別に、劇的な出会い方ではひとつも無い。

「……何ちゃん?」
「なまえだよ」

大きな目を三日月型にしてにっと笑ったなまえは、かわいかった。

家が近所で母親同士の仲が良くなり、同じ年の子どもがいることも手伝ってお互いの家族も面識を持つようになったらしい。全く珍しくもない、よくある話だ。
人見知りなんて言葉は知らないような、好奇心いっぱいといった様子で母親の横に立つ小さな女の子と初めて顔を合わせたのは四つだか五つだかの時で、名前を訊けばはっきりとした口調で名乗ったその子がなまえだ。
その時抱いた印象なんてものはろくに覚えていないけれど、名乗った次の瞬間の出来事は今でも記憶にしっかりと残っている。

「あ」

声を上げたのは誰だったか、一歩こちらへと踏み出した彼女がどういうわけか、瞬きの間に地面へと伏せている。
早い話が、転んだのだ。
驚くこちらを余所に事も無げにすっくと立ちあがったなまえは、腰を屈めて「血は出てない?」と様子を伺う母親の言葉にけろりとした表情でひとつ頷く。
「あらら、なまえちゃん大丈夫?」と自分の母親が心配げに尋ねれば、彼女の母曰くこの子は何もないところでも本当によく転ぶ子で、あまりにもそれが多いため心配して病院で診てもらった過去があるらしい。
「それが至って健康ですよって」「あはは!それはよかった」
頭上で交わされる会話と、続いた笑い声。大人同士のやり取りよりも目の前の女の子に意識が集中していた俺は、不意にかち合った視線にどきりとしてかはたまたぎょっとしてか小さく肩が跳ねた。そのことを相手に気付かれるのがなんだか嫌で、一度下唇をぎゅっと噛む。

「……いたい?」
「んーん」

へーき、と笑った女の子からしばらく目が離せなかった。



「ごめんね!ちょっとだけ待ってもらえる!?」

初対面から数日後、母親に連れられて訪問したみょうじさん家の玄関先で迎えてくれたおばさんは、こちらに両手の平を向け「ちょっと待って」のポーズを一瞬だけ取って、すぐに廊下の向こうへ「いい加減にしなさい」と声を張り上げた。家の柱がビリビリと震えるような声量に、身近に居る以外の大人の怒鳴り声を初めて聞いたこともあって結構びっくりしたのを覚えている。

「だって!なまえがうぜえ!」
「うざかろうが何だろうが、手を出す相手と自分の力の強さを考えなさいっていつも言ってるし、わかってるでしょ?」
「なまえが先に本投げてきたんだよ!」
「ええもう、なまえ〜!それは人に投げるものじゃないよ」
「…………」
「なまえ、聞こえてるなら返事する」
「……おにいちゃんのばーか!」
「バカはお前だ!ブス!」

まあなんとも賑やかな喧騒が廊下の先、扉を一枚隔てた向こう側から漏れ聞こえてくる。「タイミング悪かったみたいだ」と言いながらも笑っている自分の母親を見上げていると、閉まっていた扉が不意に派手な音と共に開いた。

「もういい!俺遊んで来るから!なまえはそこで一生泣いてろ!」
「またそういう言い方をする……、五時の鐘が鳴るまでには帰って来るんだよ!」

さっきのおばさんに負けないくらいの語気と一緒に飛び出してきたのは、当時小学校低学年だったみょうじの下の兄で、勇み足で廊下を進んだ先の玄関に居た俺たちに気付いたその人は一度怪訝そうな表情を浮かべ、それから「こんちは」と折り目正しく頭を下げた。
唐突な状況の変化に目を白黒させつつ、挨拶を返した母親に促されて自分も「こんちは」と返した。「名前なんていうの」と訊いてきた次兄に素直に名乗れば、「ケンジな。今度遊ぼーぜ!」と乳歯の欠けた歯を見せて笑い、サッカーボールを小脇に抱えて玄関から外へとまた飛び出していった。
今の誰だ?と嵐のようなその人の消えた後ろ姿を見送っていると、少し疲れたようなおばさんが「騒がしくてごめんねえ」と家の中へと案内してくれた。
部屋の真ん中辺りにひとりぽつんと立って、しきりに目を擦っていたなまえがそろりと、小さく首を動かしてこちらを見る。
目が合って、息をのんだ。当時は「息をのむ」なんて言葉は知りもしなかったけれど、この時の俺は大袈裟でもなんでもなく唐突に呼吸の仕方がわからないような心地に陥ってしまって、咄嗟に母親の手を掴んだ覚えがある。
涙に濡れた彼女の大きな瞳は、差し込む太陽の光に反射してやたらときらきら輝いていた。目を囲む長い睫毛は濡れたせいで固っていくつかの束になり、瞳の丸みを際立たせている。

「……なまえちゃん」

きれいだと思った。
家に転がっていたビー玉よりも、祖母の指輪についていた宝石よりも、妹のお気に入りらしいスパンコールの付いた髪ゴムよりも、そういう自分が知る光り輝くものたちの中で一番。一番きらきらしていて、一番きれいだと幼い俺は思ったのだ。なんだかとんでもないものを目にしてしまったと、心の底から思ったのだ。
初めて抱く感情が奔流のように胸の内で暴れるけれど、それを声にするための言葉は少しも上手く出てこなくて、代わりにただそっと名前を呼ぶ。それで精一杯だった。
少し震えた自分の幼い声に応えるように一度瞬きをした彼女の、その眦からぽろりと丸い粒がひとつ落ちて。
それからなまえはさっきまでの泣き顔が嘘みたいにかわいく、初めて会った時のように笑ってみせた。

「ケンジくんだ」

泣いている顔より笑っている顔の方がほっとするなと、さあっと波が引くように騒がしかった心臓が落ち着いていったけれど、けれどやはりあのきらきらはまた見たいような気もする自分がいた。あれは一体、何だったんだろうか。
そうひとり幼い頭でごちゃごちゃと考えている間に、なまえが転けた。

「なんで?」

一歩か二歩、足を動かしただけなのに。それだけなのに突如何もないところでフローリングの床に倒れた彼女に目を瞬いて、考えるよりも先に口をついて言葉が出ていた。

「なんでだろう」

先日と同様、相変わらずのけろりとした様子で立ち上がり、それから大層不思議そうに首を傾げた幼子にぐちゃぐちゃだった思考が全部吹っ飛んで「この子は大丈夫なんだろうか」という一言にぽんと集約される。
この時齢一桁にして、俺は人を心底憂う気持ちを覚えたのだった。



小学校入学前からその片鱗を見せるどころか遺憾無く発揮していた彼女はその後もすくすくと成長し、見事な鈍臭さを披露することとなる。

「だからそっちじゃねーって!」
「え、こっちだってば」
「ちげーわバカ」
「バカって言った!」

鈍い割にその癖活発で、目を離したらどこかへふらりといなくなってしまうのでないかと、その間に大怪我をするのではないかとあいつは人をしょっちゅうハラハラさせていた。人というか、主に俺だ。本人はそんなこと知る由もないだろうけれど。

「お前なんでそんな転ぶわけ?俺に見えない何かがそこにあんの?なまえだけが感知してんの?」
「バカには見えない段差がね、ここにあってね」
「誰がバカだ。つか見えてんのに転ける方がバカだろ」
「怒った!」
「ハイハイ、こわいこわい」

何もないところで転ぶわ、歩けば壁に激突するわ、足は遅けりゃ諸々の反応も鈍い。
そんななまえとは外で一緒に遊ぶというのも一苦労で、サッカーをすればボールを明後日の方向に飛ばすどころかそのボールを踏んですっ転び、キャッチボールをすれば投げるボールは俺まで届かず受けるボールは顔面にぶつかり。
そんな調子だから球技はやめようと、紙飛行機を飛ばしたり大人しくブランコを漕いだりすべり台を滑ったりしてもまあ、見事に何かをやらかす。土管を模した遊具にただ座っていただけなのに、いつの間にか頭から滑り落ちていた時には本気で肝が冷えた。
この頃の彼女は常に何かしらの擦り傷や青痣をどこかに抱えていたように思う。
別にそれで嫌気が差したりはしなかったけれど何をしてもそんな感じのやつだから、次第になまえと遊ぶよりも彼女の上の兄たちと遊ぶ方が楽しくなっていった。自分に男兄弟がいないこともあってか、面倒見がよく優しい長男と、容赦は無いがなんだかんだで相手をしてくれる次男と一緒に走り回ったりゲームをすることが多くなっていったのだ。

なまえはなまえで新しくできた自分の友人と遊んでいたけれど、ゲームならばと一緒に騒ぐことも少なくなかった。
お前はセンスがないと、特別下手ではないが大して上手くもない妹を手加減一切無しでボコボコにしては高笑いしていた下の兄が上の兄に呆れられたり、その妹が泣いて怒って取っ組み合いのケンカに発展し、その場にいた全員がおばさんに雷を食らったりとまあ平和ではないことが多かったが。
あいつが嘘泣きをするようになったのは、この頃からだったように思う。といっても今と違って相手は俺ではなく下の兄だったが。

「は?お前、泣けば済むと思ってんだろ」

いつもの兄妹ゲンカで、二人でドタバタと手も足も出る取っ組み合いを経て、下唇を強く噛んだなまえがぼろりと涙を零したのを見た兄ちゃんがそう言った。

「おもっ、てない」
「思ってんだろ。いっつもすぐ泣く。ウザい」
「っ泣いてない」
「泣いてんじゃん」
「泣いてない!」

どう見たって泣いてる。
なまえは割とすぐ泣く。転んだって平然としているけれど、こうやって兄ちゃんとのケンカになると口でも力でも勝てないのが悔しくて、怒りの置き場が無くなった時にぽろっと涙を落とすのだ。その度にぎくりとしている俺の心内なんて知る由もなく、静かに涙を流しながら兄からしてみれば実に貧弱な抵抗を見せる。
生憎上の兄ちゃんは不在で、怒ると普通に恐ろしいが頼みの綱であるおばさんも留守。外でじいちゃんが庭の土いじりをしていたはずだと呼びに行くべく腰を上げた時、なまえがぐっと手の甲で自身の目元を乱雑に拭った。

「嘘泣きだから泣いてない」
「はあ?」

実際に涙が出てるなら泣いてるだろ。そう思ったし、多分兄ちゃんもそう思ってた。何言ってんだこいつ、と呆れを隠すことなく全面に浮かべた兄に臆すことなく「騙されてやんの、ばーか!」と稚拙な語彙で煽った妹と、「あ!?調子乗んな!」とそれに簡単に乗ってしまった兄の第二ラウンドが始まってしまった。

「ただいま……ええ、お前らまたケンカしてんの」

窓から外覗いてじいちゃん呼んだ方が早いなと俺がそう考えている間に上の兄ちゃんが帰って来て、なまえは自分の味方にするため一目散にその人の元へすっ飛んで行ったのだけれど、「お前そうやってすぐにーちゃんとこ行くのやめろ!」と次兄が吠える。
それに対して「お前こそ妹泣かせて楽しいの」と長兄が薪をくべたことで新たな顔ぶれを加えた兄弟妹での第三ラウンドのゴングが鳴ってしまったので、俺は「じいちゃん、すげーケンカしてる」と窓を開けるのだった。

と、確かそういう経緯でなまえは「嘘泣き」というものを会得した。
初めは主に対次兄用で、思わず涙が出た時に「嘘泣き」と言って泣いているのを誤魔化していたわけだけれど、いつだったか俺との言い争いで勝てないと踏んだのかわっと顔を覆って嘘だと丸わかりのど下手な演技で泣いた彼女に、ぎょっとして反射的に謝ってしまったことから対俺用へとシフトしていくのだった。いろんな意味でいらないきっかけを与えてしまったなと、今でも思っている。
普段彼女が大きな声を上げて泣くことがほとんどなかったことと、やはり未だに俺はこいつの涙にはぎくりとしてしまうのとで焦って折れた結果だったけれど、まさかこれがこの先も続くとはその時は微塵も思っていなかった。



家が近所なため、当然のように中学も一緒だった。
糊のきいた真新しい制服を着たなまえは、ただ身に着ける服が変わっただけなのにやたらと大人びて見えてなんだか気が引けたのを覚えている。まあそう思った次の瞬間には、スカートの裾を引っかけて破きそうになっていたけれど。いつものなまえである。
中学ではお互い部活に入ったために放課後や休日の自由な時間は減ったけれど、気が向いた時に俺がみょうじの家にゲームをしに行ったり、「母さんとケンカした」とぶすくれたなまえがウチに駆け込んで来たりと特に大きな変化はなかった。
だというのに、周りがやたらとうるさくなった。やれ付き合ってるのか、やれどうしてそんなに仲がいいのか、はたまたなまえを紹介しろだの仲を取り持ってくれだのなんだの、わあわあと囃し立てる同級生やら先輩やらがクソ程面倒臭かった。
お前らには関係ないことだろ、幼い頃から近所に住んでいて交遊のあるやつと普通に近所付き合いすることの何が悪い。そういちいち説明するのも面倒だったし、言ったことに対してまたああだこうだと言われるのも癪だった。何より、俺となまえのことを他人に好き勝手言われることが余りにも鬱陶しくて、結局は「お前に関係なくね?」と吐き捨てていた。
そんなこともあって、次第にみょうじの家から足が遠ざかっていったのだけれど。


「お前最近ダイエットでもしてんの?」

中一の冬の初め頃の話だ。
なまえが目に見えて痩せた。元々華奢な彼女だったけれど、近頃その言葉だけでは収まらない程細身に見える上に心なしか顔が青白い。
偶然重なった帰り道で訊けば、彼女は一度瞳を揺らして俺を見て、それからゆっくり口角を上げた。お手本のような作り笑いだった。「え?痩せた?」なんだか声も掠れているような気がして、自然と自分の眉根が寄る。うるせえわ、痩せんな、飯ちゃんと食え。そう詰めれば、あいつお得意の嘘泣きをするものだから、結局こっちが謝らざるを得ず、その話は有耶無耶で終わった。

後日、みょうじの長兄に聞いた冗談と思いたい程の事実に、ただただ呆然とするしかなかった。



あ、こいつ友だちいないな、と気付いたのはクラスが同じになった中学二年の時だった。
いない、というのは語弊があるかもしれない。クラスの誰とでも話すし、愛想もいい、リアクションもちゃんとする。けれど特定の誰かと一緒に行動することはまず無いし、馴染む様子もなくどこか浮いている、そういう存在だった。小学生の時は決してそんなことなかったのに。

「堅治、おかしい」
「おかしいのはお前だわ」
「おかしいのは糸鋸」
「いやだからなまえがおかしんだっつの。糸鋸のせいにすんな」
「……板の方がおかしいんだ」

頑なにも程がある。
技術の授業で電動糸鋸をつかってベニヤ板を切る、という小学生のときにもやったことのある作業の最中、彼女の板は見事に曲線を描いていた。糸鋸の前で固まっているのを覗いてみればこれだ。板真っ直ぐ切れって言われてなかった?逆にすごくね?と呆れていれば、息をひとつ吐いたなまえが「頑張って、板」と相変わらず物のせいにしながら修正を図るために糸鋸を起動させたのだけれど。

「は!?」
「えっ」

鋸の刃の先に手を添えるバカがいるか!と慌ててそれを止める。驚愕している俺を余所になぜ止められたのかと目を瞬いている彼女が恐ろしくなって、結局は作業を代わってやることにした。そうだ、こいつは不器用だった。勉強は俺より出来るが、まあバカだった。
小学生の時はどうしていたのだろうかとふと考えて、そういえばクラスメイトに頼っていたような記憶が思い出される。今回も出来ないのわかってるならちょっとは人の手借りるとかしろよ、と口にしそうになってやめた。こいつは人と深く関わるのを恐れているのではないかと、なんとなく思ったからだ。たかだか糸鋸ぐらい、言えば手を貸してくれる人間の方が多いだろうに。それでも彼女の中に何らかの恐れがある。そうわかっていても、無理にそこから引きずり出す術がこの時の俺にはなかった。
代わりに、「評価すごい高かった!」と完成品を手ににこにこ笑う彼女の額を指で弾いておいた。



自分が彼女に対して抱いている感情がどういったものなのか、正直よくわかっていない。
ただの庇護欲かもしれない。目を離した隙にふらりとどこか遠くへ行きそうで気掛かりだから、単に付き合いが長いから。そういった「情」が湧いただけなのかもしれない。上手く言葉に出来ないのは自分が言葉を多く知らないだけなのか、そもそもそうして表わせない程の感情が幾重にも重なっているのかは知らないが、時折あの涙に塗れた宝石を思い出しては思うのだ。

「不満や不安は一人で溜め込む前に口にしろ」
「…………」
「返事」
「気が向いたら」
「あ?舐めてんのか」
「口調がヤクザ」

高校三年の、夏の手前。ようやく本音を吐いたなまえだけれど、それでもまだほんの一部だろうと俺は思っている。こいつの溜め込んだ長年の頑固は、一日そこらで吐き出しきれるものではないはずだ。
「ずっと」と言ったのは彼女の方なのだ。自分の隣にいる権利を俺に与えたのはなまえで、これから先どれだけそれが可能なのかは未知数にも程があるけれど、いていいと言われたのならば俺はそれを全力で享受する。
彼女の涙は未だに見たくないし、けれど見たいとも思う。幼さが抜け、子どもの頃のような頬の丸みは取れた。それでもその頬を伝う涙を見るといつだって胸は騒つくし、心のどこかではああきれいだなと思う。

「あ、そうだ」
「え、なまえちゃんもしかして話変えようとしてる?」
「うん」
「うんってお前」

平然と頷いたなまえが、俺の呆れ顔を見てへらっと笑う。今まで泣き顔以上に見てきた表情だ。

「花買いに行くの、つきあって」

言われて、人知れず息をのんで。「……いつものスーパー?」尋ねる声は情けなくも少し上擦っていた。
それを知ってか知らずか「あそこの店員さんと仲良くなったから、堅治のセンスなんて目じゃない花束つくってもらえるよ」とかなんとか言っているそいつの腕を引いて、その小さな身体を自分の腕の中に閉じ込める。

「えっ、そんなに花選びたかった?」
「ちげーわ」

わからないが、思うのだ。彼女の隣に立つのは自分だし、俺の隣に立つのも絶対になまえがいいと。
自分の背中に回った細い腕が愛しくて、抱きしめる力が強くなる。「圧死したらどうしよ」とバカなことを言う彼女に、誰がさせるかと心内で返しつつあと少し、満足したら離してやるから、そしたら花を買いに行こう。

とても全部は言葉にできないけれど


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