白で統一されたその部屋は、薬品の匂いと微かな花の香りがした。
それがなんだか不安に思えて、けれど同時に落ち着きも覚える。そんな相反する気持ちが芽生える場所で、妙に足元はふわふわした。

「堅治にだけ、言っちゃうけどね」

とっておきの秘密を囁くように、その人はひどく楽しげな笑みを浮かべて俺を手招く。笑い方が、そっくりだと思った。この場合、似たのは彼女ではなくあいつの方だけれど。

「私ね、あの子たちのこと別に心配してはないんだ」

なんだかんだで仲良くやってるしねえ
楽しげな、けれどどこか遠くを見るようなその表情に、何故だか無性に泣きたくなった。本心なのだろう。心配はしていない、けれどその成長をもう見守ることは出来ないと彼女は悟ってしまった。足掻いても叶わないことがあると、腹を決めてしまった。
そんなのあんまりだと、叫び出したい衝動を必死で抑えつける。自分以上にそうしたかったであろう人が、目の前にいるのだ。

「……この間、なまえと兄ちゃんで取っ組み合いのケンカしてたけど」

勝手にひりつく喉を、震えそうになる声をどうにか押し殺して絞り出した俺の言葉に、彼女は声を上げて笑った。それにまた、俺は泣きたくなる。
元気な人だ。俺たちの幼い頃から本気で、全力で相手をしてくれる、そんな優しくて明るくてかっこいい人だった。

「まあまあ、元気なのはいいことよ。うるさいかもしれないけど、堅治も相手してやってね」
「あー、気が向いたら、まあ」
「なまえのことよろしくとは言わないから、転んでるのに気付いた時はたまにでいいから手貸してやってよ」
「……言わねえのかよ」
「言わない、言わない。そんなの今の私が言ったら、遺言もいいところじゃない!」

遺言とか、言うなよ。
カラカラと笑うその人の顔が、次第に滲んでくる。この人より先に泣いてはいけないとわかっていても、気持ちと身体は別々のところに存在しているらしかった。「泣いてんの、堅治!」「ってねえわ!」「だよねー!」このオバさん、マジで病人か?嘘だろ、すげえ元気じゃん。
本当に、元気だった。
お願いだから、嘘であってくれ。

「そんなの言われたら多分さあ、『私が言ったから』っていうのがずっと心に残ると思うの。そんなの誰も幸せにならないじゃない」

遠くを見つめる瞳には、何が映っているのか。子どものように笑うのに、この人は俺よりも数十年先の時を駆けて来た大人なのだ。

「あ、でもさあ」
「……なに」
「もしこれから先、堅治が──」

ふわりと。
開け放たれていたらしい窓から風が吹き込んで、白いカーテンが大きく膨らんだことに目を奪われた。そうして次の瞬間、さっきまでそこに居たその人の姿は影も形も無く、ただ白く無機質な空間が広がっているだけだった。
俺の頬には温い何かが伝っていて、未だ揺れるカーテンを静かに見守るしか術はなかった。

彼女は最後、なんと言いたかったのだろう。

:

妙に身体が軽い気がする。

起き抜けに一度首を回して周りに目を遣れば、なんてことはないすっかり見慣れた寝室の風景が映るだけで、反対にそれをなんだか不思議に思った。
そうだ、至って普通。何も不思議なことはない。けれど、どうしてこんなに喉がひりつくのだろうか。そのクセ心は妙に穏やかでどうにもちぐはぐだ。風邪でも引いたか?喉をさすりながらベッドを降りれば、隣で丸まっている塊が僅かに身動ぎする。
起こしたかと思い顔を覗き込もうとするも、頭まですっぽり布団を被っているお陰でその表情を伺うことは出来なかった。頭をひとつ撫でその場を後にした俺は、コーヒーでも飲むかと電気ケトルを手に取る。

今日は一日、晴れらしい。
窓の外に目を向け、テレビから流れてくる天気予報に耳を傾けながら、未だ残るこの胸を締め付けるような苦しさと、相反して泣きたいような嬉しいようなじわりとした温かさの正体は一体何なのだろうかとひとりぼんやり考えた。
決して不快ではない。むしろ心地いい。ひとつ息を深く吸って、肩の力を抜く。
なまえが適当に買ってきたインスタントコーヒーは、割にいい香りがした。

そうして一服したところでなかなか起きてくる気配のない彼女の様子を見に、寝室へと戻る。まだ寝てんのか?そろそろ準備しないと間に合わねんじゃねえの。そう声を掛けようとして、やめる。なまえは既に起きているらしかった。

「なまえ」

ベッドで上体を起こした彼女は、ひどく静かに涙を流していた。
昔からそうだ。嘘泣きの時はバカみたいに騒がしい泣き真似をするくせに、本当に涙を流す時は誰にも気付かせない程に静かだった。俺はそれがひどくもどかしくて、もっとわかりやすく声を上げればいいのにと思っていたし、今でもそう思っている。こいつが泣いているのなら、何をするでもないけれどそれでも傍にいたい。
泣き虫なんだから、嘘泣きなんかまどろっこしいことしてないで素直に泣けばいい。俺が慌てふためいて、結局折れてしまうのを知っているからこいつはよく泣き真似をしていたのだろうけれど、その半分の半分は本当に泣きたいのを誤魔化すための「嘘泣き」だと、果たして本人は気付いていたのだろうか。泣きたいときにちゃんと泣かずに抱え込んで、言いたいことを全部飲み込んでしまうから質が悪いのだ。
そんなことだから、俺はこいつが泣き真似をする度に大概は嘘だとわかっていても半ば本気で心配していたし、同時に「またか」と呆れてもいた。すぐにけろりとした調子でケラケラ笑う姿に腹を立てつつ、半分は安堵を、半分は苛立ちを覚えながら。まあ、本当にくだらない泣き落としも多かったけれど。
ただ今は、静かに泣く姿を俺も静かに見守った。

「……母さんが」

ベッドに腰掛け、さて何があったのだろうかと考えている間に、なまえはひっそりと口を開いた。掠れてはいるが、思いの外真っ直ぐ耳に届いた声に少しだけ驚いて、涙に濡れた瞳をこちらも真っ直ぐに見返す。

母さんが、夢に出てきた

そう続いた言葉に、思わず息を呑む。
ふと、耳の奥で、楽しげな笑い声が聞こえた気がした。

「どんな夢かは、覚えてないけど……」

でも、笑ってた
泣き笑いの表情を浮かべるなまえをそっと抱き寄せて、過去を思い出す。
おばさんが亡くなってからいつだか、母さんが少しも夢に出てこないのだと、今より幼い姿の彼女が寂しげに笑っていたことがあった。その時果たして、自分が何を言ったのかはもう覚えていないけれど。
今の泣きたいような、嬉しいような苦しいようないろんな感情がごちゃ混ぜになった自分の胸の内の正体には、ふと思い当たった。

ああ、俺もきっと、あの人と夢で会ったよ。



いつまでもベッドにいる場合じゃない!と先に声高に立ち上がったのはなまえの方だった。
さっきまで人の服を湿らせていたくせにこの変わり身、と思ったのも束の間、枕元の時計を見ればもう差し迫った時間でさすがに自分も慌てた。

「待って、まず何すればいい……!」
「顔洗ってこい、目元冷やせ」
「朝ご飯っ」
「俺がつくるから、早く行け」
「わーい!」

今日の主役はお前だというのに、初っ端からそんな真っ赤に腫れた目でどうする。朝から慌ただしく騒がしいことに、なんだか妙に笑えてしまった。全然、笑っている場合ではないのだけれど。朝飯と一緒に、冷やすのとは別に温める用のタオルを用意してやる俺に感謝しろよ。



「なまえ、ドレスの裾踏んですっ転びそうだわー……」
「それ、本当、ソレ……、ヒールも見て、バカみたいに高いの。ぐりんっていきそう」
「いやお前、顔」

どうにか時間通りに間に合い、彼女の腫れた目もなんとか見られるようになった。
だというのに真っ白なドレスを身に付けた彼女は、いくつも重なる布をかき分け、ひどく渋い顔で自身の足元を凝視している。踵が高く、太いそれはひどく歩きにくそうな上に重そうだけれど、そんな顔したら化粧が崩れるぞ。

「本当は、堅治とバランス合わせるためにもっとヒール高かったんですよこれ」
「へー」
「彼の脚を削るので踵低くしてくださいって泣いた結果これだけど、まだ高いと思う」
「何勝手に人の脚差し出してんだ」
「転んでもいいように、常に堅治のこと掴んでよ……」
「そうしとけ」
「うん」

転ぶな、と言って転ばないのなら、俺は今まで彼女のことを鈍臭いと称したりはしない。
いいよ、転ばせないようにするから、好きなだけ転べ。

なまえは、式なんて挙げるつもりは欠片も無かったらしい。
うちとみょうじの集まりの時だったか、その話が出てきた時に彼女は心底驚いた様子で「え、しないよ」と答えていた。反対に、そのなまえの発言に騒めいたのは彼女以外の全員で、特に彼女の兄たちとウチの女性陣はひどかった。

「なんで!?」
「お前マジか!」
「私、なまえの花嫁姿すっごく楽しみにしてたんだけど!」
「あ!お兄ちゃんが甲斐性無しだから!?」

うるさいにも程があるし、怪獣に至っては失礼にも程があるだろうと思いつつ、詰め寄られて困ったように俺を見てくる彼女に対して俺自身も少なからず驚いていた。
まああんなのは金が掛かるばかりで、その上準備やら打ち合わせやら何かと時間を取られて面倒臭そうだし、何より人前に自身を晒し続けるのだ。洋装にしろ和装にしろ、自分があの畏まった格好をしていることを想像しただけでげんなりする。もし鎌先さんの式なんかに呼ばれたとして、俺は指をさして笑わない自信がない。
と、まあそういいイメージは抱いていないどころか、マイナスの面ばかりではあるけれど。
それを押して、彼女がそうした装いをするのは見てみたいという欲が自分の中にあった。似合うだろうとひとり、勝手に思っていたのだ。

「費用かっ!」と財布を出そうとする下の兄ちゃんに、「お金勿体無いなっていうのもあるけど、そうじゃなくて」となまえは首を横に振りつつその財布をしまうよう促していたし、「孫の結婚式にお呼ばれするのが夢だったんだけどなあ」と肩を落として見せたじいちゃんには「いや、もう兄ちゃんたちの結婚式出たでしょ?」と数年前に挙式した長兄の話を出していた。
「それはそれってやつだ」と神妙な様子でお猪口を片手にしていたあの人の方が一枚上手ではあったけれど。

やんややんやと、酒の席ともあって騒がしくなる一方の場に、なまえは本当に困惑した様子で俺の腕を揺らした。
俺はと言えば、口にしていたわけではないにしろ勝手に一人思い込んでいたことが妙に恥ずかしく思えて、手近にあった缶ビールを一気に呷ったところだった。
恐らく据わった目で、そんなに嫌なのかと訊けば彼女は自身の目を右に左に泳がせた後、そろりと俺を見上げて小さく「恥ずかしいので」と零した。それがあまりにも可愛かったものだから、「するわ」と次の瞬間にはそう宣言をする俺がいた。あの時の盛り上がり方は異様だった。酒の席とはなんとも恐ろしい。
結局身内だけなら、と折れたなまえは、家族に今までお世話になった分の感謝を返すためのおもてなし会、と捉えて前向きになったらしい。じいちゃんばあちゃんの冥土の土産!って、いや縁起でもないこと言うな。

そうして当日。
「……だめだ、どれも同じに見えてきた」と所狭しと並ぶドレスの波から選ぶことを早々に諦めたなまえに、ならばこれがいいあれが似合うとうちの親とみょうじの長男夫婦、次兄たちとほぼ家族全員で見繕い、最終的に俺が選択権を与えられ、選んだ真白のドレス。服一着を選ぶことにあれ程までに頭を悩ませ、神経をすり減らすことがあるとは思わなかった。
自分で好きなの選んだ方がよくね?と頭を抱える俺に、じゃあこれでと明らかに一番手近にあったからという理由だけでドレスを選んだなまえに、お前マジでふざけんなよと恐らく一般的には男女立場が逆であろう言い争いのようなものを経て決めた真白に身を包んだ彼女は、それだけのことがあっただけあってよく似合っていた。
宣言通りに人の腕を握るように掴み、深く息を吐き出している当人はといえば、そんなことを気にしている段ではないらしいが。

「ああ、もう、緊張する……」
「落ち着け。誰もお前なんて見てないって」
「ああ、そっか!」
「……マジで大丈夫か、なまえ」

そんなわけあるか、注目の的に決まってんだろ。

「……あの、堅治」
「吐くか?そこらへんになんか袋あったような気が」
「いやそうじゃなくて……、今更なんだけど」
「なに。ドレスのサイズ合わないとか?」

少し痩せたか?と手首を取ってみるも、なまえはじっとこちらを見上げいつになく真剣な表情を浮かべているものだから、自分も思わず姿勢を正して向き合う。

「本当に、わたしで大丈夫?」

真面目な顔をして、何を言うかと思えば。
彼女の鼻を抓んでやろうと手を伸ばして、化粧のことを思い出し結局は溜め息を吐き出した。

「ホントに今更だなお前」
「だって!料理はまあそれなりに出来るようになったけど別に上手くはないし、裁縫は相変わらずダメだし、そもそも家事はやっぱり好きになれないし、」
「足は遅いしすぐあちこちに身体ぶつけるし?」
「……今日も転びそうだし」
「ハイハイ、で?」
「……でもわたしは堅治がいいから、困ったね」

まさかの着地点だった。
困ったねって、全然困ってないような顔で言うそいつに脱力する。お前結局何が言いたかったんだよ。さっき思い留めた鼻に手を伸ばせば、「痛い」とケラケラ笑われた。
全くもって、幸せそうな顔がよくお似合いですね。



真っ直ぐに伸びたバージンロードというやつは、実質大した距離ではないのだろうけれど、厳かな雰囲気の中視線を一身に受け一人で歩くのはさすがに俺でも緊張してしまった。
あいつは、大丈夫だろうか。あの高い踵で、周りを巻き込みながら転倒なんてことにならないだろうかとこちらまで不安になってきた時、後方のバカでかい扉が再び開く。外は快晴。眩しいくらいの青空を背になまえはそこに立っていた。

──本番に強いやつだ。
顔を上げて一歩一歩、父親と並んで堂々と歩みを進めるその姿に、俺はハラハラと気を揉むのも忘れてただ、見惚れていた。
淡い光を浴びて真っ直ぐに前を見つめるなまえが、なによりも綺麗で尊いものに思えて、胸にこみ上げるものがある。
式を挙げる上で、希望はひとつだけ。神様にではなく、大切な人たちに誓いたいと彼女は人前式を望んだ。

──でもさ、もしこれから先、堅治がなまえと一緒にいたいって自分から思えたなら、その時は最後までよろしくね
ふと、彼女が零した笑みが、彼女の笑顔と重なった。
泣き虫よりも先に泣きそうになったことは、一生黙っておこうと思う。

愛々している


- ナノ -