通学用のリュックを床に放り投げて、制服のままソファに転がる。
何をしたわけでもないのに、なんだかひどく疲れた。伊達工業の勝利を兄弟三人で見届け、長兄は明日仕事だと自分の家へ戻り、次兄は今からバイトだと会場からバイクを走らせ、わたしはわたしでひとり家に帰ってきた。
帰りの電車に揺られていると徐々に熱が落ち着いていき、誰もいない家のしんとした空気にいよいよ先程の体育館の熱気が夢だったのではないかと思えてくる。
横になったまま目を閉じれば、そのまま眠気に誘われた。



くりくりとしたまん丸の目がこちらを向いて、わたしの名前を呼ぶ。泣き顔を見られるのは嫌だった。
「なまえちゃん」もう一度聞こえた声に下唇を噛んだまま応えれば、彼はにっと笑ってわたしの手を引いた。それにつられて笑えば、涙はすぐに引っ込んだ。



ピンポンと、インターホンが鳴っている気がして目が覚めた。
どれくらい眠っていたのか、ぼんやりとした頭でゆっくりと瞬きを繰り返す。足元でゴソゴソと音がして視線をそちらに向ければ、わたしのリュックを鼻先で突いているゆとりがいた。それに「こら」とまだどこか夢現な声を投げたところで、今度ははっきりとピンポンという音が聴こえる。
宅配便かなと、のっそりと身体を起こして玄関へ向かい、ハーイと間延びした返事をしつつ扉を開ければそこにいたのは予想外な人だった。

「ドア開ける前にインターホンで確認しろっていっつも言ってんだろ」

なぜ堅治がここにいるのか。
まだ寝惚けているのだろうかと、高い位置にある顔をじっと見つめていると訝し気な表情を浮かべた彼に鼻をつままれた。なるほど痛い、夢ではないらしい。そう自覚すると同時に、頭の天辺から爪先まで一気に緊張が走った。自ずと肩に力が入る。
だというのに一方で堅治は、普段と変わらない飄々とした調子で言う。

「寝てんの、なまえちゃん」
「ねてない……」

「寝癖」とほんの数時間前バレーボールを器用に扱っていた大きな手で、わたしの髪を掬う。あのコートに立って重力に抗いながら周りを鼓舞していた知らない彼ではなく、自分のよく知る顔だった。小さく息を吐くと、一緒に力も抜けていく。
またその顔を見上げて、気付いたことがひとつ。彼は随分と背が高くなった。
わたしが見上げないと、彼が見下ろさないと、目が合わない。いつの間にか出来ていた、物理的な大きな距離。出会った頃にはなかった。それだけの、時間が過ぎていった。それだけの時間をお互いがお互いにかかわってきたのだ。
そんな当たり前のことを今になって実感する。

「……おっきくなったねえ」
「は?なに、マジで寝てる?」
「起きてる。試合、おめでとう。お疲れ様」
「おー、どうも。なまえ見つけてビビったわ。学校サボった?」
「HRだけ……、え?見つけたってなに?」
「なにって、居たじゃん。体育館、兄ちゃんたちと」

わかるものなのだろうかと目を丸くしていると、わたしの寝癖をくしゃりと撫でて「とりあえず、おばさんに挨拶させて」と彼は家に上がった。仏壇のある和室へと足を進める堅治に、心臓が嫌にどきりとする。もう桜の花は枯れてしまった。
試合終わりで疲れているだろうし、優勝したとなれば高揚感だってあるだろう、それをチームメイトや先輩たちと分かち合うことはしてきたのだろうか。どうして今日、この人はここに来たのかを考えてみたところでさっぱりわからず、仏壇に手を合わせるその背中をじっと見守る事しか出来ない。
春先の情けない自分の姿が頭を過ぎって、たまらず視線を落とす。あの日以来、顔を合わせるのは初めてだった。

「なまえ」

不意に名前を呼ばれて、顔を上げる。「なに」と応えるよりも先に、彼は言った。

「言いたいこと全部言え」
「……え?」

あまりにも唐突な、何の脈絡も無い物言いだった。
何を言われているのかわからなくて、こちらを真っ直ぐに見てくるその目を見返すことしか出来ずに固まる。
もしかしてわたしはやはり夢の中に居るのかもしれないと疑ってみたけれど、視界の端でゆらゆらと細い線を描く線香の煙と、射抜くように向けられる視線は恐らく現実のものだった。
言いたいこと。今どうして堅治がここにいるのかを訊けということだろうかと意図が汲めずにいるわたしに、彼は「お前いつも、肝心なこと言わないだろ」と真剣な顔をして続けた。肝心なこと。言われても、やはりピンとはこない。

「本音誤魔化して、それっぽいことばっか言って。人に気遣ってんのか知らねえけど、マジで思ってること言え」
「なに……、何の話……」
「葬式の日に自分が言ったことで、四年間も勝手に人の気持ち決めつけて、勝手に一人で抱え込んでたんだろ」
「待って、ねえ、なに、」
「吐け」

淀みなく紡がれるまるで取り調べのような物言いに、一体これは何の尋問なのだろうかと内心で狼狽える。彼にふざけた雰囲気は微塵もなく、わたしは一度口を閉じて息を呑んだ。
急に、何だ。怒涛の如く向けられた言葉を必死に噛み砕こうと頭を働かせてみるけれど、彼の勢いに呑まれたのか頭の中はほとんど真っ白で、それらを反芻するばかりの脳に少しも理解は追いついてこない。
彼は何事かを「言え」と言う。何を?そんなに言えと言うのなら、じゃあ今日の夕飯をつくるのが面倒だから困っていると、直近の「思っていること」でも言ってやろうかと鈍い頭で口を開いたのだけれど。

「……父さんが、死んじゃったらどうしようって、ものすごくこわかった」

その口から零れ落ちた言葉は、全く別のものだった。
まるで水の中にいるような、不明瞭な自分の声が耳朶を打つ。間違いなく自分の声であるということはわかるのに、まるで他の誰かが喋っているような感覚に陥って肌が粟立った。
どうしてそんな言葉が出てくるのだろう。そんなこと、言わなくていい。
そう頭が警鐘を鳴らすのにどうしてかこの口は、自分の意思に反していつかのわたしが飲み込んで蓋をしたはずの言葉たちを勝手に紡ぎ続ける。

「担任から父さんが病院に運ばれたって呼び出されて、頭真っ白になった。病院なんて大嫌いだし、行きたくないけど、でも行って父さんに会わないとって。こわくて、今ここに堅治がいればいいのにってずっと思ってた」

視線があちこちに泳いだ。
彼はひとつ、「うん」と頷いた。
どうして。自分自身に戸惑いしかなく、この状況が途轍も無く恐ろしいことに思えて、ぎゅっと自分の腕を掻き抱く。けれど止まらない。

「ゆとりを飼うのだって、本当はものすごくこわかったし、今でもちょっとこわい。亀は長生きっていうけど、でも、やっぱり寿命はあるし、死んじゃったらって考えるとじゃあ最初から飼うなんて言わなきゃよかったのにって、思う」

話も脈略なくあちこちに飛んだ。
それでも彼は、やはり頷いた。
もしや何か自分に魔法か呪いかを掛けられているのではないかとそんな非現実的なことを本気で考え、湧き上がってくるまた別の恐ろしさを殺すため、腕に爪を立てる。それでもやはり止まりはしない。

「ケータイ、洗濯機で壊して、いろんな人に早く新しいの買えって言われて……でも、嫌だった。前のケータイには母さんとのメールとか写真とかあって、それが全部ぜんぶ消えちゃったのに、新しく買ってもそれは戻ってこないから」

それはぜんぶ自分が悪いってわかってる、もう昇華した話だ。だから言わなくていい。
彼は静かに深く息を吐き出して、頷く。
それからわたしの手に柔く触れ、腕から指をそっと剥がし、そのまま両手をその大きな手で包みこんだ。

「料理だって、家事だって、全然好きじゃない。いくらやっても下手なのわかってるんだから、やめればいいのにって自分で思ってる。でも母さんが元気になるまでの代わりにならって、思ってご飯つくってた。それなのに、母さん死んじゃったの。ばあちゃんに教わりながらやっても、母さんのつくったレシピ本見ながらやっても、全然思う通りにいかないくて、やめればいいのに、でもやめたら母さんの存在がなくなっちゃうんじゃないかってこわい」

続けたところで、母が帰ってくるわけでもないことなんてわかっているのに。
わたしの手を握って、静かにこちらを見つめる彼に、一度下唇をぎゅっと噛んだ。もういい、もういい。このまま唇を噛みちぎって、口が利けなくなればいい。そう思うくせにそれでもなお勝手に動き出そうとする口に、これだけは言ってはいけないと、そう必死で喉に力を入れたのに。
「母さんが、」零れ出したらもう、歯止めが効かなかった。

「……母さんが、家に帰ってきた時、すごくうれしかった。もうあの白い部屋に行かなくても家でまた一緒にいられると思った。でも、段々こわくなっていった。眠ることがこわくてこわくてたまらなかった。朝を迎える度に、ドキドキしながら母さんが生きてることを確認してほっとするの。学校に行くのも本当は嫌だった。その間に母さんが死んじゃったらどうしようって、こわかった。明日がちゃんと来るかを確認する勇気がなくて、いっそわたしの目が覚めなければっていっつも思ってたの」

いつも、心臓が痛いくらいに騒いでいた。目をつぶると、暗闇に自分の心音が響くようで堪え難かった。
病床の母は、眠りに半分足を浸した譫言のように「明日があるかどうかなんて誰にもわからないから、後悔の無いよう今日を大事に生きなさい」と口にしていた。
どうしようもなく説得力と現実味のある言葉に、母の横たわるベッドに顔を伏せてじっと涙を堪えたことを鮮明に覚えている。

あなたは知らないでしょう。
十三歳から十四歳のわたしがどれだけの恐怖に苛まれ、今も大切なもの失ったときのことを考えて勝手にひとり恐怖していることなんて。

知らないでしょう。

「あの日、誰かに大丈夫って言ってほしかった。わたしは大丈夫なんだって、思いたかった」

知らなくていいよ。
思い知らせたいわけでは絶対にない。一生自分の中に閉じ込めて、時折足元から這い上がってくるどうしようもない恐怖に歯を食いしばって堪えればそれで済む話だったのだ。だというのに、結局こうして欠片を零してしまった。

お願いだから、そんなことずっと知らないでいて。


「……あの時、ただ思いっきり泣かせてやればよかった」

春の名残を僅かに残した、夕暮れの淡い橙が部屋を染め上げる静かな空間で、今まで黙ってわたしの告白に耳を傾けていた彼はそう口を開いた。

「俺が大丈夫って言ったから、なまえが大丈夫な人にならなきゃいけなくなったんじゃないかって、思ってた」

ひっそりと、小さく震える声で言った彼に、わたしは首を横に振る。それは違う、あの時のわたしはきっと「誰かに」ではなく、堅治にそう言ってほしかったのだ。そう強く思う心に反して、どうしてか声にはならない。
彼は彼なりの「こわい」を抱えていた。それをつくりだしたのは、紛れもなくわたしだった。

長い沈黙が落ちる。碌に回らなくなった頭は、それでもあれこれと考えたがった。けれど何一つとして実にはならない。息を吸って、吐いて、吸って。細い呼吸と共にごめんねと、ようやく音となり自分の喉を震わせた声はあまりにも情けなく、結局また今日も泣いてしまう。
たまらずその場にうずくまりそうになったわたしを支えたのは堅治で、彼もまた声を殺すようにして静かに涙を零していた。わんわん声を上げて幼子のように泣く自分の叫びが、静寂を切り裂いていく。

まるで、四年前の春に戻ったようだった。

降伏せよ世界は開かれている


- ナノ -