どれだけそうしていただろうか。お互い鼻の頭と目を赤くしたぐしゃぐしゃの顔で、今日に戻ってきた。
気付けば日は沈んでいて、細く差し込む街灯の明かりばかりが光る部屋で深く深く息を吐き出す。白檀の香りはすっかり薄くなっていた。

「お前さ」

少し掠れた堅治の声が部屋に響き、未だ熱を持つ目を彼に向けてその続きを静かに待つ。

「俺が死ぬの、こわい?」

予想だにしていないたったの一言で、一瞬にしてその光景を容易に思い浮かべることが出来てしまう自分が心底気持ち悪かった。過程はちっとも想像出来ないのに、葬儀場での姿はあまりにも鮮やかに浮かんでくる。ともすればいかれていた。
どうしてそんなことを訊くのか。悪寒が背中を駆け抜けて、無意識のうちに手を強く握る。息を呑むばかりで口を開こうとしないわたしに、彼はあろうことか小さく笑った。

「最初から、会わなきゃよかったな」
「……え」
「知り合わなければ、俺がいつか死ぬかもしれないって思いながら生きることもなかったわけだろ、なまえは」

愕然として、力が抜けた。だというのに腹の底からやたらと熱いものが湧き上がってくる。それが怒りなのか悲しみなのか恐怖なのか、自分で全く理解出来ず言語化にも至らない。
そんなことは、それだけは今まで微塵も考えたことがないのに。あまりにもひどい言い種だ。感情が爆発しそうになって、けれど自分が今までそうして距離を置いてきた人たちの存在に気付く。
自分を知っている人が、自身が知る人がいない所へ行きたくて地元から離れた高校を受験した。そこで少なからず友人と呼べる人たちも出来て楽しくやっているつもりだけれど、それがこの先大人になっても続く程の仲かと言われてしまえば。
「わかってると思うけど」徐に伸びてきた手が、わたしの頭を雑に撫でる。

「俺もいつかは死ぬし。いつかは知らねーけど」
「…………」
「おじさんだってゆとりだって、いつかはいなくなる。けど、今は元気じゃん」
「……うん」
「なまえの言う『こわい』を完全には理解してやれないし、多分お前は誰にどう言われたって自分で自分を納得させるしかないんだと思う」

彼の言うことは何も間違ってはいなくて、わたしだって頭ではそんなことはわかっていた。それでもその理解をこえて感情を支配するものがあるのだ。
曖昧な表情を浮かべているのであろうわたしに、彼は尚もわしわしと人の髪を掻き混ぜながら言う。
外の光に照らされた畳が、淡く発光していた。

「つか、明日が来ないかもしれないって言うけど」
「……うん」
「別に明日が来ない確信だってお前、持ってなくね?」

実に軽い調子で、けれどバカにしたような含みは一切なく。
気付けばぽかりと口を開けて「ほんとうだあ」と何とも間の抜けた声を零していた。

寝て目を覚ましたらいつも通りの今日ではないかもしれない、不意にそう恐ろしくなることがある。そんな誰にも吐露したことのなかった心の内に、まるで光明が差すようだった。
母だって、わたしに恐怖を植え付けたかったわけでは決してないだろう。日々を振り返った時に後悔の念に苛まれ、雁字搦めになってしまうような生き方をしないようにとわたしたち家族の幸せを願って伝えた言葉を、勝手に恐ろしいものにしてしまっていた。

「……わたし、こんなこと言うつもりなんて、なかったんだよ」
「知ってる」
「そっか」
「それでも俺は、知りたかった」
「……そっか」

そんなに心を砕いてくれなくてもいいのにと思う。
わたしの「こわい」は消えたわけではないし、今まで蔑ろにしてきた人間関係を大切にすることにも時間が掛かるだろう。きっとすぐには切り替えることが難しい。
けれど、また言いようのない不安に襲われた時は、きっと堅治の言葉を思い出して上を向く。ひとつの道筋を、彼は示してくれた。
では、堅治の「こわい」はどうなるのか。

「……あ、本当だ」
「? なにが」
「わたしと会わなければ、堅治が頭悩ませることもなかったし、わたしのこと気に掛ける必要もなかった」
「…………」
「ごめ、」

ごめんと、全てを言い終える前に視界がぐるりと反転する。
何事かと瞬きを繰り返すと、目のふちに溜まっていたらしい涙がこめかみを伝って畳に落ちた。唐突に押され、強かに打ち付けた背中の痛みを気にするよりも先に混乱で頭がいっぱいになる。眼前には堅治の顔があって、彼の手によって抑えられた右肩が熱かった。細い光を背負い影になっているためにその表情はよく見えなかったけれど、今彼がひどく怒っているのだというのは肌を刺す空気でありありとわかる。わかる、が、わからない。

「堅治」
「何もわかってねえじゃんお前」

圧のある低い声に、息を止める。
わからない、確かにわかっていないけれど。わたしの今の言葉が引き金だったのだとしたら、先にそれを口にしたのは堅治の方だ。

「堅治に言われたくない」
「あ?」
「わたしは、堅治のこと知らなきゃよかったなんて思ったこと、一度もない!」
「俺だってねーよ!」
「ウソだ!そっちが先に言った!」
「それはなまえが!」
「わたしがなに!!」

暗い部屋の中、滑稽な状態にもかかわらず至近距離での怒鳴り合いに息が上がり、気付けば肩が大きく上下していた。生理的な涙が目尻から零れて、また畳にしみをつくる。もうずっと情緒がぐちゃぐちゃで、感情のセーブが碌に出来なくなっていた。まるで幼いこどもだ。
目の前の彼に、どう言葉を尽くせば伝わるのかもわからない。「悲しい」が一番きっと大きかった。そんなこと本当に、思ったことがないのに。でも彼がそう言うのなら、ああそうなのかもしれないと飲み込んだのに。なんで怒るの。
悲しみと怒りと困惑と動揺と、やはりぐちゃぐちゃの心で堅治を睨み付ける。それを受けた彼は、一度深く長い溜め息を吐いた。彼の纏っていた怒気が、霧散する。

「……なまえが思い詰める原因が減るならと思って、言った」

ホントにそうは思ってない。ごめん
力を抜いて、わたしの肩に額を預けるようにしてそう言った堅治の、さらりとした髪が首筋に当たってくすぐったい。
自分が先に言い出したことに、こちらが同意した途端怒り出す。それだけ聞けばなんともまあ随分な話だけれど。そうやってこの人を追い詰めていたのは自分の方だと気付かされる。距離を置くべきなのだろう。
そう思うのとは裏腹に、その髪に手を伸ばし好きに掻き混ぜる。肩にかかる重みがどうしてか心地好く、泣きそうな程にあたたかかった。



身体を起こして、ようやく部屋の明かりを点ける。一瞬その眩しさに目が眩み、瞬きを数度繰り返した。

「他には」
「なにが?」
「お前が他に、黙って勝手に一人で抱え込んでること」

気恥ずかしかったのか、胡坐に頬杖を付いてやたらと大きな態度で威圧的にそう訊いてきた堅治に、今度こそ「今日の夕飯つくるの面倒くさい」と言えばじとりとした目を向けられた。
それにしたって、なんとも余りな言い方だ。
「じゃあつくんな。ウチ来い」と投げ遣りに言う彼に、いやそれは二口のお母さんの手を煩わせるだけで何の解決にもなってないじゃんと笑ってしまう。そんなわたしを胡乱気に見て溜め息を吐いた彼は、再度「他には」と言った。

「じゃあ、今日どうしていらっしゃたんですか」
「はあ?」
「顔がヤクザ」
「あ?お前が自分から何か言ってくるまで待つ気だったけど、今日普通に会場いるの見つけてなんか腹立ったからに決まってんだろふざけんな」
「流れるような罵倒だ。よく気付いたね?」
「兄ちゃんたちにあんだけ『堅治!』つって呼ばれれば気付くわ。まさか兄ちゃんたちと一緒になまえも居るとは思わなかったけど」

眉間の皺を揉んで、低く唸るように「結局俺から動いてるし」と彼は零した。

「さっき言ったの全部、一人で溜め込んでたくせに絶対言わなかったお前に腹が立ってるし、それを今まで吐かせなかった自分にもムカついてる」
「…………」
「別に言う義理なんて無いけど。俺が知りたいから、言え」

あまりにも横暴は話だ。だというのにその声はびっくりするぐらいやさしい。

「じゃあ、いっこ」
「おー、吐け吐け」

そう言ったきり続きを言わないわたしに、堅治は「強情」と呆れたように言う。
あれもこれも曝け出してしまって、更にはもうひとつと既に声にしてしまったのだから言い淀まずに口にすればいい。いいのに、でも、と思う。その優しさに甘えて寄りかかって、本当にいいのだろうか。今更ではあるけれど。だってこれは、明らかに彼に対する「要求」だった。わたしの願いで、望みで、欲深い話。
心音が耳の奥で鳴る。
一度口にすれば、引っ込みはつかない。それはもう心の底から理解している。一度縋るように視線を泳がせた先、母と目が合う。
母は笑んでいた。

「堅治」
「うん」
「ずっと一緒にいて」

頬杖を付いて丸まっていた、彼の背中が伸びる。
距離を置いた方がと、思った矢先の掌返しもいいところだ。

ずっと元気で健康で、わたしより長生きしてほしい。そう思う。けれど、のこされる方の気持ちも痛い程にわかるし、世の中一秒先だって何があるかわからない。そんな約束は、あまりにも惨い。そんな望みを口にした。
わけもなくぼろぼろと涙が零れてきて、止まらなくなった。今日だけで何度泣くのだろうと自分に呆れる。呆れるのに、コントロールは出来ない。
わたしたちは、まだ十八にもなっていない。大人と呼ぶにはあまりにも未熟で、毎日がいつも通りに続いていくのならこの先の人生の方がずっとずっと長いだろう。だというのにわたしはその「ずっと」を持ち出して言う。
言えと言われたから、言った。そう開き直るにはあまりにも不確かで、曖昧で、ひどく重い話だ。
けれど、それでも。

堅治が息を呑むのがわかった。
自身が彼に対して抱えるものが、果たしてどういったものなのか実のところよくわかっていない。愛や恋やそういった類なのか、もしくは自分に向けられる優しさをただ享受し続けたいがための執着なのか。言葉を知らないだけで、もっともっと汚くてどろりとした、目の当てられないようなものかもしれない。
わからない。わからないくせに、手放せないと思ってしまった。

「なまえ」

名前を呼ばれて、顔を上げる。

「大切って言ったろ」

泣くのを堪えるような、細く、けれど真っ直ぐな声だった。
二ヶ月前の春、この場所で彼が口にした「大切」が頭の中でぐわんと響く。

「……わたしがああ言ったから、そう言ってくれたんだと思ってた」
「ハイハイハイ、お前はそういうヤツだよな。ちげーよ、バカ」
「……ごめん」
「そんなの言われるずっと前から、大切にしてるわ」
「……え?」

当然、みたいな顔をして。
震える声で「いつから」と訊いてしまったわたしに、彼は「さあ?」と笑って「まあ、初対面ですっ転ばれて、次に会った時にも転けてるの見たら誰だって心配すんだろ」と言った。
初めてお互いに顔を合わせたのは、まだ年齢が片手で数えられるくらいの、十年以上も前のことだ。そう聞いて思い浮かぶのは、今よりも幼い彼がにっと笑う姿ばかりでそんな記憶、わたしの中には無い。

「……転んでない」
「転んでたわ。何もないところでいきなりすっ転んでびっくりしたっつの」
「覚えてない、から転んでない」
「どんな屁理屈だよ」
「……誰でもじゃないよ」
「なに?」
「堅治が優しいだけだよ」

丸く目を見開いて、それから「あー」と低く唸りながら自分の頭を掻いた堅治は、観念したように脱力した。
胡坐を組み直し、無理矢理眉間に皺を寄せたような顔をして言う。

「……離れていくとしたら、なまえの方だろ」
「なんで?」
「大学。家、出んだろ」

別にお前の進路に口出そうとか思ってないけど、一言なんか……、いや言えってわけじゃないけど高校決めた時も事後報告だったし、なんつーかもっとこう、と独り言のように零す堅治に、瞬きを繰り返す。

「出ない」
「は……、は!?」
「エツコさ……先生が、あなたならここが合うんじゃないって県内の大学勧めてくれたから、そっちに今興味持ってて……」

今度オープンキャンパス行こうと思ってる、と言い終える前に左右から頬を引っ張られた。割に容赦がなくて、目を白黒させるのと痛みに嘆くのとで途端に忙しなくなる。

「いひゃ、いたい」
「へえ?なまえちゃん、それは初耳だわー」
「いたい」

だって、言ってない。そんなことを口に出来るはずもなく。痛い痛いと伸びる頬の痛みに耐えて、ようやく手が離れた。かと思えば今度はその大きな掌がそっとわたしの頬に触れた。極近い距離で視線が絡む。
その目を見れば、この人はずっとわたしのことを気に掛けて心配して、大切にしてくれていたのだといま、本当にわかった。
きっとわたしは圧倒的に言葉が足りないのだろう。飲み込んで閉じ込めた言葉を掬い上げて、知ろうとしてくれる人が近くにいた。

「なまえ、」
「ただいまー!」

堅治が口を開いたのとほぼ同時に、和室に響く声がひとつ。突然のことに二人して肩を大きく跳ね上げ、堅治はぱっと手を放した。
祖母の声だ。突如として聞こえた帰宅の声に、驚きで騒ぐ心臓を抑える。

「なまえ、もう夕飯つくってくれた?今日堅治ちゃんが大会で優勝したって聞いてねえ、うれしくてお祝いにっていろいろご飯買ってきちゃったんだけど、あら和室に電気が点いてる」
「何も玄関で叫ばなくてもいいだろうよ」
「和室いんじゃね?」

祖父と次兄の声までする。
靴を脱ぐ音や買い物袋の擦れる音だったりと、途端に家の中が騒がしくなった。祖母は随分とご機嫌なようで、その祖母を諌めた祖父の声もどこか楽し気である。余程ご近所の高校生の活躍がうれしかったのか、今日の夕飯はどうやら豪華なものらしい。準備をしていなくてよかった。まあ二口さん家のお祝い事を、当人抜きの我が家でしようというのもおかしな話だけれど。そして更におかしなことに、そのご当人は実は今我が家にいたりする。
堅治と一度顔を見合わせて立ち上がり、二人して顔だけを和室から出す。

「あら!堅治ちゃん!」
「ッス、お邪魔してます」
「まあまあ!大会で優勝したんでしょう?おめでとうねえ、私もううれしくてうれしくて!」
「おめでとう、堅治。次は全国か?かっこいいなあ」
「本当にねえ!そうだ、お夕飯はどうするの?もう二口さんお呼びして家で宴会しちゃおうかしら」
「二口さんの家だって都合があるだろうし、自分の家でお祝いしたいんじゃないか?」

嵐のような祖母の背中を祖父が押して、共にリビングへと入っていく。
くるくると表情を変える祖母はまるで少女のようで、その若さに感心しつつも呆気に取られて背中を見送っていると、遅れて廊下を進んでいた次兄がわたしの前で足を止めた。
もうバイトは終わったのだろうか、そう訊ねるよりも先にわたしの目をじっと見下ろしたかと思うと、兄はわたしと堅治の頭を順に雑に撫でてリビングへと消えて行く。

「……なにいまの」
「……さあ」

閉じたリビングへ続く扉の向こうからは、変わらず祖母の賑やかな声と祖父の落ち着いた声が聞こえてきた。
果たして今日の夕飯は何なのだろう。きっとご馳走だ。けれど今わたしはいっぱいいっぱいで、ちっともお腹が減っていない。

「なまえ」

そちらへ向いていた意識が不意に引き戻される。そういえばさっき、彼は何かを言いかけていた。
向き合って見上げれば、少しだけ緊張をはらんだ穏やかな瞳がわたしに落ちてくる。

「なまえの言う、ずっとって、いつまで」

確かめるような響きがあった。ずっとは、ずっとだ。
これは呪いだ。今度は自覚を持ってして、わたしは彼に呪いを吐く。受け入れてくれとは言わない。ただ、吐いてしまった言葉は戻らないことをわたしは知っている。きっと一生、自分の口から出たこの言葉に苦しめられながら生きていく。そうわかっているくせに、それでも言うことを選んだのは。

「堅治に任せる」
「……あ、そ」
「うん」
「……じゃあ今からお前のこと抱きしめるけど」
「うん。……うん?」
「泣くなよ」

思いもよらなかった宣言に、聞き間違いを疑った。
瞬きを繰り返す間に、彼は言葉通りわたしをその腕の中に閉じ込める。距離がゼロになった。

「……あれ、おかしい……」
「……なにが」
「なんか、すごいドキドキする」

落ち着いていた自分の心臓が緩やかに、けれど確かに心拍数を上げていく。そんな自分に戸惑いを覚えて、動揺して、その動揺のままに彼の背中に手を回しぎゅっと服を握る。
大きな身体を折り曲げるようにして、わたしを抱きしめる力を強くした彼の深い溜め息がすぐ耳元で聞こえた。

「あー……、すっげー悪いことしてる気分」

万感のこもった声だった。
そうか、これは悪いことなのか。そう思ったら、どうしてか笑えてきた。
その温もりに心を溶かしながら、不意に頭をもたげる思いがある。いつも通りの明日が、もしも。考えたくなくて、一度強く目を瞑る。
堅治は、自分で自分を納得させていくのがこの恐怖を乗り越える術だと言った。確かにそうだ。けれどきっと、わたしが「こわい」と零せば、その度に踏み出すための言葉をくれるのではないかと思う。そのせいで、反対に彼が恐怖を抱くことになるかもしれないけれど、この腕の強さを想えば大丈夫なのではないかと気持ちが上を向く。
喉の奥が苦しく、胸はぎゅうぎゅうとしめつけられるように痛む。痛むのに、心はどうにも穏やかだった。

「なまえ!堅治ちゃん!今日は二口さん家で一緒にご飯食べることになったから!」

さ、行くよ!とまた突然飛び込んできた声に、凝りもせず大きく肩が跳ねる。夕飯は、結局そういうことになったらしい。
さっきまで動揺していたくせに、離れるとなると妙に寂しくなるのだから不思議だった。

「あー……やべ……、あ、なまえやっぱ泣いた」
「え、泣いてない」
「嘘つけ」
「ついてない」
「……ハイハイ、ゆとりもつれてくか」
「うん」

それじゃあ母さん、行ってきます。

明日が来たのはついさっきでしたか


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