「ゆとりって意外と素早いよな」

人の家のダイニングに置いてある椅子に腰掛け、まるで我が家かのように遠慮無くくつろいでいるその人を一瞥して、わたしは玉ねぎのみじん切りを再開した。
今の言葉が単なる称賛ではないことを察してしまったのだ。

「飼い主は鈍臭いのになー」
「………」
「足も遅いし」
「………」
「ゆとりの方が速いかもなー」
「堅治ほんとうるさい」

ほらみろ。
たまりかねて、ダイニングと対面式になっているカウンターキッチンから包丁の先を向けて言えば、「別に誰もなまえのこととは言ってないけど」なんて鼻で笑われた。腹が立った。わたしに理性が無ければ、この包丁は投擲されていたかもしれない。
怒りに任せるようにダンダンッと音を立てて、投げられることのなかった包丁を動かせば今度は「お前それ、まな板切ってんの?」なんて失礼な声が飛んでくる。
切れるもんかい!無視だ、無視。

ところで「ゆとり」とは、我が家で飼っている体長15cm程の亀のことである。

なんとかリクガメという種類のその亀は、二番目の兄が高校生の時に、知人から貰い受けたといって唐突に我が家につれてきた子だ。
初めはなんで亀、だとかどうやって飼うの、だとか家族でやいやい言っていたが、今ではすっかり我が家の立派な一員である。
ちなみに名付け親は貰ってきた本人で、曰く「心にゆとりを!」ということらしい。まあその当時は確かにみんなちょっと余裕のない状況であったから、特に反対する人もいなかったけれど、今改めて考えればよくわからない名前だと思う。動物病院に連れて行った時の、お医者さんによる「みょうじゆとりくん」という呼び出しを何度経験してもむず痒さを覚える程には。

ケージの中でのそのそしているその子を見ながら「こう、のんびりしてんのは本当ソックリなんだけどな」なんてなお堅治がしみじみとしたように言うものだから、半分に切った玉ねぎがころんとまな板から転げ落ちた。怒りによる振動のあまりに、である。
人のことをのんびりだとか言ってくるがそんなつもりはないし、他にも彼はよくわたしに「鈍足」だとか「のろま」だとか言ってくるけれど、それだって……、うん、まあ運動は決して得意ではないというのは確かなことではあるものの、と少し悲しくなったところでハッとして、そして思い出した。つい先日もこの人はひとのことを「鈍足」と称したのだ。

「堅治!」
「なんだよ」
「ケータイ貸して」
「は?なんで」
「いいから」
「いや、よくねえわ」
「別にエロ動画のフォルダいじったりしないから」
「そこじゃねーよ!」

えっ、そこじゃないなら何だ、もっとエグいのがあるの……?とちょっと身を引けば「プライバシーの問題だろ!大体ンなもんねえわ!」と彼は目を吊り上げた。
そういうことにしておいてあげようと、生温かい視線を向けたところでいやそうじゃないと首を振る。
プライバシーってどの口が。

「自分は人のケータイ勝手にいじったくせに」
「はあ?いじっ……………」
「ほら!」

すっかり忘れていたが、この人は人のケータイを勝手にいじり、自分の登録名を『なまえのお守役』にしていたのである。……恥ずかしくないのかな。
とにもかくにも、彼のケータイに登録されているであろうわたしの名前を「チーター」とかそこらの足の速い生き物に変えたい。最早二足歩行ではないけれど、生き物なのでセーフということにする。おっきいカテゴリーでくくれば一緒だ、一緒。

「そもそもさ、なんでロック掛けてるのにパスワードわかったの」
「0000とか初期設定かよ。逆に心配になるわ」
「……変える。絶対わかんないのに変える」
「おー、がんばれー」
「にやにやしないでっ。大体、オモリってなに、自分で言うの?いつそんなのした?」
「頼りになるご近所さんがいてうれしいだろ」
「いや。わたし、ゆとりの方が頼りになると思う」
「はあ?どんな目してんだお前」

みじん切りにした玉ねぎを、油を引いたフライパンで炒める。昔はみじん切りどころかちょっと玉ねぎを切るだけでもボロボロ泣いていたわたしからしたら、この作業の段取りの良さは随分と成長が見られたものだ。
鼻がちょっとつんとする程度で、涙が出る前に切り終えられるくらいのコツは掴んでいる、と思う。……まあ、みじん切りというには粗っぽいのも混じってはいるが、うん、そこは。
目を瞑るところは瞑り自画自賛しながらヘラを動かせば、少しの水気と油が混ざる音が辺りに響いて、堅治が何事かを言っているが耳には届かない。そういうことにしておいた。

亀について、飼う上でのそこそこの知識はあるものの、まだまだ勉強しなければならないことも多いし他に亀をたくさん見てきたわけでもないのだけれど、ウチのゆとりはこう、落ち込んでいる時や寂しい時にそっと寄って来てくれるような気がするのだ。まあ親バカというやつだ。
恐らく、大抵は餌の催促なんだろう。

気付けばダイニングと続きになっている居間の方へ移動していた堅治は、これまたいつの間にやらゆとりをケージから出しちょっかいをかけている。
本当に自分の家みたいに自由にしてるなと思いながらも、まあ自分も二口さん家でのんびりすることはあるしなと特に何も口にはしなかった。
じっとゆとりの顔を眺めていたかと思えば、首を傾げた彼の姿に内心で笑ってから、その背中に声を掛ける。

「まあまあとりあえず、玉ねぎが冷めたら挽き肉と一緒に混ぜてね」
「はあ?なんで」
「? 混ぜないとハンバーグ作れないから」
「そうじゃねえよ、なんで俺」
「そのやたらとでっかい手はなんのためにあるの」
「少なくとも、挽き肉捏ねるタメじゃないんスけど」
「堅治だって食べるんでしょうが」

飴色になった玉ねぎのフライパンを一度コンロからおろして、今度は冷蔵庫からレタスを取り出す。これは調理するためのものではなく、ゆとりのご飯だ。その緑を認識したのか、ゆとりがなかなかのスピードでこちらへやって来る。

「食い意地張ってんのも飼い主似だな」
「うるさいよ」

わたしは別に食い意地張ってない、と腹が立ったけれどまたそれを口に出せば、別に誰もなまえのこととはなんとかかんとかと揚げ足取りのようなことを言われるのが目に見えているので、わたしは黙って堅治にレタスを託した。「なに」「千切って」エサ入れを指さしながら言えば、割に素直に従ってくれたので、その間にわたしはテーブルの上に置いてあった彼のケータイに手を伸ばす。伸ばしたのは、いいものの。

「……堅治くん」
「んー」
「パスワード何だろ、これ」
「お前みたいに単純じゃねえことは確かだわ」
「わかった!わたしの誕生日だ」
「なんでだよ、彼女か」
「え、お断りします……」
「なんだお前」

適当にポコポコ打ち込んでみたところで運良くロックが解除されることはなく、それを何度か繰り返してみたところで結局呆れ顔の彼に取り上げられてしまった。……そのうち隙を見つけてまたいじってやるからな。

「つかお前、人のいじって何するつもりだよ」
「わたしの登録名変えるつもりだよ」
「何に。『クレオパトラ』とか?」
「なんで!?どういう発想なの、わたしのことクレオパトラだと思ってるの?絶世の美女じゃん」
「あーまあ、お前はクレオパトラっていうか小野妹子って感じだったな、悪い」
「おのの……、それ男!それ言うなら小町!」
「は?お前自分の事小野小町だと思ってんの?」
「そんなこと言ってませんけど!大体そういう系にしたいんじゃないからね」
「じゃあ何」
「絶対教えない。はいはい、はいじゃあ堅治、手洗ってお肉混ぜて」
「へいへい……、なまえさん、これ玉ねぎ普通に焦げてません?」
「焦げてません」
「いや、焦げてんだろ」
「……姑」
「誰がだ小町。お、ゆとりが不器用なのも飼い主似だなー」

レタスを咀嚼していたゆとりが、それをぽとりと口から落としたのを目敏く見つけた堅治のことは、今度から「姑」でケータイに登録しておこうと思いました。

ビンのふたはよく勝手にどっか行く


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