「お前、来月の頭三日空けとけ」

来月頭、三日間?何で。
そう訊き返すよりも先に、頭にズボリとヘルメットを被せられた。



三年生に進級してクラスが変わり、そのクラスにも馴染めたんだかどうなんだか、まあ今まで通りそれなりの学校生活を送っている。
進学校と銘打つだけあって、放課の後にまた授業があったり、やたらと抜き打ちテストがあったかと思えば模試の頻度が去年までより増えたりと、何かと息苦しくはあるけれど。隣の席の子の、「数学捨てたい」「英文もう見たくない、日本語だけで生きていきたい」「は?現国もわけわからんって何よ?」という言葉に何度頷いたかわからない。
近頃は最終下校時刻まで学校にこもってテキストと睨み合うことが多く、帰宅時間も以前よりいくらも遅くなった。そのために、家のことをする時間が減った。それで、大した問題は無かった。わたしが夕飯をつくらなくなったところで、家族は別に困りはしない。皆自分でどうにでも出来るし、むしろその方が美味しいものを食べられるだろう。

今日もいつもと同じように学校で参考書にけちをつけ、さあ帰ろうとしたところで運悪く電車が遅延していた。一緒に残っていた友人と駅で更に参考書に文句をつけつつ時間を潰し、無事に乗れた電車に揺られていたところ、次兄から連絡が入った。
「今どこ」という簡潔な一文に倣い、こちらも「電車」とだけ返せば次の瞬間にはケータイが震えだして着信を伝えた。いや電車って言ってるじゃん、出られませんよとそれを切れば、今度は「切んな」「どこの駅」と続けて二つ。
何が目的だ?と訝しみつつ丁度今着いた駅名を打ち込めば、それから音沙汰は無く。本当に何がしたかったんだ?と心底疑問に思いつつそのまま電車に運ばれ、自宅最寄りの駅で降りれば苛立ちを顔に浮かべた次兄の姿があった。
なんで?

「遅え」
「ストーカー……」
「は?もうお前置いてくわ」

開口一番「遅い」と言われても、別に寄り道したわけでもないし、祖母には遅くなると連絡も入れたし、そもそもなぜいる。

「ばあちゃんに迎え行ってこいって追い出されたんだよ」
「? なんで」
「なまえが遅いからだろうが。もっと早く帰って来い、お前まだ高校生だろ」

自分だって高校生の時、部活のあとに遊び回った挙句日付変わるまで帰ってこなくて母さんに雷くらってたじゃん、とは口にせず。
あの時の兄ちゃんより大概早いし、大体一人で帰れるし、とも口には出さず。
バイクで来たという次兄に大人しくついて行き、駐輪場まで来たところで「そういえば」と来月頭を空けておけとのご命令である。
後ろに跨りながら思うのは、「今日も愉快な暴君だなあ」という呆ればかりだった。



「来月何があるの」

家に帰り、祖母の用意してくれていた夕飯を食べる。
斜め向かいの席に座ってケータイを操作する次兄に、帰り道ずっと疑問に思っていたことを改めて訊けば画面から目を逸らすこともせず、当然といった調子で彼は言った。

「堅治の試合」

口に含んだ煮物の味が、急に感じられなくなった。
ごくりとどうにか飲み込んで、「なんの」とかろうじて返せば、次兄の呆れ顔がこちらを向く。

「インターハイの県予選」
「インターハイ」
「そー。六月の一日から三日間、空けとけよ。行くから」

あいつ夏で引退するって言ってたし、最後の大会なんだよと行儀悪く人のおかずを摘まみながら言う兄に、わたしは黙って箸をすすめた。
彼にとって高校最後の大会が近いことは知っていた。知っていたけれど、自分が忙しくしていたこともあるし、あの日以来顔を合わせていないということもあって今のわたしの頭からはすっかり抜けていたのだ。
あの日わたしが濡らしてしまったタオルは、洗濯されきちんと畳まれた状態で未だ我が家にいる。

来月の、頭三日。壁に吊るしてある日めくりカレンダーに目を向ける。じっと今日の日付を眺めたところで埒が明かず、席から立ち上がってパラパラとカレンダーを捲れば、六月の一日は青、二日は赤、三日は黒の文字で書かれていた。つまりは土曜、日曜、月曜の三日間。

「……無理」
「は?なんで」

土日は学校で二日間かけて模試がある。月曜は普通に学校で授業がある。
そう答えれば兄は「あ?……ああ、お前受験生か」と一応納得したものの、その表情は何とも物言いたげだった。そんな顔されても、と思いながらまた口に運んだ煮物はやっぱり味がよくわからなくて、心の中で祖母に謝った。



「なまえ!」

二日続けての模試を乗り越えて、凝り固まった首と疲れ切った頭を押して帰ってきたわたしの「ただいま」に、「おかえり」よりも先に興奮気味に名前を呼んできた次兄に面食らった。続いて聞こえてきた「おかえり、なまえ」という長兄の声に、どうしているのか、一体何事だと目を白黒させる。

「明日行くぞ」
「なに、どこに」
「試合に決まってんだろ」

決まってるのか。
少しも要領を得ない答えだったけれど、試合と聞いて思い浮かぶことはひとつしかなかった。
昨日と今日、模試を受けながらも頭の隅にずっとあった彼の──伊達工バレー部の大会結果。総当たり戦なのか、トーナメント戦なのか、試合の形式すら知らない。知らないけれど、全チームが三日目にまで残っているということはないだろうと一人で気を揉みながら、そのことを兄に尋ねると気が散りそうで黙っていた。

「堅治たち、次勝ったら全国行き」

実に愉快げな笑みを浮かべてそう言った長兄も、少なからず気分が上がっているようで。「それはすごいね……」と返す自分の声も、兄たちの高揚がうつったのか変に震えていた。

「お前明日、学校何時に終わんの?」
「何時……」
「試合二時半からだけど。もう授業サボれ」

月曜は授業が七限まであって、その後に補講があるからどんなに急いだところで試合には間に合わないだろうと、高揚はすぐにどこかへ消えてしまう。サボるわけにもいかず、「やっぱり無理」と力無く口にしようとしたところで、はたと気付く。昨日今日と模試だった都合で、明日は五限で授業が終わりなのではなかったか。それならば。

「……十四時十分!」
「マジか、お前の学校最寄り駅どこだっけ?」
「なまえの最寄りまで行くより、なまえが古川の方まで戻ってお前が拾いに行くのがいんじゃない?」
「俺かよ。え、それ試合途中で抜けろって?」
「いけるいける」
「俺、兄貴のそういうとこマジで嫌」

そう口を歪めながらもケータイで時刻表や地図を検索し、だったらなまえがこの電車に乗ったとして……とぶつぶつ言い出した次兄。
「なまえ、大崎行ったことある?」「ううん、調べれば多分行けると思う。大崎のどこ?」「古川の総合体育館」電車乗り間違えんなよと笑う長兄は、きっと昨日も今日も試合の応援に行ったのだろう。そうして当然のように明日も行く。仕事は休めるのだろうかと訊こうとして、やめた。
野暮な話だ、この人はずっと心から堅治を応援してきた近所の兄貴分なのだから。



翌日の月曜日、わたしは五限終了直後に教室から飛び出した。

「みょうじ帰んの?HRサボり?」
「お腹痛いから!帰るっ!!」
「いやめっちゃ元気じゃん。エツコ誤魔化しとくか?」
「ありが、痛ッ!」
「前見ろ、前ー」

廊下にあるロッカーにぶつけた腰を擦りつつ、クラスメイトに担任へのフォローをお願いしてひたすらに駅へ向かう。「絶対にこれに乗れ」と次兄から言い渡された時刻丁度にホームに滑り込んできた電車へ乗り込み、座席に深く座り込んだ。

──お前が泣いてんの久しぶりに見たわ

乗り換えの経路を頭に思い浮かべながら、一方で真っ暗な視界の中で聞こえた声が頭に浮かぶ。
白檀が強く香る和室で、自分の家の洗剤とは違う優しいほのかな香りを感じて、前にもこうしてタオルを押し付けられたことがあることを思い出した。あれは中学二年生の春だった。
泣いてない、そう否定したいのに喉はひりつくばかりでろくに声が出ない。タオルに顔を埋めて、ただ静かに下手くそな呼吸を繰り返す。

「泣き虫のくせに泣くの下手だもんな」

やはり喉は震えるだけで音を成さない。覆った視界は暗く、けれど自分の背中に触れる手の大きさとその温かさは鮮明だった。
何も言わないわたしに、彼は小さく笑って言う。「なまえ」

「俺の言ってることの意味、わかる?」

泣くのが下手なこと?それとも「大切」の意味のこと?どちらにせよ思考は飽和し、出てくる言葉は出来損ないのものばかりでまともな会話は叶わなかった。
わたしが顔を上げるのを待って家を後にした彼とは、その日以来顔を合わせていない。
このままでいいわけがない。では、どうすれば。流れ行く景色に答えを委ねてみたところで、わかるはずもなかった。
わたしは今から一方的に、彼の勇姿を見に行く。



「走れってなまえ!」
「はしっ、て、る!」
「お前マジで足おっそいのな」

約束通り迎えに来てくれたはいいが、会場の体育館に着くなりわたしを急き立てる次兄の声に、余計なお世話だと思いつつ懸命に足を動かして観客席へと駆け込んだ。呆れを通り越して感心したような物言いに腹を立てたところで、わたしの足が劇的に速くなったりはしないのだ。
扉を一枚挟んだその向こう側は、まるで外とは別世界のような熱気をはらんでいた。質量を持ってうねる様に鼓膜を叩く音の波に圧倒され、ただでさえ苦しい呼吸がままならなくなる程の熱量に、わたしは息をするだけで精一杯になる。

「おー、来た来た。なまえお疲れ」
「疲れてんのは俺の方だわ!試合どうなった!?」
「セット取り返して、さっき3セット目始まったとこ」
「マジか!勝ってんじゃん!」

未だ落ち着きのない呼吸を肩で繰り返しながらその喧騒に溺れそうになっていると、長兄が小さく笑って「集中」とわたしの視線を下に広がるフロアへ促した。やたらと心臓がうるさい。
言われるがままに目を向けた先で、真っ先に視界に飛び込んで来たのは彼の姿だった。チームメイトに何か声を掛け、鼓舞するように手を叩く。
そうだ、彼はキャプテンだったなと、今になってわたしはようやくそれをこの目で知ることとなった。



高く長い笛の音に、ハッとする。
「スゲーな、あいつら」ひどく高揚したようにも呆然としたようにも聞こえる長兄の声に頷いて、階下で喜びを分かち合う伊達工の面々を見渡した。
彼らが勝利を収めたらしい。観ていたくせに、すごいすごいという気持ちばかりでいっぱいになって「らしい」という言い方しかできないのは相変わらずだった。
「全国行きかよ……、今年の会場ってどこ?」「確か福岡」「福岡か、飛行機……いや頑張れば車で行けるか?」と早速次の計画を立て始めた兄たちの会話を他所に、わたしは視線を未だフロアから動かせない。
涙を流して歓喜を体現する彼らの輪の中に、当然わたしの昔馴染みの彼もいた。
小学校入学前という幼い頃からの付き合いである彼がどんな人間なのかは、少なからず知っている。知っているけれど、どうしてだか思うのだ。知らない堅治が、そこにいる。焦燥にも似たような心緒に、どこが、なにが、と訊かれたところで上手く答えられないのだけれど。
漠然と、遠くに感じた。

「なまえ、大学どうすんの?」
「、え?」

不意に水を向けられてようやく視線を隣りに向ければ、次兄が「大学」とまた繰り返した。「八月の頭に福岡行くけど、余裕あるか?」と続いた長兄の言葉に、ああ受験生だからその質問かと納得して二ヶ月先の自分を頭に思い浮かべてみたものの、あまりにもおぼろげではっきりしない。
「指定校とって推薦で行くか、AOかなんかでさっさと進路決めろよ。そんで八月は遠征」と簡単に口にした次兄に適当に頷いて、考える。
もしわたしが家を出て県外に進学をすれば。これから先、「知らない」が増えていくのだろうか。増えていって──、そもそも自分は知りたいのか?
自分の頭の中がわからなくなったわたしは、両校を称える拍手を力いっぱい贈ることに集中することにした。

きっと答えは真綿にくるまれて綺麗なままでいる


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