正に春の嵐だった。


母はわたしたち家族に見守られながら、息を引き取った。といっても最早喋れるような状態ではなく、一日のほとんどを寝て過ごしていたから、その眠りの延長線上のようにすうっと母は深い深い眠りについた。
ちょうどその一週間前、夕飯の焼き魚を思い切り焦がしたわたしを見て「まだ死ねないなあ」と穏やかに笑っていたのに。


その翌日、葬儀を行った日は一日ひどい天気だった。
雨風が強く木々は揺れ、つい先日長い冬を終えて花を咲かせ始めた桜が散ってしまいそうな程に大荒れで、自宅からの出棺も一苦労だったらしい。
ゴウゴウと凄まじい音を立てる外の様子をぼんやりと眺めていたら、父がわたしの頭に手を置いて「がんばったな」とぽつりとそう零した。それはすっかり目の下の隈がお馴染みになってしまった父の方ではないかと思ったし、何よりがんばっていたのは母だ。
けれどそれは口に出さず、わたしもその背中をひとつぽんと叩いておいた。


葬式とは、なんとも親族の心が休まらないものだなと思う。
母との日々を思い返す暇もなく式の段取りを決め、次から次へと参列してくれた人々へ挨拶を返し、その人たちが語る「母」の話を聞き。

涙は出なかった。

それぞれ兄弟の学校の生徒や先生方も来てくれて、涙を流して悼んでくれる人やわたしたち家族を励ましてくれる人もいたのだけれど、それでもわたしにはどこか現実味のない光景に思えて仕方なかった。
そんなわけがないのに、どう足掻いたってこれが現実なのに。母はそこに存在するのに、もう口を開くことも笑みを浮かべることもないのだ。ちゃんとわかっている。

それでもひとり、白昼夢を見ているような気分でいた。

けれどふと視界に映り込んだ、いつもよりどこかきちんと制服を着て、唇を噛みしめるように下を向いていた彼の姿に、わっと周りの景色と音とが一瞬にして戻ってくる。吐き気がしそうな程、心臓が激しく暴れ出したのがわかった。
そして目が合った瞬間。喉がぐっと苦しくなり、視界が滲んで歪み、涙が止めどなく溢れてきた。
それはわたしだけではなく彼もまたくしゃりと顔を歪め、目のふちに水を溜めていた。

堅治だ。堅治がいる。
じゃあこれはやっぱり疑いようのない現実で、事実で、夢であるわけなんてないのだ。
確かな実感を得てそれから、お互い額を付き合わせるようにして泣いた。声を殺すようにして泣く彼に対して、わたしはたがが外れたように声を上げてわんわん泣いた。
慟哭と呼ぶに近いそれに周りも感化されたのか、あちこちから啜り泣く声が聞こえてきたような気がしたけれど、ほとんど覚えていない。
わたしはただひたすらに、泣いた。


通夜の翌日は前日の天気が嘘のように青空が広がっていて、水溜りに映る太陽がきらきらと光を反射し、泣き腫らした目にひどく痛かったのを覚えている。

ろくに眠れず、夜があったのかもよくわからず、そんな覚束ない状態でふらふらと葬儀場の外に出てそこにある桜の木をひっそりと見上げれば、やはり花は多く足元に落ちてしまっていた。
けれどそれと同時に新たに綻び始めた蕾も見つけ、ああよかったなと感傷に浸ってしまったのか馬鹿に目頭が熱くなる。泣きたいわけではない。昨日あれだけ散々泣いたのだ、そんなわけがない。
じっと拳を固くして静かに呼吸をしていると、不意に誰かが隣に並んだ。その人は何を言うでもなくわたしと同じように、ただ静かにそこにいた。
先に口を開いたのはわたしだった。

「……堅治」
「……ん」

大丈夫って言って

桜の木を見上げたまま、視線を向けずに放った唐突で突拍子のないそれだけの言葉を、彼はちゃんと拾ってくれた。

「大丈夫。なまえは大丈夫だから、泣くならちゃんと泣け」

拳を握っていた手の力がすとんと抜け落ちて、結局わたしはまた泣いてしまうのだった。



「あっ、もしかして背の高っかい男の人って堅治のこと……?」
「は?なに」
「背の高い彼氏……?」
「なんだよ」

買い物を終え、なんだかんだで今日の夕飯はウチで食べていくらしい彼は、のそのそと寄ってきたゆとりを指でつつきながら不思議そうな顔をしている。
わたしは料理部の子に言われた「わたしの彼氏」の正体を考えて、ひとつの可能性にたどり着いた。
わたしが面識のある背の高い男の人ってそもそも、家族以外では堅治くらいだもんなあ。そういえばつい最近、出先の駅で一緒になったような気もする。それを見られていたんだろうか。

「え、全然気付かなかった……」
「お前さっきからなんなの?」
「いや、なんか学校の子が……、なんでもない」
「絶対なんかあんだろ」

別に大した話じゃないし、いいや。
ホントになんでもないと首を横に振れば呆れたような目を向けられたけれど、それ以上何事かと訊かれることはなかった。代わりに、少しの間を空けてから「……学校はどうなんだよ」とぼそりと小さな声が耳に届く。

「? どうって」
「……うまくやれてんのか」
「いつから堅治はわたしの父さんに……?」
「なんでだよ。お前が鈍臭いから心配してやってんだろが!」
「少なくとも堅治みたいに口の悪い人はいないですね」
「あ!?」

人に面と向かって「鈍臭い」と言ってくるようなデリカシーのない人もいない。
……まあ、よく何もないところで足をもつれさせるわたしに対して「ちゃんと脚上がってんの!?筋力どうなってんだ!」「何回目!?逆にすごいよあんた」「今からこんなんで私、なまえの老後が心配」なんてげらっげら笑ってくる人はいっぱいいるけれど。あれ、「鈍臭い」も言われたことあるような気がしてきたな。

わたしが通う女子校はここから少し遠い所にあって、地元の中学からその学校に進学したのはわたし一人だけだった。

何かしたいことや目的があったわけではなく、当初はなんとなくで地元の公立高校に進む予定だったのだけれど、母が亡くなって周りの様子がやはりどこか少し変わって、気を遣われるのも、気を遣わないよう気を張られるのもなんだかとても面倒臭くなってしまって。
まるで腫れ物を扱うような空気に、まあそれも仕方ないかと頭では理解しつつなんだか本当にその雰囲気が空気が関係が、面倒で仕方なかった。
だから同じ中学の子が誰もいかないような、少し離れたところにある女子校を選んだ。

そこに行きたいのだと初めて口にした時、父は自分でそう決めたならと、ただそれだけ言って頷いてくれたのを覚えている。
きっと不純な動機であることを、少なからず察していただろう。
そして、早々に伊達工業への進学が決まっていた堅治にはといえば、そのことを言うのをすっかり忘れていた。

「は?女子校?」
「うん」
「なんで」
「制服がかわいいから……?」
「疑問形かよ。ホントは?」
「制服がかわいいから!」
「誰が元気に言い直せっつったよ」

思えば、堅治は堅治のままだった。
お互いをそこそこ幼い頃から知っているから、少なからず心配はさせただろうと思う。けれどそれでも彼は、今まで母のこなしていた分の家事をいくつかするようになったわたしに対して、普通に「ヘタクソ」とか「おばさんの足下にも及ばない」とか、本当に普通に言ってくる。
その言い種に勿論腹は立ったけれど、一方で思った。
ああ、普通に母の話をしてもいいのだ、そこに涙を混ぜる必要はないし、曖昧な笑みで誤魔化す必要もないのだと。

「学校ね、いい感じだよ」
「…………」
「普通に普通。それなりに楽しいし、それなりに嫌だし」
「それなりに嫌ってなんだよ」
「体育がね、もうね、ほんといや」
「……鈍足鈍間は大変だな」
「しみじみ言うのやめてくれる?」

自分がちょっと運動出来るからって。「お前の飼い主はな、笑っちゃうくらい足遅えんだって。知ってた?」ゆとりに何を教えてんだ。

「ただいまー、なあ母さんとこにあるシフォンケーキなに?」

運動は別に嫌いじゃないのにそれを強要されるのは本当に困る、なんて口を尖らせているとリビングのドアが開いて二番目の兄が顔を出した。先に和室にある母の仏壇を覗いてきたらしく、目敏くそこにあげてあるケーキのことを口にする。

「おかえり」
「なあ、どうしたあれ、って堅治来てたのか。よっ」
「お邪魔してまーす。あれ、なまえがつくったやつだってさ。俺胃薬買ってこようか?」
「マジ?なまえ、あんなんつくれるようになったのか……、よし堅治、一緒に薬局行くぞ」
「二人ともそのまま外で夕飯を召し上がってどうぞ」
「ごめん、ごめんなまえちゃん!兄ちゃんはお前の料理好きだよ!昨日の夕飯の味付けはちょっと薄かったけど!」
「ヘタクソでごめんなさいねーっ!!」

いや堅治笑いすぎだし、シフォンケーキはほとんど料理部の人たちの手柄で出来てるし、謝るならいまのうちだからな。

とまどいだらけの歩き方でも


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