「ねえ、みょうじさんのお母さんのお葬式、行った?」
「みょうじさんって三組の?えっ、お葬式ってなに?」
「この間亡くなったんだよ、お母さん」
「えーっ、うそ!知らなかった、なんで?」
「なんか病気?らしい」
「あたし、ママと行ったよ。結構学校の人居た」
「あー、みょうじさんと仲良かったっけ?」
「去年同じクラスだったからさあ。ママがすごいなまえちゃんのこと心配してたけど、普通に元気そうだった気がする」

出るに、出られなくなってしまった。
ひっそりと息を呑んでひたすらに自分の存在を殺すしかなく、聞こえてくる高い声はトイレの狭い個室の中でぐわんと反響した。

「そうなの?すごい泣いてたって私は聞いたよ」
「まあそりゃ、泣くでしょ普通」
「なんか二口も居て、式場の外まで泣き声聞こえてて、それでもらい泣きしたって。三組のヤツが言ってた」
「二口ってバレー部の二口?」
「あー、あそこ二人仲良いよね。付き合ってんだっけ?」
「いや?違うらしい。それ二口に訊いて、すごい嫌そうな顔されたことあるわ」
「なにそれ。つか二口も泣いたの?あいつ泣くの?」
「知らない。でも、ま、人間だからね」
「それはちょっと見たかったかも」
「趣味悪〜っ。でもわかる」
「んー、あたしだったらしばらく引きこもっちゃうなあ」
「あー、ママ大好きだもんね」
「うん。待って、想像しただけで悲しくなっちゃった……」
「マジ?私は昨日もケンカしたわ」
「それこの間も言ってなかった?」
「言ってた!ケンカしすぎだよー。ママが明日急に死んじゃったらどうする?怖くない?」
「やーでもさー、聞いてよ!めっちゃムカついてさあ!」

いくつかの足音と一緒に、話し声が遠くなっていく。声だけじゃ、誰かわかんなかったなあ。別に、わかったからどうこうってわけじゃないけど。
静かに息を吐き出して、自分もそろそろここを出て教室に戻らなければと思ったけれど、なんだか身体に力が入らなかった。
このままここで時間を潰してしまいたいと一瞬考えて、いや過ごすならもっと快適な場所の方がいいし、それ以前に授業はサボれないよなともう一度深く息を吐き出す。サボったのがバレたら、そっちの方が面倒臭い。打算的に思考すれば、結局わたしはここから出るしかないのだ。

教室に戻って受けた三時間目の国語は、内容が全く頭に入ってこなかった。ノートは真っ白で、ただぼうっと黒板を眺めていた。そうしていると段々、なんだか漠然と面倒臭いという思いが頭をもたげてきて、四時間目は保健室で過ごすことを選んだ。
お腹が痛いと、適当な理由を保健の先生に話せば、体温計を渡された後でとりあえず一時間だけ、様子見ねとベッドを貸してもらえた。
横になって、目を瞑る。全然眠くない。それでも目を開くことはしなかった。閉じた瞼から透ける光が鬱陶しくて、両掌で目を覆う。それで、ようやく真っ暗になった。



「失礼しまーす。せんせー、みょうじなまえっている?」
「あら、お迎え?みょうじさんは一番奥のベッドにいるけど、まだ寝てると思うから」

突如耳に飛び込んできた声に、目を開けた。眠くなかったはずなのに、目を瞑っているうちに本当に眠ってしまっていたらしい。
「あ、こらっ」先生の諫めるような声が聞こえたのと同時に、ジャッとベッドを囲んでいたカーテンが開いて、目が合う。

「起きてんじゃん」

頭上から覗き込んできた顔に、驚いて、そして瞬間的にほっと安堵に似た何かを覚えた。それと一緒に急に目頭が熱くなって、喉がぎゅっとしまる。そんな自分にびっくりして、逆さまに映るその人の顔をただ見つめた。

「なに、腹痛いんだっけ?変なモン食った?」
「…………」
「今から給食だけどどうする?兄ちゃんかばあちゃん迎えに呼ぶ?」
「…………」
「じいちゃんか、ウチのオバサンでもいいと思うけど」
「…………」
「なまえの腹次第」
「…………今日の献立、なんだろ」

ぽんぽんと投げ掛けられた質問に、ようやく搾り出した声は少し掠れていた。

「献立で決めんのお前。何だったっけな……パンじゃなくて米だったのは覚えてんだけどな……、あー献立表、筆箱ン中だわ」
「ええ、なんで筆箱の中……」
「は?いつでも見れるように入れとくもんだろ普通」

さも当然というふうに言われてしまった。わたしの知らない常識がそんなところにあったんだなと頭の隅っこの方で妙に感心しつつ、残りの思考力はどこかへふっ飛んでしまう。
どうしてか目頭がばかに熱く、零れ落ちないよう目に力を入れることに必死でほとんど頭は働いていなかった。

「みょうじさん、具合はどう?教室戻れそう?無理なら保護者の方に連絡入れるけど、どうする?」
「……あ、……教室、戻ります」
「そう、無理はしないでね。二口くん、あとお願いしていい?それと、次からは一声掛けてからカーテンを開けなさいね」

一度職員室に行かなければいけないという先生に、へーいと間延びした返事をした堅治と二人、保健室に残される。

「マジで戻んの?飯食えんの?」
「うん、くえる」
「腹、平気なのかよ。俺思うんだけど、お前が昨日自分でつくった飯が生焼けとかで腹壊してんじゃね?」
「…………」
「図星?」
「…………」
「あ、でもそしたらみょうじの家皆ヤバいじゃん」

失礼な話だ。
あんまりにも堅治が訊いてくるものだから、自分は本当にお腹が痛いんじゃないかという気になってきた。
掛布団を頭まで被れば、嗅ぎ慣れない洗濯洗剤の匂いが微かに香る。
悲しいわけじゃない、全然、泣きたいわけでもない、でもどんどん喉が苦しくなって目頭が熱くなっていく。唐突に自分で自分の感情がコントロール出来なくなってしまったようで、動揺と恐怖を覚えた。

「は……、いや、ウソだって。ごめん、冗談」
「…………っ」
「あー……」

焦ったような、困惑したような声が聞こえてきて、わたしも焦ってしまった。
違う、別に言われた事が悲しかったわけじゃなくて。少なからず腹は立ったけれど、これはわたしお得意の、対堅治専用嘘泣きなのだ。泣いたふりをしているだけ。そう、多分、そうであってほしい。
それなのにいつもみたいに、すぐに可笑しくなってしまって種明かしする、なんて気は起きてこない。どうすればこのよくわからない感情の波は収まるんだろうとギュッと強くシーツを手に握り込んだ。
どうしよう、どうしよう、どうしたら。はやく布団から顔を出さないと。そう思うのに。

「なまえ」

静かに名前を呼ばれて、ひとつ、ふたつ、溢れた。

「給食、こっち持ってくるから。待ってろ」

ボスンと雑に布団の上から頭を叩かれて、そのまま気配が遠くなる。
扉が閉まる音が耳に届いてそれから三秒後、堰を切ったように涙が次から次へと溢れてきた。



「いや、びしょびしょか?」

戻ってきた堅治は、行儀悪く足で扉を開けたかと思うとわたしの顔を見るなりそう言った。
保健室備え付けの水道で思い切り顔を洗い、顎から、髪の毛先からポタポタと垂れる水をどうしようかとぼんやり考えていた矢先のことで、緩慢な動きでそちらを向けばタオルを顔に押し付けられた。

「タオル……」
「あ?まだ使ってねーよ」

文句を言ったわけでもないのに、眉を顰め低い声で言った堅治に少し笑えて、けれどわざわざタオルを持ってきてくれた理由を考えると顔が強張った。恐らく酷い状態であろうそれを隠すためにタオルに埋まるようにすれば、自分の家とは違うけれど優しい香りがほのかにして、また喉がぐっとなる。
少しの間そうしてからそろりと顔を上げれば、バチリと堅治と目が合った。

「飯。食えるなら食えば」
「……うん、ありが……、?」

何を言われるのだろうと一瞬身構えてしまったけれど、机の上を見てみればそこには二枚のトレー、つまり二人分の給食が置いてあって思わず堅治の顔を凝視してしまう。
どうして、一緒にここで食べるの。
疑問には思えどそう訊ねるのはどうも野暮な気がして、代わりに「よく二つ分も運んでこられたね」と口にすれば、感謝しろよと偉そうな態度が返ってきた。

その日の献立は彼の言った通りパンではなくご飯食で、食べはじめる頃には既に冷めていたし、保健室で食べるご飯というのはあまり美味しいものではなかったけれど。
それでも、何も訊いてこず、二人分の給食をわざわざ持ってきて自分もそこで一緒に食べることを選んでくれた堅治のことを考えると、とても貴重で妙々たるものを口にしたのではないかと思うのだ。



ふと、中学生の時のことを思い出した。
中学二年の春、忌引き明け後の登校初日。トイレの個室で偶然耳にしてしまった、どのクラスの誰かもわからない女子たちの会話。
彼女たちに悪気があったわけではないだろうし、そもそも特別気分を害すようなことを言われたわけじゃない。けれど当時のわたしにはがつんと大きな衝撃を与えられたように思えて、今でもたまに頭を過ぎる。
あの頃は多分、精神的にも体力的にも不安定だった。自覚はなかったけれど、自分が思っている以上に心が傷ついていたんだろうと今になって思う。

「……どれにしようかな」

通い慣れたスーパーの、その一角にある花屋さんの前でぽつりと零れ落ちた独り言は、誰の耳に拾われることもない。
今日は母の月命日だ。好きな花をいくつか選んで、店員さんに包んでもらう日。

切り花がひと月持つことなんて早々なくて、どんなに日持ちするよう手入れをしたって数日で枯れてしまう。だからといって枯れた花をいつまでも飾っているのは物寂しいし、仏壇に何も飾らないというのはそれこそ寂しい。
決して生花である必要はなくて、造花やプリザーブドフラワーを飾っても何ら問題は無い。無いけれど、好きな花を添えたいという自己満足のためこまめに飾る花を変えていた。
花というものは決して安くはないから、普段はスーパーの売り場に陳列されている百円ちょっとの仏花を。月に一度だけ、月命日に合わせて花屋さんで好きな花を買う。

月一の恒例。それに彼を付き合わせるようになったのは、いつからだったか。
一人で決めた花の束を受け取り、しばらく顔を合わせていないご近所さんのことを考えようとして、やめた。

「今日のご飯、何にしようかなあ」

気付けば十二月で、一層風が冷たくなり寒さが身に沁みる。
そんな中で不意に思い出した中学生の時のこと。

母のことが大好きでしょうがなかった、というわけではない。言い争いなんて日常茶飯事だったし、お互いに腹を立ててしばらく口をきかないことや、叱られて家を飛び出し二口家にお世話になったことだって何度もある。
それでも、寂しくないわけが、悔しくないわけが、悲しくないわけがなかった。
あの日、堅治の顔を見た瞬間に、気が緩んだ。どうしようもなく安心して、心がぐちゃぐちゃになった。普段口も悪ければ平気で嫌味も言ってくる。それでも、あの日あの場所に来てくれたのが彼でよかったと、心の底から思った。そして結局、考えてしまう。

「こんなに顔見ないの、はじめてだ」

先程から独り言ばかりが口をつく。

にどと戻らぬものらへの賛歌


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