日曜日、一番上の兄がふらりと帰ってきた。
かと思えば「なまえ、ちょっと付き合って」と声を掛けてきたから、買い物でも行くのだろうと二つ返事で頷いたのだけれど。


「ナイッサー!」
「オッケー!もういっぽーん!」
「前っ、前出ろ!」
「足動かせ!足!」

気付けば、わたしはバレーボールの飛び交う体育館にいたのだった。なんでかな。

「兄ちゃん?」
「うん?お、堅治よく拾ったな今の。見た?」
「えっ、見てない」

「はい、集中ー」なんて体育館の二階観覧席で、階下に広がる光景にちゃんと目を向けるよう兄に促される。
え、ああ、うん?うわ、すごい跳ぶなあ、じゃなくて。

わたしは伊達工の生徒ではないし、堂々としているが兄もOBではない。況してや保護者でもなんでもないのだけれど、伊達工の体育館で伊達工バレー部の練習試合を観戦している現在。
不思議な状況ではあるがしかし、こういうことは何も初めてではなかった。

小中高とバレーボールをプレイヤーとして経験してきた長兄が、同じくバレーを続けている近所の男の子の活躍を応援しに行こうと思うのは至って自然なことらしく。
それ自体は全然構わないのだけれど、だからといってそれにわたしが付き合う必要はあるのだろうかと毎度疑問に思っている事を、果たして兄は知っているのだろうか。……知ってるんだろうな。知った上で付き合わせる、そういう人だ。
次兄より優しくて兄「らしい」のだけれど、物腰の割に強引なところがあるのが我が家の長兄なのだ(次兄は基本的に愉快な暴君である)。

ちなみに、余談ではあるが次兄は昔からサッカー部で元気に走り回っていた。
兄二人とも運動能力に優れ、スポーツで進学したというのに末のきょうだいであるわたしの惨憺たる実力とはこれ如何に。
自分で言っていて悲しい限りである。


あれこれ言ったけれど、わたしはスポーツ観戦自体は嫌いではなく、そもそも体を動かすことだって強制されなければ好きなのだ、出来る出来ないは別として。
知り合いが活躍しているとなれば尚のこと、観ていて面白いし、その姿には尊敬の念を覚えもする。

そうしていつの間にか夢中になって試合の行方を追っていれば、弾かれて不意に大きく跳ね上がったボールが二階ギャラリーまで真っ直ぐに吹っ飛んできた。
運の悪いことに、わたしの居る場所に直撃するコースだ、これはまずい。
そう頭では理解出来てもそれを華麗に躱す身体能力なんてわたしには備わっておらず、目を瞑ることさえままならないでいると、眼前にバッと手が飛び出してきて次の瞬間にはバチンと派手な音が弾けた。

「スンマセン!」
「おー、頑張れ」

ようやく瞬きをした後、隣の兄を見れば階下に向けてひらひらと手を振っていた。「……兄ちゃん?」「ん?」「反射神経、すごいね」「そう?」そう笑ってわたしの頭に軽く触れた長兄に、これがもう一人の兄だったら「そりゃお前に比べればな」と一言余計な台詞を付け加えただろうと想像して、脳内の暴君に人知れず呆れた。



「なまえ!」
「舞ちゃんっ」

試合は伊達工の勝利で終わった、らしい。
観ていたはずなのに、すごいすごいという気持ちばかりが先行して試合の内容はいまいち把握出来ていない。いつものことだ。

練習試合が終わり、今日はもう解散らしい流れの中、いつの間にやら用意していたのか、OBでも保護者でもないのに差し入れと言ってゼリー飲料やらアイスやらを配る兄について仕方なしにフロアに降りた。
……クーラーボックスを持っていたのはそのためか。なんて用意周到なんだ、下手をすれば怪しい男である。──といってもまあ、これも初めてのことではなく、部員の方々は「二口の兄」と認識している人も少なくないようで兄は顔が割れていたし、かく言うわたしも「二口のご近所さん」として何故だか彼らに覚えられている、らしい(だったらわたしと兄の関係はどうなるのか)。おかしな話だ。
男子バレー部のマネージャーである滑津舞ちゃんとも気付けばお互いを名前で呼び合える程の仲になっており、まあこのことに関してはうれしいので言うことはないのだけれど。

「久しぶり!さっき大丈夫だった?ボール当たってない?」
「さっき……、ああ!大丈夫、お騒がせしまし、え、痛い」

先程の「ボールあわや直撃」を心配してくれる舞ちゃんの優しさと、やはり見られていたのかという気恥ずかしさから照れつつ答えていると、不意に頭を上から鷲掴みされた。
え、いや何、誰ですか。
突然のことに強張った肩をそのままに、そろりと斜め後ろを振り仰げば、真顔でわたしを見下ろすご近所さんと目が合った。

「ああ堅治か……、えっ、なんですか」
「…………」
「ええ、ほんとになに」

よく考えなくても、こんなことをするのは堅治以外この場にいないよなあと内心でうんうんと頷きながら、いや何故鷲掴む必要が?と疑問を投げつけても彼は相変わらずの無言である。かと思えばパッと手を離してそのままわたしに背を向けスタスタとどこかへ行ってしまった。

なんですかあの人。
わたしが勝手に練習を見に来たのが癪に障ったんだろうか、いや不可抗力なんだけども。
困惑しながらその背中を凝視していると、「心配したんじゃない?」と笑いを含んだ声が耳に届いた。小原くんだ。心配って、何を……、ああもしかしてさっき舞ちゃんが気に掛けてくれた事と同じ事を、だろうか。そんな素振りは全くなかったように思うけれど、もしそうなのだとしたら。

「……心配の仕方おかしくない?」
「……まあ、うん」

会話を聞いていたらしい女川くんが、ふすりと吹き出したのが聞こえた。


「伊達工バレー部の堅治」を見ていると、なんだか少し不思議な気分になる。
今より幼い頃から彼のことは少なからず知っているけれど、わたしやわたしの兄と接する時の彼と、こうして外で友人や部活仲間と接する彼はどこか違うように思う。
わたしだって家と学校での姿が全く同じなんてことはないし、まあ当然といえば当然なので、だから何だという話ではあるけれど。

今更ではあるが、部外者が他校の体育館に居ることがどうにも気が引けて、ひとり体育館の外に出た。扉に背中を預けて、兄が用事を終えるのを待つ。

「あー、えーっと……なまえ、ちゃん?」
「は、はいっ」

まだ梅雨すら迎えていないのに、もう暑い。子どもの頃は、今の時期、もう少し陽射しが柔らかかった気がするなあなんてどうでもいいことをぼんやりと考えていたら、不意に声を掛けられ、途端に意識が引き戻される。
驚きと動揺を悟られないようゆっくりと瞬きをしてそちらへ顔を向ければ、扉から顔を出している鎌先さんと目が合った。

「あー、大丈夫か?そこ、暑いだろ」
「え、ああ、大丈夫です!すみません、部外者が突然押しかけて」
「いや、こっちもいつも差し入れ貰って悪いっつうか、」
「鎌先さーん、何なまえにちょっかい出してんスかー」

唐突に飛んできた耳馴染みのある声に、思わず鎌先さんとふたりして顔を見合わせる。
まず初めに、先輩に向かってなんてことを言っているんだあの後輩は、とぎょっとしてそれから、体育館の中で青根くんや茂庭さんとワイワイやっていたのにこっちのことも視界に入っていたのかとびっくりした。
「はあ!?おい二口っ、誰がだ!」鎌先さんを怒らせた本人はけらけらと愉快げに笑っていて、それを咎めるためか青根くんにキュッと顔を潰されている。
運動部の上下関係ってもっとカッチリキッチリしたものかと思っていた、いや堅治が特異なだけなのかもしれないが。

「ごめんな、鎌ち女の子慣れてないから」
「え、いえ、こちらこそ二口くんがとんでもない口の利き方をして申し訳ないです?」

「ハテナついてんな」とカラカラ笑った笹谷さんにつられて、こっちも笑ってしまった。



「なんでお前居たの」

今日は兄が夕飯を作ってくれるというので、お米だけ研いでゆとりと一緒にソファに転がってテレビを見ていたら、無遠慮に人の顔を覗き込んで見下ろす輩が登場した。
突然のことに少なからず驚いて、何を返すでもなくその顔を見つめていたらわたしの膝に乗っていたゆとりをひょいと攫われてしまった。
「堅治、お前夕飯食べてく?」「いや、すぐ帰るから大丈夫」「そっか」台所から顔を出した兄がすぐに引っ込む。

「え?じゃあ何しに来たの」
「お前人のこと集りだとでも思ってんのか」
「うん?うん」
「うん、じゃねえよ。それで?」
「? なにが」
「お前は鳥頭か?」
「ひどい悪口だ」
「鳥に対してな」
「ひどい悪口だ!」

どかりと勝手にソファに腰掛けた堅治に、思わず身体を起こして抗議をすれば鼻で笑われ、会話を聞いていたらしい兄には声を上げて笑われた。腹立たしい。
言い合ったところで彼に口では勝てないことが長年の経験でわかっているので、いや腕っ節でも勝てないだろうけどとにかくもう自分の部屋に引っ込んでしまおうと思い立って、ソファから立ち上がろうとしたのだけれどそれを見破られたのか、腕を引っ掴まれてバランスを崩したわたしはどういうわけか顔面をソファに打つけることになった。
本当にどういうわけだ?

「っ兄ちゃーん!!堅治が!ひどい!」
「ソファ壊すなよー」

ひどい。

「はー、笑ったわ。お前今日どんだけ顔面打つければ気がすむの?」
「誰のせい?しかも、どんだけってなに!さっきの一回しかぶつけてない!」
「いや、ボール顔面食らってたろ」
「ボー、ル……?」
「マジで鳥頭か?」
「あれか!あれは食らってませんけど!」
「ちなみに飛ばしたの青根」
「青根くんか……、スゴイよね。腕相撲めちゃくちゃ強そうだなって、いつも思う」
「…………」
「? なに」
「いや、やっぱなまえ今日猫被ってたよなって思って」
「えっ、唐突に失礼。被ってない」
「こんなにうるさくなかったろ」
「誰がうるさくさせてるの?堅治だって猫被って……、はない、けど!なんかこう、違ったでしょ」
「は?どこが」
「……どこがだろうね?」
「はあ?そんなぼんやり生きてるから鎌先さんにちょっかい出されんだよ」
「ちょっかいってなに、それ関係ある?鎌先さんいい人だよ、堅治も好きでしょ」
「はあー?」
「なまえ、ご飯出来たから準備してー。もう堅治も食べていきな」

舌を焼くレモン


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