たちには同居猫がいる。それはあの公園にいた白いもふもふ。こいつの名前はなまえちゃんと同じだったけど、「しろ」に決定した。どっかの園児アニメの犬と同じ名前。まあ、由来は白いからで、名付けの親はなまえちゃん。
しろは僕となまえちゃんを引き合わせてくれた、キューピッドと言っても過言じゃないしね。
あの日から、もう半年が経とうとしてる。
ちなみに僕となまえちゃんはキスすらしてない、超がつくほど清いお付き合いをしている。つーか、キスもセックスもまだなのに、同棲ってさ、やっぱり順番おかしいと思うんだけど。なにこれ、生殺しの刑なの僕。
おそ松兄さんは僕が実家を出る日に「男になれ、一松。頑張るんだ!」と謎の激励を送ってきたっけ。
で、がんばるって、何すればいいの?
「…っ!?」
ぴくりと肩が揺れるのは、浴室の方から扉の開く音がしたから。そうそう今まで僕がソファーでゴロゴロしてる間、ずっと彼女は風呂に入って、ちょうど、いま出てきたみたい。そんで、数メートル先で、彼女の生着替えが行われてるわけ。なまえちゃんの裸を上から下まで脳内で再生できるのは、もうそれは雄だから、本能ってやつだから許してほしい。
ふと、僕は当たり前のことに今更気がついた。
……ちょっと、待って、僕、彼女が使ったあとの風呂場使うの?
彼女がシャワーを浴びたそこに僕も足をつけるわけ?彼女が浸かった湯船に僕も浸かるわけ?
は?
意味わからないんだけど、なにそれ、天国?想像しただけで、やばい。
興奮のあまりに、しろを抱きしめすぎて、苦しかったのか、思いっきり噛みつかれた。普通に痛いし。手加減してよ、しろ。
「…一松くん!次どうぞ!」
「あ?」
僕がぐだぐだしていると、いつの間にかなまえちゃんは風呂から上がっていた。
そんでもって、君はいちいち僕を刺激する。
ちょっと待って、今度はなんなの。パジャマ可愛すぎなんだけど。なんでフードに猫耳付いてるの?しかも、ふわっふわの素材。めちゃくちゃ肌触り良さそうだし、つーか触りたすぎて指がピクピク動くし。もういっそ抱きしめたいし。
しかも、濡れた髪がエロいし、生足出してるし。目のやり場に困ってしまって、挙動不審すぎるくらい、目線をきょろきょろと動かす。なにそれ、だれとく?僕得?いやいや、そういうのいらない。
あーもう自然発火しそうだよ。
無意識にため息が漏れるのは、この先やっていける気がしなくなってきたから。
「あの、一松くん…?」
「なに」
「…一松くん、もしかして、怒ってる?」
「え、」
「今日1日、ずっと、そんな顔してる。」
ちょこんとカーペットの上に正座して、僕のこと見上げる君。こちらを伺うような彼女の態度に、ほんの少しだけ冷静さが戻ってきた。
……あれ、もしかして僕、そんなに不機嫌そうに見えてた?
なにか嫌なところあったら、直すよって。君は優しいから僕を優先に考えてくれる。でも、僕が今ここにいるのは、ワガママを言いたいわけでも、君のこと困らせたいわけでもない。僕も君と同じように座って、真っ直ぐに向き合った。
前々からそうだ。僕は思ったことを口に出さない。それで君を散々悲しませてきたよね。
人に気持ちを伝えるのは、コミュ障には難題すぎて、でも、それでも言わなきゃ伝わらない。
「ごめん、その、違くて、」
「うん?」
「緊張、してるだけだから、その、」
僕の言葉を聞いた瞬間に、安心したのか君に笑顔が戻る。私もだよって。ずっと、どきどきしてるよって。だって、一松くんのこと大好きだからって。
なんで、そんな恥ずかしい事言えちゃうの?言われた僕の方が、顔赤いんじゃないの、これ。
「今ね、一松くんと同じ気持ちなのが、嬉しいの!」
僕の好きな、彼女の笑顔はやっぱり眩しすぎるくらい。
ああ、もうさ、ずるいよそんな顔するのは、抱きしめたくて、仕方なくなる。
ふわふわのパーカー越しに、君の体温を微かに感じる。それから、お風呂上りの匂い、ボディソープの香りがする。
「…無防備すぎなんですけど。僕、なにするかわからないよ、ほんとに、」
「んとね、私ね、一松くんになら、なにされても嬉しいよ。」
あー殺し文句ってやつっスか。もう可愛いすぎる。しばらく見つめ合って、彼女が瞼を閉じる。その意味を察して、でも、僕にそんな勇気ない。ないけど、ここで、しなきゃ男じゃないよね。
無駄に身体が強張るし。死ぬ死ぬ死ぬ。あーほんと、死にますから。落ち着いてください、僕の心臓。
覚悟を決めて、僕も目を瞑る。
ほんの一瞬触れるだけのキスをした。
「一松くん、不束者ですが、これからもよろしくお願いします。」
「こ、こちらこそ、」
思わず自分の頬を抓ってみる。うん、やっぱり夢じゃない。
ああ、ほんとうに、僕は一生、君のこと好きすぎる病気を患い続けるんだなって、
僕は1人、この感情と付き合うための覚悟を決めた。