何があろうとなかろうと、時間はいつだって正常にすすむのだ。

気付けばいつの間にやら大晦日を迎え、目を覚ませば新たな一年が始まっていた。
一緒に夜通しで新年を祝うような友人もおらず──否、正確には終業式前に年越しイベントに参加しようと誘ってくれた高校の友人はいたものの、連絡が取れず結局断った形になったわけだけれど──、家でのんびりぬくぬく過ごして正月の慌ただしくも賑やかな喧騒を、テレビ画面越しにこたつの中からぼんやりと眺める。
ご苦労なことに元日からアルバイトに勤しむらしい次兄がバタバタと、準備の為に家の中を慌ただしく駆け回るのを尻目に、テーブルの上のみかんをちまちま剥いて口に運んだ。

「あらっ、あんたもしかして今日もバイトなの?」「そうだって。この間言ったわ」「まー、お正月くらい休めばいいのに。よく働くこと」「なまえにお年玉搾られた分、稼いでくんだよ」
祖母と次兄のやりとりの中で不意に聞こえた自分の名前に、反論しようとしてやめた。
学生の身なので、お年玉を貰えるのはありがたいことで、祖父母と父からのそれはありがたくちょうだいした。
それを見た長兄が「じゃあ俺も」と財布を取り出し、更にそれを見ていた次兄が「はあ?マジかよ、なにこれ俺もやんなきゃダメなわけ?」と財布を取り出し。
兄たちも学生なので、いらないと断ったけれど、まあまあと半ば押し付けるようにしてきたのはあちらの方だ。その言い種はおかしい。
まあ、貰えることはありがたいので。ここで何かを言い返せば「じゃあ返せ」となりそうだ、黙っておくのが賢いだろうと判断して、またみかんをつまむ。

「いってきます」と玄関へ消えた次兄に「いってらっしゃい」と返せば、家のドアが開いて、閉じる音が遠くに聞こえた。
──かと思えば。

「なまえー!ちょっと来い!」

すぐにまた開く音がして、続いた次兄の叫び声。
「……兄ちゃん、呼んでるよ」「今あいつなまえっつったべ?あ、ついでにみかん持ってきて」
ゆとりに手ずからみかんをあげていた長兄に振れば、こちらを見もせずそんなことを言ってきた。
箱買いしたみかんは玄関に置いてあるのだが、如何せん寒いので取りに行くのに多少の覚悟がいるのだ、いい使い走りにされてしまった。
渋々こたつから抜け出して玄関に顔を出せば、けれどそこには冷たい空気があるばかりで人の姿は無く。扉の向こうから聞こえてくる声に、一体何なんだと思いながらクロックスを突っかけて扉を開いた。

「なに、…………」

開いて、閉じそうになった。
そこにいたのは次兄と、もう一人。ドアノブを握る手に自然と力が入り、咄嗟に次兄へ視線を投げたけれどその人はこちらを見ることは無く。

「じゃあ俺行くから。それ、マジで大切につかえよ」
「ハーイ、いってらっしゃーい」

交わされる二人の会話にただじっと身を固めていると、車に乗り込んだ次兄を見送った彼が、振り返る。目が合った。息を呑む。数ヶ月ぶりに顔を見るその人の、口が開く様がやたらとゆっくりに見えた。
「お前さあ、」そうして聞こえた声に、自然と肩が強張って。

「っ誕生日、おめで……、とう」

彼が何事かを言い終える前に無意識のうちに自分の口をついて出てきた言葉は、本来なら二ヶ月前に贈るべきものだった。
意思に反して飛び出した言葉に自身で驚いて、尻すぼみになったそれ。絶対に、「いま」じゃない。なんだかもう自分で自分がわからなくなって、どうにもいたたまれなくなったわたしは先程思い留まった扉を今度こそ閉めることにした。
けれど、それよりも先に扉との間に滑り込むように彼の足が伸びてくる。ヤクザの取り立て、押し売り訪問販売、宗教勧誘。閉まらなくなってしまった扉に悲鳴を上げそうになっていると、彼が小さく息を吐く音が耳朶を打った。足元に落としていた視線を、そろりと持ち上げる。

「そこは、あけましておめでとうじゃね?」

聞こえた声は存外柔らかかった。



前日に降った雪が薄らと残る道を、二人して歩く。

あのあと、結局長兄が自らみかんを取りに来たことで玄関先の悪徳セールスならぬ攻防は終止符を打たれた。
おー堅治か、あけましておめでとうとお年玉を渡す長兄。さっき下の兄にも貰ったから遠慮すると言いつつしっかりと手を出していた彼。玄関の方が騒がしいことに気付き顔を出した祖母が、あら堅治ちゃんじゃない、とにこやかに笑んでお年玉を渡し、あがっていったら?と半ば強制的に彼を家に引き入れ、祖父と父に挨拶をすればまたお年玉を貰い。ものの数分で大量収穫である。
わたしはその一連の流れを、まだみかんが欲しいらしく足を叩いてくるゆとりをいなしつつ黙って眺めていたのだけれど、不意に祖母に「なまえ、ついでに破魔矢買ってきて」と言われ、気付けば玄関に逆戻りしていた。
ついでって、なんの?と目を白黒させながら祖母に渡されたコートを手に、隣に並ぶ彼を見上げる。「……なに?」訊けば、「なにって何?」と返ってきた。

「それ着れば」
「着ます……、どこか行くのこれ」
「そこの神社」
「神社。あ、初詣?」
「そう」
「へえ、いってらっしゃい?」
「はあ?」

跳ねた片眉と眇められた目を見て、そこでようやくわたしも一緒に行くのかと理解する。いつの間にそんな話に、と内心で驚きながらああなるほどそれで破魔矢、と納得した。もしかして彼は、初詣の誘いのために我が家に来たのだろうか。

「お年玉回収しに来たのかと思った……」

心の声は確かに外に零れてしまったようで、人のことなんだと思ってんだと溜め息を吐かれた。


まるであのケンカ別れが無かったかのように、極自然に会話をしている。
「ごめん」も「いいよ」も、反省も罵りも何もない。ただお互いに前を見て、お年玉のことを、正月料理のことを、彼の部活仲間のことを、冬休みの課題のことを口にしていた。

彼の言う神社とは、家から歩いて行ける距離にあるこじんまりとしたお社のことだ。別に蔑ろにしているわけでもないけれど、足繁くお参りをする熱心さも持ってはいない。だから毎年新年に参拝するという習慣も、特には無いのだけれど。
時折強く吹く風の冷たさに、自然と目を瞬く。

「お前さあ」
「うん」

ふと、そう言ったきり一度堅治は口を閉じた。
そういえばさっきも同じように言った彼の言葉を遮ってしまったなと、今度はこちらも口を閉じてその先を待つ。この人は、どうして今日家に来たのだろうか。
仰ぎ見たその顔が、やたらと大人びて見えて内心でひとり驚いた。たかだか二ヶ月顔を合わせなかっただけで、そう変わるはずがないのに。そう考えて、そんなに時間的な距離を置いたのは彼と出会ってからはじめてだということを思い出す。
幼少期から小学生まではお互いの家族を交えてよく会っていたし、中学生の時は一度我が家から彼の足が遠退いたけれどそれでも学校に行けば当然のように姿を見られた。高校生になってからのこの二年、それぞれ学校こそ違えどよくその顔を見ていた。

足が止まる。
学校が違うのに?どうして。口の中でそう呟き、その理由を考えてみたところで。
答えは既に頭の中にあった。

「なまえ?」

三歩分先に進んでいた彼に名前を呼ばれて、恐ろしく緩慢な動作で顔を上げる。すると途端に堅治はぎょっとしたような顔をして、三歩分だと思っていた距離をたったの一歩で詰めた。

「なんで泣いてんのお前」
「……?泣いてないけど」
「はあ?泣い……、てないな」

堅治は昔からわたしが泣く素振りを見せると、例えそれが嘘とわかっていてもひどく困り焦った様子ですぐに降参の声を上げる。自身が酷く責められた気になるからなのか、体裁が悪いからなのか、彼が一体どういう心境でいるのかはわからないけれど。毎回律儀に謝るのなら、最初から嫌味なことを言わなければいいのにと思いつつ、それはそれで面白いのでそのままにしていた。
ただ、今わたしは泣いていない。涙を流すどころか得意の泣き真似すらしていないのに、一体彼の目にわたしはどう映ったのだろうか。いつものように慌て、わたしの顔を覗き込み確認して、それでもどこか怪訝な面持ちで真っ直ぐにこちらを見下ろしてくる。
不意にその目と、あの日の揺れる瞳が重なって、思わず目を逸らしたのはわたしだ。

「ごめん」も「いいよ」もない。けれど、それをお互い口にすれば済む話でもないのだろうと漠然と思う。
小さく息を呑む音が聞こえたような気がした。

「……無視は無くね?」

絞り出すような、低く微かに震えた声だった。
反射的に彼を見て、言葉の意味を理解するよりも先に首を横に振っていた。よくよく見れば、彼は至って普段通りの表情を浮かべていたのだけれど、わたしにはどうしてだかそれが泣いているように見えた。

「してんだろ」
「なに、してない」
「電話は繋がらないし、メールも返信無し。着拒してんの?」
「なんの話、……あ」
「図星かよ」
「っ違う!」

咄嗟に、自分でも驚く程の大きな声が飛び出した。自身の耳がキンと鳴る程に、大きな。
唐突な話題に、やはりすぐには理解が追いつかなかったけれどそれでも、今日彼が言わんとしていたのはこの事だったのだろうと妙な確信を持った。
一瞬目を丸くした堅治は、それからひどく苛立ったように眉根を寄せて「何が違うわけ」と刺々しい声音で言う。

「今更何を、」
「壊したの、ケータイ」
「は?……あー、ハイハイ」
「聞いて」

わたしがその場凌ぎの嘘を吐いていると思ったのか、深い溜め息を吐いた彼の腕を強く掴む。
携帯電話が壊れたのは二ヶ月前の、あの熱を出して寝ていた日の翌日のことだった。使った布団のシーツを洗濯した時に、シーツの上にあったケータイに気付かず包んで一緒くたに洗濯機へ放り込み、そのまま回してしまったのだ。
固いものがぶつかるような異音がするなと思った、その時点で洗濯を止めていればまだどうにかなったもしれないけれど、大量の水に洗剤、それから柔軟剤なんかとかき混ぜられてしまえばそれはもう「生活防水」の域を超えてしまっているようで、洗濯機の中でぽつんと取り残されたそれを見つけた時には思わず「なんで?」と口にしてしまった。わたしのせい以外のなにものでもない。寿命が近い洗濯機の断末魔か?なんて思って放置した、わたしの。
次兄には「何を洗濯してんだよ」と散々バカにされたけれど、まあ長いこと使ってたし、次気を付ければいいんじゃない?とお金を出してくれている父は寛容な心を見せてくれたし、買い換えに行くのは自分が休みの時でいいかとも言ってくれた。

事の顛末を話せば彼はぽかんと口を開け、じっとわたしの顔を見て、それからひどく呆れたように今度は軽い溜め息を吐いた。
わたしの日頃の行いを思い返して、それが事実であると納得したのだろう。弁明しておくが、電子機器を洗濯したのは今回が初めてである。

「それで、まだ買ってないわけ。新しいの」
「うん」
「すぐ買え。買ったら連絡しろ」
「クラスの子たちとおんなじこと言ってる」
「言われてんならしろよ、マジで」
「ハイ」
「返事だけで終わらせんな」
「信用がない」
「嘘つきにそんなもんあるか」
「ええ、突然の不名誉」
「うるせ、嘘つきの泣き虫」
「その評価なに?」
「事実だろ。つかマジでなんで?お前にとって必需品じゃん」
「うん?」
「迷子になった時とか、転んで歩けなくなった時とか、あと側溝にハマって抜けなくなった時とか。ほら、助け呼ぶのにいるじゃん」
「わたしのことなんだと思ってる?側溝に落ちたことはない!」
「ハイハイ、で?なんかあんの」

買っていない理由。
あの携帯電話には、母とやり取りを交わしたメッセージが残っていた。母との通話履歴が、写真が、残っていた。別に普段それらを見返していたわけではないし、心の支えにしていたとかそんなこともないけれど。
だというのに、データをバックアップしていなかったことに気付いて、うんともすんともいわないただの長方形と化したそれになんだか脱力してしまったのは、我ながら現金なものだなと思う。これも全部ぜんぶ自分が悪い。泣き喚く程の衝撃はなかったけれど本当に、なんだかもういいやと力が抜けてそれからそのままにしている。ぜんぶ、なくなった。
まあそれは口にする必要もないから、一言「面倒で」と返せば頭を鷲掴みにされてしまった。ちょっと、力が強くないでしょうか。

「はーー、新年から疲れたわ」
「そうだ、あけましておめでとう」
「今じゃなくね?お前の中のタイミングどうなってんの?」

本当に疲れたような雰囲気で、けれどどこかすっきりしたような顔をした堅治に内心でごめんと謝る。何に対してかは、自分でもよくわからなかった。

電話が繋がらない、メールも音沙汰が無かった。そう言うってことは、わたしと連絡を取ろうとしてくれてたんでしょう。今日だって、初詣を口実に近い形にして、わたしを引っ張り出してくれたんでしょう。
こちらからは何も行動を起こさなかったのに。
高校生になってからだって、その真意はわからないけれど何かと理由をつけて顔を合わせる機会をつくってくれていたのは堅治だ。そうやってわたしは、この人の差し出すものをなんの疑問も持たずにただ漫然として受け取ってきた。

「つかお前に挟まれた足、痛いんだけど」
「ええ、勝手に挟んできたくせに……?やり方がヤクザじゃん」
「誰がヤクザだ」

もういい、もういいよ。

優しすぎるをしすぎている


- ナノ -