「みょうじはー、っと、大学進学ね」

普段は選択授業でしか使われることのない予備教室で担任と二人、向かい合って席に着く。間にある机の上にはいくつかのプリントが広げられており、担任がそのうちの一枚を差し出した。

「成績的にはどの志望校も問題ないけど、こことここと、ここ。偏差値に大きく開きがあるのはなんでなの?」

もしかして、学部で適当に書いた?
先日受けた模試の結果に目を落としながら、志望校として書いた大学の名前を指でトントンと順に指した彼女の、全く的を射た指摘に苦笑を返す。
「そんな感じです」そう口にすれば、担任がつられたように小さく笑った。

学年末考査、それから三年諸先輩方の卒業式を終え、在校生は修了式を残すところとなった今日この頃。LHRの時間を使って、一人二、三分ずつの簡易的な二者面談が行われている。
先月だったか先々月だったかに受けた模試の、その結果に基づいた志望校判定を資料にし、後日行われる保護者を交えた三者面談へ向けての最終確認が主な内容だ。
我が校は進学校と名乗っているだけあって、一年時から進路希望調査票という名の用紙に散々今後の人生設計を書かされてきたけれど、じゃあとりあえず進学して、なんとなくここがいいかなあとぼんやり希望の学部が浮かんでいるというだけで、そこから先の具体的な事はこの時期になってもわたしはまだ不鮮明なままだった。

「関東とか九州とかの学校書いてるけど……、もしかしてこれも適当にしたの?」
「資料室でパラパラーってめくって、出たところの大学名を書きました」
「みょうじ〜……」

頼むから真面目にやってくれという空気をひしひしと感じる、彼女の低く唸る声に不出来な生徒で申し訳ないと反省する気持ちと、いやだって判定欄空白で出すよりはいいかなと思ってと内心で舌を出す自分とがいる。
雑に前髪を掻き上げた彼女が、大きく溜め息を零して広がっていたプリントを一つにまとめ始めた。どうやら一先ずはこれで終わりらしい。

「はあ、これは親御さんともよくよく話し合いましょう」
「あ、先生。それなんですけど、三者面談って来るの父じゃなくても大丈夫ですか」

彼女の動きがはたと止まる。
手にしていたプリントを机に置いて、少しの間と共に瞬きをひとつ。

「お父様は、お変わりない?」

しんとした教室内に響いた声は些か硬いように聞こえて、あの日のことを思い出した。

校内放送で呼び出された昼休み、それから学校を飛び出して次兄と病院へ向かった、その翌日。
「昨日の体育、マサシが休みでさあ」「バスケじゃなくてドッジ大会になったんだよ〜」「いやでもどっちにしろなまえは顔面キャッチ免れなさそうじゃん」「確かに。余裕で想像出来るわー」「てかマサシなんで休みなん?風邪?」「知らね、筋肉ばっか鍛えてっから風邪に弱そうではある」
おはようの後に続いたクラスメイトたちの報告に、「今わたしのこと悪く言った人の顔、覚えました」と笑いながら残して教室を後にし、「あいつ訴訟でも起こす気か?」「やべー、弁護士用意しよ」「次会う時は法廷だな」と追ってきた声は流して職員室へと向かえば、その途中で目的であった担任と出会した。
「みょうじ」わたしを呼んだきり、それから言葉をさがすように息を呑んだ彼女を目にして、相当な心配を掛けていたことをその時ようやく自覚した。昨日のうちに取り敢えずは無事であった連絡を入れる、なんてことは少しも頭になかったわたしは、結局いつでも自分中心に物事を考えているのだ。
申し訳なさを抱きそのあと咄嗟に「大丈夫です」と返した声が上擦ってしまって、それが精一杯の虚勢だと誤解を与えてしまったことは割愛するとして。

「元気です。それでその面談の期間中、出張で都合つかないみたいで」

担任である彼女が、学生の頃に父親を亡くしたと知ったのはその時だった。
突然のことだったらしい。いつも通りが、次の日には「いつも通り」ではなくなっていた。そのこともあって余計わたしのことを内心で案じていたのだと。
そう聞いて、わたしの家族の一騒動が彼女の古傷を抉ったことに気付いた。否、勝手に傷と呼ぶのは失礼な話だけれど、柔らかな部分を引っ掻いたことは確かなのだ。そして同時に、人は生きている限り死という存在が付き纏うのだと改めて認識する。
わたしは、一生母の死を自身のどこかに抱えていく運命らしい。

「わかりました。代わりに誰がいらっしゃる予定?」
「祖父母か……、最悪兄です」

最悪なの?と彼女は笑った。



「次の人どうぞー」

自主学習の時間として割り当てられた教室に戻りそう呼びかければ、出入口近くの席でオセロをしていた一人が「あ、私だ」と手をあげた。それ、誰が持ち込んだの?と訊くよりも先に「じゃあなまえちゃん、交代で」と席を立った彼女の代わりに椅子へと座らされる。なんで?とまた口にするよりも先に、その子はひらりと手を振って教室を後にした。

「ええ」
「なまえ、白ね」
「あ、うん?……えっ、角三つもとられてる」
「がんば」

ゲーム中盤の盤面は、半分以上が黒い石で埋まっていた。これは頑張ったところでどうにかなるのだろうか。
まあやってみるかと石をひとつ手に取って、盤面を眺める。

「面談どうだった?」
「ん?呆れられた」
「なにしたし」
「志望校テキトーに書いた」
「マジ?強いな。あー、でも私も別にちゃんとは決まってないわ」
「だよねえ。みんなはきちんと決まってるんですかね」
「ねー。先輩ら、受験大変そうだったよね。あー受験したくねー、気が重い、あ!?うそ、そんなとこ打つ!?」
「打ちまーす」

来年はもう、自習時間にオセロをする余裕なんて無くなるんだろうなあという重く暗い気持ちは隅に追いやって、今はひっくり返る黒の石にしたり顔でいることにする。



「ただい、まー……?」

家に帰ると、なんだか普段よりも賑やかな雰囲気を感じた。なんだろうかと不思議に思いつつ居間に繋がる扉を開ければ、そこには家族全員が揃っていた。父の帰宅がわたしより早いことはままあるのでそれは何の疑問もないのだけれど、なぜ長兄までもが居るのだろうか。
何かあったけなと思いながら、返ってきた「おかえり」にもう一度ただいまと告げ、とりあえず着替えるために二階の自室へ向かおうとしたところで「なあ」と次兄に呼び止められた。

「あれ、今日バイト休みなの?」
「そー。なまえ、お前のあれ、あのーなんだっけ、学校の……、面接?」
「面接?……ああ、三者面談?」
「面談か、そうそれ。再来週だろ?じいちゃんもばあちゃんも用事あるって言うから、俺か兄貴が行くわ」
「えー……」
「は?行ってやるって言ってんのにその不満そうな顔ヤメろ」
「……何の面談か知ってる?」
「何かやらかして呼び出されたんだろ?」

なんてことを言うんだ。
中学生の時にサッカーボールで校舎の窓ガラスを派手に割って母さんの足を学校に運ばせた次男坊様とは一緒にしないでほしい、というのは口にせず飲み込んで、「成績と進路の話だよ」と数字が所狭しと並んだ模試の結果を渡す。

「あー、進路、進路ね……はあ?なまえ、東京の大学志望かよ……って、こっちは熊本だし」

おっまえ、そんな遠くに行かないと志望大ないわけ?と目を丸くしてでかい声で言った次兄がうるさいし面倒臭くてなって、紙をひったくる様にして奪い、そのままリビングを出て二階へと駆けあがろうとしたのだけれど。
どういうわけか躓いて転んだ。

「あーあー、そんな運動神経死んでて一人暮らしとか、絶対無理だろ」

立ち上がる手を貸すでもなくそう言った次男坊様には、絶対に面談に来てほしくないと強く思った。


着替えてから戻ったリビングには、新たな顔がひとつ加わっていた。

「なんで?」

疑問をそのまま口にすれば、「兄ちゃんに呼ばれたから」と当然の顔をしてその人は言った。兄ちゃん、こと長兄は「偶然会ったから、車に乗せてきた」とこれまた当然のように言う。

「え?いつ来たの」
「さっきから居たわ」
「……どこに?」
「台所。なまえがスッ転んで、起き上がろうとして謎に一回滑ったのも見てた」
「うそ!」

気付かなかったし、見られたくなかった。突如として湧いてきた、羞恥心だか動揺だか怒りだかの対象不明のよくわからない感情のやり場の無さといったら。
恐らく次に続く言葉はわたしの鈍臭さを大仰に褒め称える嫌味なものだろうと容易に想像出来て、早々に話題を変えることにした。こういう時は澄まし顔で視線を逸らすに限る。

「この大量の魚、どうしたの」

さてテーブルの上に並ぶ、煮つけ、刺身、唐揚げといった魚料理の数々。今日の夕飯はこっちでするから、という連絡が昼間祖母から届いていたので何かしらが用意されているのだろうとは思っていたけれど。
訊けば、「俺が今日釣ってきた」とお猪口を片手に祖父が答えた。「釣り行ったの?」「おう、オススメは煮つけ。堅治も遠慮せず食べな」「あざッス、いただきます」にこにこしながら皿をすすめる祖父に、嫌味の化身こと堅治も笑顔で箸を伸ばす。愛想というか外面がいいご近所さんだ。
つまるところ、今日は祖父が海釣りに出て、そこでなかなかの釣果があり、意気揚々とそれらを調理したので食いに来いと長兄を実家に呼び。長兄が実家に戻る道中で偶然見かけた堅治もこうして食卓を囲んでいる、ということらしい。二口さん家にもお裾分けしようと思ってたところだからちょうどよかった、とは祖母の談だ。
「こっちの煮つけはマガレイで、そっちの刺身はマコガレイ。あとで茶漬けにしてもいいかもなあ」余程釣りが楽しかったのか、酒の力もあるのか、ご機嫌な祖父になんだかこちらも幸せな気分になる。魚は美味しいし、食卓を囲む人数が多いとよりそれが顕著に感じる、ような気がした。

「……なに、堅治」
「え?別に。煮つけマジで美味いなーと思って。じいちゃん料理上手いよな」
「うん?うん……、前にわたしがつくった煮つけはびっくりするぐらい味が染みてなくて、一人だけどうしてそんなに料理出来ないんだよって話を言いたいんだな?」
「何も言ってねえじゃん」
「顔が言ってんじゃん」

あのねじいちゃん、笑うところじゃないよ。



すっかり皿をキレイにしてお腹も満足し、二口のお家にとお土産をたくさん持った堅治を見送るために玄関まで出る。
兄たちが車で送っていくと言っていたけれど、祖父と一緒に晩酌をしていたのはどこのどいつだと黙らせた。

「なまえさあ」
「なに?」

腰を下ろして靴を履いていた堅治が、立ち上がってこちらを見下ろす。

「家出んの?」

廊下の向こう側の喧騒とは相反して静かな空間では、よく声が響いた。
すぐに何の話か理解が及ばず「え?」と気の抜けた声を返せば、「さっき兄ちゃんと言ってたじゃん」と淡々と言われる。さっき。家を出る。ああ、進路のことかとすぐに納得して、そういえば次兄とのやりとりを聞かれていたんだったと思い出した。
進学先として希望した大学名は、本当に気紛れで書いただけだった。大学には進みたい。父にもありがたいことに好きにしていいと言われている。けれど未だやりたいことや考えはちっとも定まっておらず、家を出る、出ないというのも真剣に検討すらしていない。
それを口にするのもなんだか情けない気がして、結果曖昧に濁したような返事をすれば、「ふーん」と彼は気の無い返事をした。それになんだかすっと首の後ろが冷えた気がして、思わずそこに手を遣る。

「ほんと、俺には何も言わないよな」

ひどく冷たい声だった。
驚いてその顔をまじまじと見上げれば、けれど彼の表情は至って普段通りで、一瞬聞き間違いかと自分の耳を疑った。聞き返そうとして、しかしそれよりも先に続いた独り言のような「まあ言う義理ないか、家族じゃないし」という言葉に、びっくりするぐらい心臓が跳ねた。

「え、」

いつだかに覚えのある、恐らくわたしが彼に放った言葉。単なる事実である言葉。それがどうしようもなく自身の胸に刺さって、じわりじわりと痛みを伴っていく。心臓が一気に躍るように脈を打ちだした。

「じゃ、ご馳走さまでした。じいちゃんたちによろしく」

いつもの調子でそう言って背を向けた彼の腕を、咄嗟に掴む。「何?」振り返った彼に、手をパッと放して「何でもない」と妙に上滑りした声で返す。無意識下での行動だった。
不思議そうな顔をしながらもまた背を向けた彼の、今度はアウターのフードを引っ張ていた。

「いや、マジで何?」
「ええ……、知らない……」
「なんだよそれ。魚料理持ってかれんのが惜しくなったわけ?」
「そこまで食い意地張ってない……」
「あ、そ?じゃあ、帰っていいスか」

だめ。
そう頭に浮かんで、けれどなぜそう思ったのかはわからない。突然自分で自分のことがわからなくなった。
「送ってく」そんな中で、勝手に口をついて出た言葉はそれで。

「はあ?それ結局俺がまたこっちになまえ送りに来ないとダメなやつじゃん」
「一人で帰れるので。送ってく」
「いや無理」
「無理じゃない」
「ワガママか」
「……っう、」
「あ!おま、ここで泣くのはナシだろ!」
「じゃあ送ります」
「……そのけろっとした顔腹立つなオイ」

嘘泣きしてでもいまは、この我が儘を通したかった。

ニューロン抹殺


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