教室に向かうにつれ、甘い匂いが強くなっていくような気がした。
我が校において二月最大の行事とは、数日後に迫る学年末考査ではなく。先日の、節分の日にかこつけてストレス発散のため教室に豆をまき散らし、担任を卒倒させたものでもなく。

「何これ!?あっ、スルメじゃん!?」
「は?マジ?誰だよこんなん入れたやつ、笑うわ」
「ね〜、こっちにさけるチーズあんだけど、これもフォンデュしていいの?」
「つか昼休みにパーティーしようって言ってたのに、まだ朝じゃん?どうすんの、この噴水」
「ベランダ出しときゃよくない?」
「衛生的にやべえだろ」

自分の教室の扉を開く前から、まあ騒がしい声が廊下に漏れ響いていた。それなりに早めの電車に乗っているものの、通学時間が長いため学校に着く頃にはいつもクラスの半分近くが既に教室にいるけれど、今日は普段よりずっと人数が多いように思う。
朝からうるさい、そう思いながら教室に入れば挨拶もそこそこに「なまえ!これあんたのノルマね」と竹串に刺さったマシュマロを渡された。

「なに?」
「なにって、それそれ。そこにチョコつけて食べな。アホみたいにマシュマロ被ってさー、バカ程ある」

アホかバカかどっちなのか。そう思いつつ教卓付近に出来ている人だかりの中心を覗き込めば、そこにはひたすらにチョコレートが流れ続けるチョコファウンテンと、マシュマロやバナナをはじめとする大量の食材が積み重なっていた。

二月十四日、今日は二月最大行事ことバレンタインデーである。

「……昼休みにパーティーするから、それぞれ何か持って来いって話じゃなかったっけ?」

思わず口にすれば、「それさっき私も言った」と輪の中の一人が呆れた様な顔で手にしていたバナナの刺さった串を軽く振った。
パーティーと言ってもただお菓子やら何やらを持ち寄って騒ぐだけだけれど、さすがに朝からこんな状態だとは思っていなかった。「でもチョコ流れてるし、もう食うしかないっていうか。バナナとイチゴ、どっちがい?」本当に皆朝から元気だなあと感心しつつ、訊かれて「イチゴ」とすぐに答える自分もなかなかに順応しているのではないかとひとりおかしくなった。



「今日、E組すごい騒いでなかった?」

包丁で慎重にサツマイモを薄切りにしていたら、不意に話し掛けられてスコンと刃が滑り、大層な厚切りが誕生してしまった。
「あ、ああー……!」「えっ、ごめん」「みょうじが包丁を使ってる時はむやみに話し掛けない」「あ、そうだった。すみません」代替わりした部長に怒られたのはわたしではなく、わたしに声を掛けた彼女の方で。
前にもこんなことがあったな、相も変わらずお騒がせして申し訳ないと苦笑しながら、これ薄くしてと分厚い一切れを差し出して頼めば彼女は簡単に四等分にしてくれた。上手、と無意識のうちに零せば、「もう話していい?」と笑われる。

今日の料理部は、毎年の恒例、今日明日と駅前で行われているバレンタインフェアで出店中の露店に卸すお菓子を作っているらしい。時間があるならおいでと誘われ、夕飯の仕込みは終えていることを思い出し喜んで参加している次第だ。
メニューは毎年ほぼ同じらしく、中でも野菜チップスやドライフルーツにチョコレートを掛けたものがよく売れるのだとか。
ここでの売り上げは部費にまわるというので、微力ながら鋭意野菜チップスの仕込みをしていたのだけれど、まあ役に立っているかといえば微妙だ。正に微力。

「何してたの?盛り上がってたから、ちょっと覗きに行こうかなと思った」

彼女のクラスは確かC組で、ということは二つ隣の教室まで我がクラスの大賑わいは届いていたらしい。
一日わいわいしていた面々を思い返し、同時に、今日口にした食料の数々を思い出し。お腹を軽く擦って、しばらくは体重計に乗らずに現実逃避しようと決めた。

「それぞれお菓子とか持ち寄って騒いでただけだけど……、あ、写真あるよ」
「見せて見せて……、えっ、チョコの噴水あんじゃん」
「うん。何にチョコをつけたら一番おいしいかって、スルメとかチーズとか唐揚げとかチョコ掛けにして真剣に熱い議論してた」
「E組愉快すぎない?ていうか唐揚げ?誰が持ってきたし」
「わたし」
「なまえかい」

去年もバレンタインデーはクラス内で各々が持ち寄ったチョコ菓子が飛び交っていて、おいしいけど甘いものばっかでもなあと思い、朝から祖母指導の元鶏の唐揚げを大量に揚げて持って来たのだ。ついでに今日の我が家の夕飯分も、昨晩仕込んでいる。
なかなかに好評で安堵したのも束の間、一人が「美味いものに美味いもの掛けたらどうなる……?」と至極真面目な顔をして言い出して、実にくだらなくも激しく熱のあるディスカッションが繰り広げられることとなったのだった。
結果としては、意外にも「イケる」というものにまとまっている。

「あー、行けば良かったなー、愉快なE組」と天井を仰いだ彼女に、他にもでっかいケーキをつくってきた猛者がいるよと写真を見せようとしたところで、ポコンと画面上部にポップアップ通知が入った。メッセージを受信したらしい。

「『学べ初期設定』……?名前の登録の仕方斬新過ぎない?」
「わたしもそう思う」

新調した携帯電話を、早速いじられていたらしい。



「俺だって"0"6回押したら開いて驚いたわ。もうロック掛けてる意味なくね?」
「……ある」
「まさかそんな単純なパスワードにしてるとは思わないだろうって、裏をかきましたって?」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってんだよ」

部活終わったらそっち行く、と簡潔に一言送ってきた彼は、言葉通りジャージ姿にエナメルバッグを下げて我が家を訪ねて来た。
新しく買い替えたらパスコードが四桁から六桁仕様になっており、面倒くさくて全部「0」にしたのはわたしだ。初期設定ではなくわざわざそう設定した、というのは絶対に言わないし、パスワードはすぐに変えようと思う。……「9」6回、じゃダメかなあ。

「……今日の夕飯は唐揚げだけど、堅治の分は無いのでお引き取りください」
「別に夕飯食いに来たわけじゃないんですケド」

絶対そうだと決めつけていたわたしは面食らって、じゃあ何だ、と思ったのがまた顔に出てしまっていたらしい。
呆れた様子で小さな紙袋を差し出してきた彼に、なんだろうと考えるよりも先に、今日一日でそういう紙袋に入ったお菓子を散々見たなあという感想が出てきた。
……え?堅治が、わたしに?

「人格が変わったの?」
「は?」
「違うなら……、お返しは十倍商法ですか?」
「はあ?」

てっきり「バレンタイン」かと思えば、何言ってんだこいつ、という顔をあからさまにされた。
この十年ちょっとの付き合いの中で何度も二月十四日を迎えているけれど、お互いに何かをあげたことは確か一度も無い。小中で、わたしと彼が近所に住んでいることを知った人から「これをケンジくんに」とチョコレートを預かって渡したことはあるけれど、それくらいで。
ならば今日お菓子を渡して、来月に何倍にもして返せ、というあくどい商法に目覚めたのかと思えばそうでもないらしい。本当になんだ?もしかしてお菓子とかそういう類ではなく、この間次兄から借りたという漫画が入っているのか?とひたすらに訝しんでいると、ついには溜め息を吐かれた。

「これ、滑津から」

なんだって?

「舞ちゃん?」
「だから、そうだって。何考えてるか、はまあわかるけど滑津から預かったチョコを俺がわざっわざ配達員よろしく届けに来てやったんだから感謝しろ」
「態度のでっかい配達員だなあ」

さっきまで怪しさしかなかった紙袋が、急に輝きを放ちだす。ようやくそれを受け取ってそっと中身を覗き見れば、「なまえへ」と書かれたメッセージカードと透明のフィルムでかわいくラッピングされたガトーショコラが入っていた。本当に、舞ちゃんからだ。

「わー、うれしい!!ありがとう舞ちゃん!!」
「持って来たの俺なんですけど」
「ありがとう配達員!」
「誰が配達員だ」

自分で言ってなかった?
「俺たち部員には業務用の大袋だったのに、お前にはソレっておかしくね?」とかなんとか言っている堅治には「貰えるだけありがたいことだよ」と適当に流して、まさか貰えると思っていなかったわたしは喜びでいっぱいだった。貰えた事はもちろん、学校も違うのにこうしてわざわざ用意してくれたことが何よりうれしい。
自然とにやける顔を隠しもせずご機嫌でいると、堅治はもうひとつ溜め息を吐いてエナメルの外ポケットから何かを取り出した。

「あ、やべ、潰れた」
「なに?」
「ウチの怪獣からなまえチャンに〜って」
「え?あっ」

渡されたのは、こちらも透明なフィルムでラッピングされたチョコレートワッフルだった。「なまえちゃんへ」と見覚えのある筆跡のシールが貼ってあって、また自然と声が明るくなる。恐らく堅治のせいで端がちょっと欠けてしまっているけれど、そんなことも気にならないくらいには。
彼の言う「怪獣」とは、自身の妹のことだ。なんて呼び方だ、と思うけれどまあなんだかんだでお兄ちゃんをやっているようだし、そう呼ばれた彼女も負けん気が強く自分で言い返せるし口が立つので、仲良しだよな〜と思っている。

「うれしい……、メッセージでお礼送ろう……はっ、連絡先全部消えたんだった。配達員さん、連絡先教えてくださ……いや直接言いに行こうかなあ、でも行くなら何かお返し……、唐揚げしかない……」
「なんて?」
「お返しに唐揚げって、どう思う?」
「なんて??」

学校には何の躊躇いも無く鶏の唐揚げを持って行ったけれど、冷静に考えるとバレンタインデーに持参するものではないのではとようやく気付く。唐揚げはいつだっておいしいけれど、今日配り歩くチョイスとしては恐らく不正解だ。
二年E組は朝からチョコファウンテンをやらかすような賑々しい人たちの集まりだが、そうでない人たちに唐揚げをお返しにするのはこれ如何に。

「唐揚げにチョコ掛けたら、それっぽくなると思う?」
「さっきからマジでなに?」



結局、近所のコンビニにお菓子を買いに行くことにした。
今日が当日なので、もうディスプレイや商品はひと月後のホワイトデー仕様になっているだろうし、だったらお返しは来月にした方がいいのかもしれないけれど。
あとで舞ちゃんと妹ちゃんの分持って二口さん家行くね、と言ったのになぜか今堅治が隣を歩いている。「唐揚げ食いたくなったから、コンビニ行ってそのままみょうじの家に戻る」らしい。

「みょうじ家の夕飯なのに……?」
「なまえが唐揚げ唐揚げ言うからじゃね?」
「そんなに言ってなくない?」
「言ってたわ」

まあ、舞ちゃんたちへのお返しを配達してもらう前払いだと思えば、さもありなんといったところか。

「今日誰かから何か貰った?」
「おー、貰った貰った」
「同級生からの悪意?」
「人の事なんだと思ってんの?」
「あ、女川くんのお母さんとか、部員にお菓子用意してくれてそう」
「お前のパンタロンに対するそのイメージなに?」
「女川くんじゃなくて、女川くんのお母さんに対するイメージ」
「会ったことあんの」
「ない!」
「尚更どの口が言ってる?」

すっかり日が暮れた暗い中を、歩く。
ふと会話が途切れて、それから堅治が静かにわたしの名前を呼んだ。「なまえ」

「なに?」
「いいのかよ」
「うん?」
「花。一緒に買いに行かなくて」

降ってきた声を、ゆっくりと咀嚼する。
花。月に一回、母の月命日に合わせてスーパーの花屋さんで買っているそれのこと。
携帯電話を新調して、連絡が取れるようになった先月も一人で買いに行った、それのこと。

「うん、いい」

そっちももうすぐ最後の大会が始まって忙しいだろうし、わたしも受験だなんだで帰り時間が遅くなるから──そう言い訳を並べることはせず短く返せば、こちらを見下ろす彼が一度目を瞬いて、口を開いて閉じて。
「そうかよ」息と共に吐き出された声は、すぐに風に乗って消えていった。

「あー……ていうか、俺には?」
「なにが」
「わざわざ配達したのに、何もなしっておかしくね?」
「唐揚げ食べるんじゃん?」
「ソレはソレだろ」
「図々しい配達員だな」

今までありがとう、とはどうしてか口に出来なかった。

もう地球へ行ってはいけない


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