神も仏も無いのだと悟るには十二分だった。


母が病を患っていることがわかったのは、今から四年前の夏のことだ。

学校は夏休み中で、その日わたしは部活動のために登校していた。
本当になんてことのない至って普通の、いつも通りの一日で、けれど部活を終え家に帰って居間に顔を出せばそこには何故か父の姿があった。今朝は仕事のために家を出ていたのを知っていたし、休日以外でこんな明るい内に家にいることはそうない。
反対に、今日は夕方には家に居ると言っていた母の姿がなかった。
あれ?と疑問に思ったのと同時に、なんだかとても嫌な予感を覚えたわたしに対して、目が合うなり父は「大事な話がある」と少し震えた声で言ったのだった。

瞬間的に、その予感はますます大きくなる。

一体何事だろうか。
何もわからないけれど心臓が早鐘のように騒ぐ中で、当時大学生だった一番上の兄と高校生だった二番目の兄の帰宅を、息を殺すようにして待った。
そうして兄弟三人が揃ってから父は、母が病を患っているのがわかったこと、それに伴う余命宣告を受けたことを口にした。心臓がより一層大きく鳴って、口の中は一瞬でからからになった。

ガツンと頭を強く殴られたような衝撃を受けた一方で、ああ近頃母の体調が思わしくなかったのはそのせいだったのかという妙な納得と、もっと早く病院に行くよう言えば良かったというひどい後悔と、漫画かドラマみたいだなという現実味の無さと。
いろんな感情がごちゃごちゃになって、全身の力が抜けた。

告げられた数字はあまりにも短く、到底心が追いつくわけがなかった。
母が、もう長くない。今年の冬どころか秋ですら越せるかわからない。

あまりにも唐突な話に、これはタチの悪い夢だろうかと思ったところで、しかし紛れも無い事実であった。いっそ夢であったなら。
すぐにでも泣いて叫び出したい衝動に駆られて、けれどそれをぐっと飲み込んだ時、ぱっと堅治の顔が思い浮かんだ。
彼ならこのどうしようもない気持ちをどうにかしてくれそうだと、そんな抽象的で漠然としたことを考えて、でも言えないと、思った。突然そんなことを泣きながら言われたって、困るに決まっている。
結局どうしようもなくて、その日は兄弟三人でぼろぼろ泣いた。父の「覚悟しておきなさい」という絞り出したような一言に、頷きたくない、認めたくないと思いながらもゆっくりと首を縦に振るしかなかったのだ。


母はそれから何度か手術を繰り返し、わたしたち家族は行ける限り母の居る病室へ顔を出した。
母はどんどん痩せていった。
母だけでなく、父も目に見えて疲弊していったし、兄たちも決して弱音を吐きはしなかったけれど元気という姿からは程遠かった。
落ち込んでいたって仕方ない、自分は自分の生活を全うしなくては。そう頭では理解していても、やはり心が追いついてきてくれなかった。当時から同居していた父方の祖父母が、いろいろと生活面においての手助けをしてくれなければ、きっといろんなことがままならなかっただろうと思う。


宣告された余命期間を過ぎても、母はまだわたしたちの側にいてくれた。
ただ、眠ることが増え、身体もぐんと小さくなってしまったけれど。
かくいうわたしも、友人や近所の人に「痩せたね」と無邪気に言われることが増え、その度に曖昧に笑って誤魔化すようになっていた。

「お前最近ダイエットでもしてんの?」
「え?痩せた?」
「………」
「何で黙るの」

結局母のことは堅治にも、誰にも言えなくて、ある日唐突にそう口を開いた彼に内心どきりとした。「……痩せてねえよ」自分からダイエットどうこう言ってきたくせに、けっと吐き出すようにそう言った彼に笑えば、その眉間にますます皺が寄った。なんでよ。

「お前、」
「うん?」
「………」
「? なに」
「っあー!顔色悪いんだよ!ちゃんと食ってんのか!」
「うわ、びっくりした、声でっか」
「食え!」
「何を」
「飯!ダイエットなんてなあ、お前がしたってガリッガリになって見すぼらしいだけだっつの!」
「…………っひどい、」
「あ!?」
「っわたしは、わたしなりに、がんばっ、て……っ」
「……っあー、悪かった!ごめんって、泣くなよ!でもな、」
「………っ」
「……おい、笑ってんなよ嘘泣き女」

けらけらと声を上げて笑えば、笑いすぎたせいか気付けばわたしの目尻には涙が溜まっていた。


その年の冬も終わろうかという頃。

母が病気であると、わたし自らその話を伝えていたのは学校のクラス担任にだけで、その先生にも無暗に誰かに言うことはやめて欲しいと言っていたのだけれど、そういう話は気付かない内に回っているものらしく。
クラスの男子に声を掛けられたのは、また唐突だった。

なあみょうじ。お前んとこの母親、そろそろヤバいんだって?

一瞬にして音が遠くなったような錯覚に陥った。
え、と空気のような音が喉から零れ落ちるのと同時に、ちょうど教室に入ってきた堅治と目が合った。
当時クラスが違った彼はこのクラスの人に教科書でも借りにきたのか、本当に偶然そこに居合わせたのだけれど、何ともタイミングが悪いと思った。
クラスメイトの彼が言った言葉は確かに堅治の耳にも届いてしまったようで、真ん丸に目を見開いている姿に、ああ伝えるならこんな形ではなくもっと別の言葉がよかったなあと思いながら自分でもよくわからない曖昧な表情を浮かべていると、彼は思い切り顔を歪めてそのクラスメイトの肩を勢いよく掴んだ。

「、けんじ」

自他共に認める鈍臭さを誇るわたしだけれど、この時ばかりは機敏な動きだったと思う。人間、いざとなれば普段以上の力が出るものだ。
振り上げられた彼の拳を咄嗟に掴んで、二人を引き離せば、何事かと休み時間中だった教室が俄かに騒がしくなる。
ふっと堅治が力を抜いて、俯いた。
俯いたってそっちの方が身長高いんだから、顔見えちゃうんだよ。

「……っごめん、ごめんなまえ……っ」

何に対しての謝罪か、絞り出したように掠れたその声に、わたしはたまらずその場にしゃがみ込んだ。
ああもしかして彼は、既に知っていたのかもしれない。知っていて、彼は彼で気を揉んでいたのかもしれない。それでもわたしが口を開くまでは、なんてことのないふうに接してくれていたのかも、しれない。
彼の今にも泣き出しそうな声からそれは容易に想像できて、わたしはたまらない気持ちを覚えた。

誰も悪くない、何のせいでもない、なのに皆こんなにも苦しい。
一番苦しいのは母だと、わかっているけれどそれでもあちこちが痛くて辛くて不安で悲しくて、苦しかった。

あとでわかった話だけれど、あの時の同じクラスの彼はまた彼なりにわたしと母のことを心配してくれていたらしく、ただ、言い方を間違えてしまったと。
別に責めるつもりは無いし、反対に、気にしないでと慰めるつもりもない。どういう思いで言ったのであろうと彼がそう言葉にしたのは事実だし、それをわたしがどう受け止めどう思おうと勝手だろう。

「ごめん、堅治」
「……なんでなまえが謝んだよ」
「……なんでだろ」
「バカかよ」
「失礼だなあ」


家に帰りたいのだと懇願した母は、病院から自宅療養へと切り替え、やはり眠っていることがほとんどだったけれど帰宅するわたしたちを確かに待っていてくれた。

わたしが知らなかっただけで、堅治や二口のお母さんは病院の方へ何度もお見舞いに来てくれていたらしく、家に様子を見に来てくれた彼に、母は「いつもありがとう」と目元を綻ばせていた。

彼は冬の初め頃、偶然会ったわたしの兄に目に見えて痩せたわたしのことを訊こうとして、その兄も同じようにどこか疲れた表情をしていることに驚いたらしい。
そして兄から話を聞き、別に口止めをされたわけでもないけれど静観してくれていたのだ。静観、しながらも心配はしてくれていたのだ。

その年の秋も越せるかわからないと言われていた母は、冬を越し、新たな年を迎えた。ただ病状がよくなっているわけではないことは、一目でわかった。
わたしは欠かさずご先祖様の仏壇に手を合わせ、どうか母をまだ連れては行かないでくれと祈る日々を繰り返す。朝学校に行く度に、どうか母が帰りを待っていてくれますようにと祈る日々を。


ただ、その祈りは通じることなく。
それから春を迎えて間も無く、母はこの世を去ったのだった。

都合の良い神も仏も、この世に居はしないらしい。

誰の内にも都合の良い神さまがいるようだ


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