椅子の上で膝を抱えて小さくなる。膝の間に顔を埋めれば、重力に従ってはらりと落ちた髪に首の後ろが少しだけ寒くなった。

「ただい……、は?なまえ?」
「おかえりー……」

リビングの扉が開く音が聞こえたけれど振り向かず、縮こまったままの姿勢でいたら今度は向かい側の椅子を引く音が耳に届く。

「あー何、お前家出でもしたの」

テレビをつけたのか、シンとしていた空間に賑やかな音が広がった。

自分はよく特別理由もなくふらりと人の家にやって来るくせに、わたしが自分の家に居たら「家出」扱いになるのかと思ったけれど、まあそれもあながち間違いではないのでわたしは答えずに相変わらず縮こまったままでいる。
けれどそんなことはお構い無しとでもいうように彼はわたしの髪を軽く引っ張りながら、「なんでお前いじけてんの」とか「どうせ兄妹ゲンカでもしたんだろ」とか「つかウチの親どこ行った?」とか。一言も返事をしていないのに、彼の口はよく動くらしい。
しかも図星をしっかり突いてくるから嫌になる。


早い話が、兄妹ゲンカと言えばまあ兄妹ゲンカだ。ついさっき二番目の兄に向けてわたしは熱々のお玉をぶん投げ、そのまま家を飛び出してきた。

兄が近頃余裕を無くし切羽詰まっていることには気付いていた。何でもレポートの締め切りがいくつか重なって、それに片を付けなければいけないのにバイトの方も人手不足で都合がつかないだとかで、イライラしてるなあというのは見ていてわかったし、それを家族にぶつけて当たってしまわないよう気を張っていたのもわかった。

先程、わたしが台所で夕飯の準備をしている最中家に帰って来た兄の、「ただいま」と口にするその表情がまあ険しくて。
機嫌悪いなと内心で思いつつ、今日夕飯はいるかと訊ねればその顔がより一層険しいものになった。なんだその顔、と思いつつ「 バイト先で食べてくるの」と続けたわたしに対して兄はひどく低い声で言った。「……お前さあ」

「なに?」
「その包丁の置き方。怪我すんぞ」
「え?ああ、ごめん。ありが、」
「そこの布巾だって、火に近すぎる。ちょっと考えりゃわかんだろ」
「…………帰ってくるなりなに?」
「お前マジで鈍臭いよな」
「……は?」

唐突に言われた予想外の言葉に、鍋の中で味噌を溶いていた手が止まる。
二の句が継げずにいるわたしを他所に、兄は「運動は出来ないし、料理だっていつになったら上手くなんだよ」と続けた。
本当に唐突なその言葉に一瞬思考が回らなくなったけれど、それは普段から普通に言われているものだったしわたし自身も十二分に痛感していることだ、特に傷付いたりはしない。一切腹が立たないかと言えば、まあそんなことは決してないのだけれど。

今日は本当に機嫌が悪いらしい、変に応酬しない方がいいだろうと判断したわたしは「うん」と一言だけ返してまた味噌を溶こうとしたのだけれど。

「母さんから何学んだんだよ」

気付いた時には、手にしていたお玉をぶん投げていた。

未だ溶けきっていない味噌が四方にぶちまけられるのと同時に、熱されたお玉の底の部分が兄の額近くにヒットする。運動神経が悪い割に、会心の一撃だ──、なんて考える余裕は無く。
意図したことではなかった。ただ、言われたくなかった言葉を兄が心底呆れたように、当て付けのように口にするものだからカッとなって、しまったと我に返った時にはわたしはもう駆け出していた。

クロックスを足に引っ掛け、玄関から飛び出す。扉の閉まる音を聴く間も無く足を進めながら、鍋に火を点けていなくてよかったなとそんなことを思った。咄嗟にそこまで気が回らず、危うくそのままになるところだった。


それから何も考えずに足の赴くままに進めば、顔馴染みのご近所さんの家の近くまで来ていた。そこでハッとして、いやいやここに来たところでどうするつもりだとやはり何も考えがないまま踵を返そうとした時、その家の扉がガチャリと開く。

「あれ、なまえ?」

出てきたのは二口のお母さんだった。そこからはあれよあれよと言う間に事が進んでいた。
夕飯の準備をしていたのだけれど醤油を切らしていたことに気付いて、面倒だけどちょっとそこのスーパーまで買いに行くのだというおばさんは、もうすぐ堅治が帰ってくるだろうからなまえお留守番よろしく、とこちらが何かを言う前にわたしを二口家に突っ込んだのだった。
いってきますと手を振った彼女を若干戸惑いながらもいってらっしゃいと見送り、わたしは言われた通りお留守番をしていたわけである。
おかえり、堅治。


さてわたしが悪かったんだろうか、まあお玉を武器にしたのは確かに悪かったけど、でも兄ちゃんだって悪いよなあ。
ぐるぐる考える。堅治は相変わらずわたしの髪を弄ってくる。お願いだからテレビにでも集中していてほしい。

「おい、なまえ」
「………」
「あ、枝毛」
「……うるさいな」

ほっといてくれ、とは思えど、人の家でこんなポーズをとっている人間が言えたことでは無いか。
別に枝毛に反応したわけではないけれどそこで初めて顔を上げれば、テーブルの向こうから腕を伸ばしてわたしの髪を摘んでいた彼と目が合う。
そんなに枝毛気になんのかよと笑った彼は、かと思えばすぐに表情を変えて息を呑んだ。

「……お前それ、どうした」
「……どれ?」
「その顔」
「子どもの時からそのまんま大きくなったねって割と言われる」
「それは知ってるわ、昔から代わり映えのない顔……、じゃなくて、その頬。どうした」

失礼なことを言われた気がする、と思いながらも指摘された頬に手を伸ばせば、それは温い温度の湿布に触れた。

「湿布だね」
「それはわかってんだよ。お洒落アイテムかそれ」
「あー、うん。たぶん、そんな感じだと思う」
「………」
「………」
「流行んねえだろ」
「そうかも」
「兄ちゃんにやられたわけ」
「え?」

突然の問いかけを、上手く飲み込めなくてぽかんとしてしまう。
彼の中で、わたしは兄とケンカしてここに避難してきたことが確定しているらしく、否それは間違っていないのだけれど。

わたしの無言を肯定と受け取ったのか、堅治は一瞬目を細めてから「お前ン家行ってくる」と立ち上がった。
その声音があまりにも硬く真剣味を帯びていたものだから、わたしはよくない予感を覚えて同じように椅子から立ち上がろうとしたのだけれど。

長い時間縮こまっていた足はすんなり動かず、そもそも自分が椅子の上で膝を抱えていたという事実が頭からすっかり抜け落ちており。その結果わたしは、あろうことか派手に椅子から転げ落ちたのだった。
もの凄い音がした。自分で自分がヤバイなと思った瞬間である。

「っはあ!?お前マジで何やってんだよ!」
「いったい……、いたい〜!」
「おま……、呆れて言葉も出ねえわもう」
「いたい」

じわりと目尻に涙が浮かぶ。思いきり床に打ち付けた身体はじんじんとあちこち痛んで、これはまた絶対どこかしらに痣が出来るなと絶望しながら床に転がっていると呆れ顔の、けれど先程よりも随分と表情の和らいだ堅治にごろりと反対側に転がされた。

「あーあー、運動音痴もここまでくると泣けてくるな」
「たまたま、今日はたまたま調子が悪かっただけで」
「ハイハイ、で?」
「……で?」
「椅子から転げ落ちるくらい、何を慌ててんだよ」
「……あの、この湿布なんですけど」
「おー」
「今日の体育のソフトで、ボールを顔面キャッチした結果のものなので……」

兄ちゃんは悪くないです
言えば、少しの沈黙の後またごろりと転がされたのだった。



「は?お玉?」
「お玉。味噌汁つくってた」
「それをぶん投げたって?」
「クリティカルヒット」
「嘘つけ、運動神経死んでんだろ」
「死んでない!」

反論すれば「いや、頬もだし、椅子からも落ちてんですケド」とすぐにそれを破られる。……わたしだってまさか、伸ばした手の中ではなく頬にボールが落ちてくるとは思いませんでしたし、椅子からだってあんな落ち方するとは想像もしてませんでしたよ。

「それで。なんでそんなことしたんだよ」
「……いー、われたくないことをー……、言われた?」
「ふーん?でもま、お前から手出したなら謝ってこい」
「手じゃなくて、お玉」

湿布を貼っているのとは反対側の頬を、ぐいっと引っ張られた。堅治もわたしに手を出したので即刻謝ってほしい、なんて不満を抱いていると、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。

「ただいま。なまえー!お迎え来たよー」
「? はーい、おかえりなさーい」

買い物から帰って来たらしいおばさんに呼ばれ、何のことだろうかと思いつつ堅治と一緒に玄関へと向かえばそこにはおばさんと、渦中の次兄の姿があった。思わず隣に居た彼を見遣れば、「俺が呼んだわけじゃねえよ」と返ってきた。
じゃあなんで。そんなわたしを他所に、兄はおばさんに軽く頭を下げる。

「夕飯時にお邪魔してスミマセン。すぐ帰りますんで」
「全然、私がなまえに留守番頼んだのよ!そうだ、このままウチでご飯食べていく?」
「あざっス。でもこいつが夕飯準備してるんで、そっち食います」

なまえ
堅治の背中に半分身を隠すようにして様子を覗っていると、こちらを真っ直ぐに見た兄に名前を呼ばれた。「帰んぞ」
トンと背中を押されて、また隣を見れば頭を掴まれてぐらぐら揺らされる。

「じゃあな」
「…………」
「味噌汁まだ途中だろ」

頷いて、靴に足を入れればバトンタッチとでもいうように兄がわたしの髪をくしゃりと撫でた。



街灯に照らされた道を二人並んで黙って歩く。自宅までのそう長くない道程の中、先に口に開いたのは兄だった。

「堅治にスゲー睨まれたわ」
「……え?」
「お前、泣いた?」

ぽつりと、そう言った兄はこっちを見ずに足を進める。

「泣いてない」
「へえ」

先の方に、家の明かりが見えてきた。

「味噌があちこち飛び散ってんだよなあ」
「大変だね」
「お前のせいだけどな」
「元はそっちのせいだけどね」

ドアを開ければ、「おかえり」の声が飛んでくる。

「なあ、なんか台所が凄いことになってるんだけど、二人とも何か知ってる?」

ついさっき帰って来たらしく、驚いた様子の父に「知らね」と堂々と言い放った嘘つきに倣って、わたしも「知らない」と答えるのだった。

おとなになるには舌足らず


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