カシャカシャと泡立て器でボールの中身を混ぜる。溢さないように、けれど出来るだけ素早く。隣ではハンドミキサーという文明の利器で軽快に卵白と砂糖を泡立てている音がするけれど、わたしは黙々と手動で頑張らなければならない。ハンドミキサーを使って、うっかりその中身を派手にぶちまけたという悲しい過去があるからだ。
練習しなきゃ上手くならないよ!と言われたこともあるけれど、なんというかもう練習云々ではなく恐らくわたしにはセンスというものが備わっていないので、大人しく手動の道を選んでいる。

「おー、上手上手。いい感じだよ、みょうじちゃん」
「どうもどうも」
「ここでいっちょ、ハンドミキサー使ってみる?」
「うん、やめとこう」
「ええー」

彼女は、わたしが以前中身を飛び散らせた事が相当面白かったらしく時折こうして勧めてくるけれど、毎度丁重にお断りしている。食べ物を粗末にするのはよろしくない……、粗末にするのが前提なのが悲しい限りだ。

放課後の家庭科調理室を活動場所としている料理部にこうしてお邪魔させてもらうのは、去年から数えるとなかなかの回数になる。
わたしはどこの部活動にも所属しておらず、放課後はすぐに帰ることが多いのだけれど、出席者が少ないからとか材料が余分にあるからとか料理部の子からありがたいお誘いを受け、たまにこうして一緒に活動をさせて貰っているのだ。
先輩たちも顧問の先生も特に問題ないと歓迎してくれるので、とてもありがたい。

初めのうちはもういっそ部に入ってしまってはどうかと言われていたのだけれど、それは少し難しいという話をすればみんな納得してくれて、それ以降「適当に来たらいいよ」となんともゆるい雰囲気でいてくれるので本当にありがたく思う。わたしの不器用さが露呈しているのにもかかわらず呼んでくれることなんか、特に。

今日はいろんな種類のシフォンケーキを量産するらしく、鋭意生地制作中である。……いつかはメレンゲ担当さんになれることを夢見て。

「あ!ていうかなまえ!」
「うわ、びっくりし、あ!中身溢れた!」
「ごめん!拭いて!」
「拭きます!」

唐突な大声に、驚いてボールを傾けてしまった。
渡された布巾で溢してしまったそれを拭き取りつつ、どうしたのかと訊けばその子はかっと目を瞠いてわたしに詰め寄った。
その勢いに、自然と息を呑む。

「な、なに、」
「この間!彼氏と一緒にいたでしょ!」
「……え?」
「背のたっかい彼氏!いつの間に出来たの、わたし聞いてない!」
「は、なに、……え?わたしもきいてない」

そんな記憶は、まったく、ちっとも無いのだけれど。

彼女曰く、先日駅でわたしと、その隣に並ぶ背の高い男の人を見かけたらしい。この間っていつだろう、駅ってどこ。いつの間にわたしは彼氏が存在していたの。
んん?と首を捻って何のことだろうかと考えていると、彼女の大声に次第に部員さんたちが集まってきてしまって、「なになに、みょうじさんの彼氏の話?」「えー!なまえ先輩、彼氏さんいたんですか!ファンが泣いちゃいますよ!」「みょうじ!わたし聞いてない!」「イケメン?イケメンなの?」なんてやいやい一気に騒がしくなる。
あの、シフォンケーキの制作はよろしいんですか……?

ここが女子校であるせいか大概「男」の話に敏感なのは承知していたけれど、まさか自分がその渦中に放り込まれるとは思わなかった。というかファンってなんだ。

「……あ」
「思い出したか!」
「それ、彼氏とかじゃなくて兄」
「あんたのお兄さんの顔は知ってんだよ!違う人だったわ!」

兄だと思う、そう言い終える前に食い気味に否定された。
ええ、じゃあ本当に誰だ。

「なまえ先輩ってお兄さんいるんですか!」
「わたしも知ってる、確か二人いたよね?」
「イケメン?イケメン?」
「イケメン。二人ともかっこいいの」
「うわ、羨ましい!」
「まあなまえの顔見てりゃそうだろうねって感じじゃん?」
「兄弟皆整ってるの……?世の中不公平にも程があるだろ」
「大丈夫、アンタの化粧の技術凄まじいから。加工したら美人だよ、詐欺だけど」
「加工美人ってなに?褒めてんの?ありがとう」
「ね、なまえちゃん!お兄さんたちの写真ってないの?」
「あ!わたしも見たい!」

勢いよく繰り広げられる会話を話半分に聞きつつ放置されているメレンゲの心配をしていたら、気付けばきらきら、というかぎらぎらしたいくつもの瞳が自分に向けられていた。
そういえばちょこちょこかっこいい的な言葉が聞こえてきたけれど、もしかしてウチの兄たちのことだろうか。そしてそれを見せろというのか。……ハードルを上げられてかわいそうに、と見慣れた兄たちの顔を頭に浮かべながらケータイを制服のポケットから取り出した。

写真なんてあったかなあとその画面に目を向けた瞬間、ポコンと軽い音を立ててメッセージの受信を知らせた。表示された名前は『ミシンマスター』。
わたしの隣でちょうど画面を覗いていた同級生の子がそれ誰よ、と笑った。

「あんたどんな名前の登録の仕方してんの?」
「わたしもそう思う」

あの人、また勝手に人のケータイいじったな?



「は?なんでって、むしろこっちが訊きたいわ。なんで"0"4つから、"9"4つに変えただけで平気だと思った?」
「……まさかそんな簡単な数字にしてるとは思うまいと、裏をかいたつもりでいました」
「かけてねえから」

夕暮れ時のスーパーに制服を着た学生というのはいささかミスマッチなようで、時折ちらちらと視線を感じる。
いや、もしかしたら制服がどうこうではなくわたしの半歩後ろを気怠げに歩く男がやたらとデカいせいかもしれない。今すぐ縮んで欲しいけれど、まあ買い物カゴを持ってくれているからよしとするか。

『ミシンマスター』こと堅治からの連絡を受けて、部活終わりの彼と落ち合い家の近所のスーパーへ足を運んだ。
冷蔵庫の中身と夕飯の献立を頭の中で組み立てながら、彼の持つカゴに商品をポイポイ入れていく。そうだ、お米も買っちゃおう、あと牛乳と醤油と料理酒と。

「……オイ」
「はい?」
「これ見よがしに重いもの入れてんなよ」
「え?」
「カートつかうレベルだわコレ」
「よっ、堅治力持ち」

何か言われる前にさっと背を向けて2リットルのペットボトルを手に取ろうとしたら、後ろから腕を引っ張られてつんのめった。このやろうと恨めしげな視線を送ろうとしたのだけれど、それよりも先にその人は今日の本当の目的である店内の一角へ足を進めていたのでわたしはその背中に口を尖らせるに留め、倣うように後を追った。

「で?何にすんだよ」
「堅治が選んでどうぞ」
「じゃあそこの紫と白」
「すみませーん、これとこれ包んでもらえますか」

店員さんに頼んで堅治の言った薄い紫と、白をまとめてもらう。
待つこと数分、かわいく仕上げてもらったソレを受け取って、それから二人で顔を見合わせた。「いい感じ?」「いんじゃね」「よーし」あとはお会計をして、いやその前にあの2リットルのペットボトルを堅治の買い物カゴに突っ込まなくては。


「っはー、お前マジないわー、おっもいんスけどコレ」
「いやあ、力持ちがいてうれしいね」
「覚えとけよお前、つか半分持てや」
「わたしはこの花束を持つのでいっぱいいっぱいなので」
「非力か?非力だったわ」

二人分の影が長く伸びた道を、エコバッグをカサカサいわせながら歩く。手に抱えていた薄紫と白のそれ、小ぶりの花束を抱え直せば、堅治は呆れたようにそれだけ言ってスタスタと歩き出した。

月に一度、こうして買い物に付き合ってくれる彼は随分と律儀だと思うのと同時に、申し訳なくも思う。

「あ、家にシフォンケーキあるよ」
「は?なんで」
「つくった」
「……誰が?」
「わたし、わたし」
「あー、俺はまだ命が惜しいから遠慮するわ」
「ほんと失礼にも程がある」
「絶対おばさんとこにあげたりすんなよ、腹壊すから」
「え、腹立つ」

月に一度、同じ日に花を買って帰る。
今日は母の月命日だ。

沈黙するシーラカンス


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