四度目の春が来る。


「目をひく鮮やかさですよね」

不意に声を掛けられて、はっとする。
無意識のうちにぼうっと眺めていたのは濃い赤の花で、改めて見てみると確かに目の覚めるような鮮やかな色彩を誇っていた。
お馴染みのスーパーの一角にある、通い慣れた花屋。そこで何をするでもなく佇んで迷惑を掛けてしまったことを店員さんに謝れば、彼女はひとつ笑みを浮かべて「いつもありがとうございます。何かお悩みですか?」と物腰柔らかく言った。
何人かいる店員のうちの一人、恐らく母と同世代であろう彼女に、どうやらわたしは顔を覚えられているらしい。まあそれもそうか。毎月同じ頃に花を買っていく制服の女子生徒、というのは印象に残りやすいだろう。以前はその隣にやたらと背の高い男子生徒が並んでいたのだから、尚のこと。

「あの、金額を指定して花束をつくってもらうことって出来ますか?」

赤の前に付いている「アネモネ」の名札カードを一瞥してから、予約とかはしてないんですけど、と訊けばまた笑顔が返ってくる。

「はい、大丈夫ですよ。承っております。少々お時間はいただきますが、よろしいですか?」

大丈夫ですお願いしますと答えれば、「何かご希望はございますか?」と続いた言葉に思わず詰まった。
少しの間をあけて、結局「お任せでお願いします」という実に曖昧な物言いをしてしまう。それでも快い表情を見せてくれる店員さんに感謝した。
隅の方に寄って、出来上がりを待つ。店内に並ぶ色とりどりの花や緑をぼんやりと見回し、考える。

いつもは自分の好きな花を買うから、今日くらいは母の好きな花を買おうと思ってここに来た。けれど、いざ何にするかと店員さんに訊かれ、はて母の好きな花とは一体なんだっただろうかと咄嗟に答えを出せない自分がいた。
名前を知らずとも花を見ればピンとくるかもしれない、今ここにその花が無いだけで。そう思いたい気持ちと、反面、そもそも母は花を好きだっただろうかという疑問が頭をもたげ、結局は店員さんの腕に頼むことにした。

「情けな……」

記憶が曖昧なものになっていく。もしかしたらそのうち、自分の都合のいいようにつくりかえるかもしれない。
四度目の春、わたしは母の声が最早思い出せなくなっていた。



今年は例年よりも気温が高いのか、桜の開花がいくらか早かった。ざわりと音を立てて風に揺れる、近所の公園に立つ桜の木を見上げながら薄暗い帰り道を歩く。
腕に抱えた店員さんセレクトの花束は、わたしが見ていた赤をはじめ明るい色でまとめられていてとてもかわいらしかった。

「ただいまー」
「おかえり、二口のとこの堅治来てるぞ」
「堅治?」
「二口の奥さんと嬢ちゃんも夕方来てくれたし、昼間にはお隣さんも来てくれてなあ。今度会ったら挨拶しときなさい」
「はーい」

庭で植木の手入れをしていた祖父が、顔を出してそう言った。何も日の暮れた今しなくてもと思ったけれど、明るい時間のうちには来客があって今になったのだろうと納得する。

玄関を進めば、次第に白檀の香りが漂ってきた。すんと小さく鼻を鳴らして、廊下に漏れる光に導かれるように、襖が開きっぱなしの和室にそっと足を踏み入れる。
仏壇の前、座布団を避け、背筋を真っ直ぐに伸ばして正座をするその人は、写真の中の母を静かに見つめていた。
わたしはその様子を、息を潜めて目に映す。
胸の前で手を合わせ、ゆっくりと目を伏せる姿を。

静かな空間を破ったのは、わたしの抱えていた花束だった。
気付かぬうちに力が入っていたようで、花を包んでいたフィルムがガサリと音を立てる。その音にこちらを勢いよく振り向いた堅治は驚きの表情を次第に歪め、最後は思い切り顔を顰めた。
「覗きかよ」そんな地を這うような声を出さなくても。

「えーっと、ここ、みょうじさん家なので」
「みょうじさん家の人だったら覗き放題ってか?あ?」
「どんなキレ方なの?」

声を掛けなかったことは悪い気もするが、まあなんとも柄が悪い。
わたしの抱えている花束にちらりと視線を投げて、場所を空けてくれたのはいいけれど。舌打ちをしそうな様相で口を尖らせ、端に避けていた座布団を引き寄せたかと思えばその上で胡坐を掻く姿は、先程の仏壇の前の彼と同一人物なのか最早疑わしかった。

「……それ、いつものとこで買ったんスか」
「そうですね。ちょっと奮発しました」
「ふーん」

花束をそっと仏壇の横に置いて、線香を手に取る。白檀の香りが強くなった。細く立つ煙を眺めながら、お鈴を鳴らして手を合わせる。

今日は母の命日だ。
今日から四年前の今日、母はこの世を去った。

今年は特に法要も無く、わたしたち家族は各々の日常を普段通りに過ごしている。
この春から社会人となった長兄は研修で県内にいないらしく、実家に顔を出すことは無いし、次兄は今日も相変わらずバイトに勤しんでいる。それでいいと思う。
皆で家に集まったところで、どうせ母はここにいない。
それでも二口のお家の人たちだったり、お隣のご夫婦だったり、母の事を気に掛けていてくれる人がいるのはありがたいことだった。

「覗きですか?」
「あ?」

軽く伏せていた目を開け、視線を感じてそちらに顔を向ければ自分を真っ直ぐに見ている堅治と目が合った。ついさっき言われたことを同様に返せば、やはり柄が悪い。

「なまえとは違うんで。帰るわ、じゃあな」
「あ、うん。ありがとう、おばさんたちにも、」

よろしくと、そう彼の背中を見送ろうとして、不意に目に入ったのは桜だった。
家族の誰かが買ってきたのか、もしくは拾ってきたのか、家族とは別に持ってきてくれた人がいるのか実際のところはわからないけれど、桜の枝が数本、ガラス瓶に生けてある。蕾と開花しているものとが入り混じったそれが目に留まり、不自然に言葉を切ったわたしを不思議に思ったのだろう彼に「なまえ?」と名前を呼ばれた瞬間、ざわりと音が鳴った。
風の音か。一瞬そう思って、すぐにこれは自分の中で鳴っているものだと気付く。

春の嵐の、翌日。天気は快晴。
斎場にある桜の木の下。
あの日、ひとつ、呪いを吐いた。

「……ごめん、堅治」

無意識のうちに声が零れ落ちる。

「ハイハイ、次からは声掛けろマジで、」
「ちがう、ごめん」
「は?」

視線が桜から離れない。
耳元でざわざわと鳴るこの音の正体は、嵐の余韻をほんの少しだけ残したあの日の風かもしれないし、単に自身を巡る血潮の騒めきかもしれない。
ずっと、言わなければいけないと思っていた。あの日吐き出した、ただの一言がずっとずっと心に引っ掛かっていて、けれど長いこと隅に追いやっていたそれを。
「なまえ」ぎょっとしたような、訝しむような声音で呼ばれ、彼に目を向ける。

「ごめん」
「何が」
「あの日」

「大丈夫」って言わせて、ごめん

桜の木を見上げたまま、零した言葉がある。
泣きたいわけでもないのに目頭は熱くなって、感傷の波にのまれ所在無い感情の遣り処に、ともすれば叫び出したいような衝動が自身を駆け抜けていく。そんな折に、わたしの隣に並んだ人がいた。
ずっと覚悟をしてきたつもりだった。十三歳の夏、父に腹を括るよう言い渡されたあの日から、いつかがくることを自分に言い聞かせてきた。けれど「つもり」はつもりでしかなかった。少しずつ自分の中で折り合いをつけてきたはずだったのに、呼吸を止めた母を、ただただ静かに眠る母をこの目にした時にそんなものは簡単にどこかへ消えてしまった。
夏から春にかけての九ヶ月。わたしたち家族にとってはあまりにも短いが、痛みを耐える母にとっては長く苦しい時間だったかもしれない。眠りについた母へ、穏やかな声で「お疲れ様」と父は告げていた。どうしてわたしはそうやって、母を労わることが出来ないのだろう。

肯定の言葉がほしかった。わたしは大丈夫だと、その言葉がほしかった。
特別な言葉ではない。よく耳にする単なる励ましの言葉だ、けれど。わたしが彼に言わせた「大丈夫」はそういう類ではなかったのではないかと、火葬場で骨になった母を見てふと思った。
今日、この場所で言わせてしまったことでその言葉は、もしかしたらとてつもなく重たいものを背負わせることになったのではないか。そう全身の血の気が一気に引いて、思わずふらついた身体を支えてくれたのは次兄だったように思う。

数年越しの、彼からすれば脈絡の無い告白に、堅治はじっとこちらを見下ろしていた。
少しの沈黙の後、彼は静かに息を吐き出して「お前は」と口を開く。その声には呆れも怪訝も含まれておらず実に淡々とした響きに、わたしの言う「あの日」が明確に伝わったことを察した。謝って許しを乞いたかったわけではないが、一体どんな言葉が続くのだろうかと自然と身体が強張る。

「なまえはスゲー不器用だし、運動神経も引く程悪いけど」
「…………」
「それでも、大丈夫だと思ったのは本当。今でもそう思ってる」

ざわりと、音が鳴る。

「けど、そのせいでお前が気負ってんならってずっと考えてた」

謝って、もう本当に大丈夫だよって。何も考えずにあんなことを言ってごめんねって。よく家に顔を出してくれるのはわたしの家事の不出来さを笑うためでも、ゆとりと遊ぶためでもあるかもしれないけれど、根っこの部分ではわたしのことを気に掛けてくれていたんでしょう。
本当は、心のどこかではわかっていたけれど見ないふりを、気付かないふりをしていた。自分の吐いた言葉の重みに、気付きたくなかった。彼の優しさに甘えていた。
もういいよ、大丈夫。それを示せるだけの根拠はまあ無いんだけど、でも本当に大丈夫。そう、言うべきだった。
彼の言葉は続く。

「今更何があってそう言ってくるのかは知らねーけど、別になまえに言われたから言ったわけじゃないんで」
「…………」
「なまえは大丈夫だと思ったから、そう言った。でも、あの時に言うべきじゃなかったっていうのも、ずっと思ってる」
「…………」
「ごめん」

どこに堅治が謝る必要があるのだろうか。彼は彼なりの負い目を、自責の念を抱いていたことを、今はじめて知る。思わぬ謝罪に、最早思考を放棄した自身の口をついてするりと出てきた声はひどく掠れていた。

「じゃあ、なんで、」

瞳が揺れている。ゆらゆらと、視界が徐々にぼやけて輪郭が曖昧になっていく。
泣かないで。そう願ったのだけれど、彼がスポーツバッグからタオルを取り出し、わたしの目元に押しやったことで泣いているのは彼ではなく、自分だとようやく気付いた。
彼の瞳は静かに、凪いでいる。

「何をそんなごちゃごちゃ考えてんだよ」と堅治は言った。
言われて、やはり思考を介さない言葉は胸に抱いたそのままに溢れ出る。

なんで、そんなにやさしいの

引き攣って震える喉から零れ落ちた声は、実に情けない響きの音だった。
それでも確かに聞き取ったらしい彼は言う。

「大切だから以外に、何が必要なわけ」

──お前にとって俺はなんなんだよ

彼の声が己の耳朶を打つと同時に、不意に頭を過ぎって。
ああ、わたしと同じだと思った。

いつか返さなければならないものについて


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