人の感情などおかまいなしに、朝というものはやってくる。
気怠い身体を引きずるようにして階段を下り居間に顔を出せば、そこはしんとしていた。
とりあえず、洗濯。洗濯機回して、ゆとりのご飯を準備して……あれ、いま何時だ。

「……頭がんがんする……」
「二日酔いか?」
「……未成年」

誰もいないものだと思って零した呟きは、次兄によって拾われる。
一度言葉にしてしまうと、それを自覚してしまったようでひどく頭が痛みだした。なんだか目を開けているのも億劫だし、足元もどこか覚束ない。身支度のために洗面所まで行くことすらどうにも怠くて、一先ずゆとりのご飯を用意しようと台所へ行き、冷蔵庫の中段の引き出しに手を掛けたところで上手く力が入らなかった。

「なまえ」

次兄にそこ座れと居間の椅子を指され、なぜ、と考えることが最早面倒で大人しく従う。腰を下ろせば体温計を渡され、また黙ってそれをわきに挟んだ。
わたしがそうしている間に兄は冷蔵庫をいとも簡単に開け、そこから緑の野菜、なんだっけ、ああ小松菜を取り出し適当にカットしていく。ゆとりの餌皿にそれが置かれるのをじっと目で追っていると、ピピッと高い電子音が鳴りのろのろとした動作で確認しようとすれば、自分でその数字を見るよりも先に兄の手が伸びてきた。

「やっぱ熱あんな」
「熱……?」
「知恵熱じゃね?そんな高くはないけど、今日は学校休んで寝とけ。電話はしといてやる」
「電話……」
「ああいうのってクラス言うんだっけか、お前何組?」

ぼんやりとしてきた思考の中で「E」と短く答えて、兄の言った知恵熱という言葉に「赤ちゃんがなるやつじゃん」と思いつつ、「そうかもな」と重い頭でなんとなく考える。いや、昨夜シャワーを長いこと浴び、そのくせろくに髪を乾かしもせず布団に潜り込んだせいでこんなことになっているんだろうとは思うけれど。

「自分の部屋……は、階段が危ねえな。母さんのとこに布団敷いてやるからそこで寝とけ。今日は俺、学校行ってバイト行くから帰ってくんの日付変わってからだろうし、ばあちゃんたちも家出てるみたいだけど、まあ大人しくしてたらそのうち治んだろ」
「……洗濯物」
「もうばあちゃんがやった。いいから寝ろ」

壁に掛けてある時計を横目で見れば、針は普段ならもうとっくに学校に着いている時間を指していて、完全に寝坊じゃんとひとりでおかしくなった。ごめん、ばあちゃんと祖母には内心で謝っておく。
熱があると自覚した途端、どっと怠さが襲ってきた。頭の冷静な部分で現金なものだなと思いながらも、早く横になりたくて仕方なくなる。
普段は愉快な暴君然として人を振り回すくせに、こういう時ばかり兄の顔を見せる次兄に笑いたい気持ちと、ひどく安堵する気持ちとを覚えながらひとつ頷いた。

母の仏壇がある和室に布団を敷いた兄は、「じゃあな、お達者で」と残して家を出た。この場合は「お大事に」では、なんて思いながらひんやりとした布団に身体を横たえ目を瞑る。
しんとした空間に音は無く、まるで世界にひとりきりになってしまえたように思えて、どうしようもない心細さに身を沈めた。

次兄は、何も言わなかった。
昨日、わたしと堅治の間に何かがあったことは明らかなのに、興味が無いのか首を突っ込むのが面倒なのかそれとも口を挟むことを野暮だと捉えているのかはわからないが、何も言わない。
早く眠りに落ちてしまいたいのに、あちらこちらに散らかったまとまらない考えが頭の中をぐるぐる巡っては邪魔をする。

なんであんなことになったんだろう 別に黙ってようと思ってたわけじゃない 今日の時間割何だったっけ 頭が痛い 父さんが元気になってよかった 何に一番腹を立てたんだろうか

──お前にとって俺はなんなんだよ

揺れる瞳から逃れるために、頭から布団を被ってぎゅっと目を今一度強く閉じる。
そんなの。



いつの間にか眠っていたようで、カチャカチャと食器を扱う音が聞こえた気がして目を開けた。台所の方からだろうか、意識すれば水音やコンロをいじる音も聞こえてくる。
いくらか熱が下がったのか、頭痛は大分ましになったように思う。
ゆっくりと目だけで辺りを見回せば、四角いフレームの中で笑う母と目が合った。

「……母さん」

呼んだところで、返事は無い。そんなわかりきっていることが、今はどうしてか重たい雨雲のように心の中で広がった。身体が元気でないと、精神的にも綻びが生じる。感傷にどっぷりと浸かってしまっている今の自分を、どうにかしようと思ったところで多分自力では難しい。

ゆっくりと息を吐き出して、同時に、白い空間を思い出す。
母もあの白い個室でひとり、自身を蝕む病に抗いながら、底知れぬ寂しさを抱えていたのだろうか。広い広い海に放り出されてしまったような焦燥や、どうしようもない遣る瀬無さを。胸を掻き毟りたい程の悔しさややり遣り場の無い腹立たしさと共生しながら、自分の命の限りがひたりひたりと迫っていることに怯え、気が遠くなるような恐怖と必死で闘っていたんだろうか。
想像ならば、出来るけれど。いくら想像を働かせたって、本当のところは今ではもう雲を掴むような話だ。

「なまえー……おっ、起きた?」

襖が静かに開き、そこから長兄が顔を覗かせた。
先程から人の気配は感じていたけれど、なぜ長兄がここに居るのか。「兄ちゃん……?」まだ夢の中なのだろうかと、半信半疑で口にすれば「飯は?食べれる?」と返事があった。

「……なんで、」
「え?お前まだ何も食べてないだろ」
「……学校とか、バイトとかは」
「あ、そっち。休み休み」
「なんで、いるの」
「お前のもう一人の兄ちゃんが言ってきたから?」

そんなの知らない。
やはり身体が元気でないと心まで弱るらしく、今日はどうにも感傷的ですぐに泣きたい衝動が込み上げてくる。もそもそと布団を頭まで被ったわたしに、兄はひとつ笑って「用意してるから、食べれるようになったらおいで」と残してそっと襖を閉めた。
じわりと熱を持った目頭と胸の内を誤魔化すために、わたしはまた深く深く息を吐き出した。

長兄が家を出て一人暮らしを始めたのは、今年の春先のことだ。
大学四年生の兄は早々に就職先を決め、実家を出た。就職先は県内ではあるものの、ここからは車で数時間と通勤には些か辛い距離にあって、どうせ一人暮らしをすることになるのだから今のうちから慣れておけばいいのではと提案したのは父だった。兄本人にその気は無かったらしいけれど、「お前は一番上だからって何でも頑張らなくてもいい」という父の言葉に、最終的には家を出ることに決めた。
祖父が、「あの子はガス抜きが下手なところがあるからなあ」と言っていた。長兄が家を出て少し経った時、祖母が「上が家にいなくなって、今度は下が気負うようになったねえ」と次兄を見ながら言っていた。
父の提案の理由も、祖父の言葉の意味も、祖母の目に映る心配も。わたしには、よくわからなかった。



「なまえー、生きてるかー」

パッと目が開いた。また気付かぬうちに眠っていたようで、真っ暗な室内に今がいつなのかわからず軽く混乱する。

「……ん?」
「生きてんな」

開いた襖から差す明かりに瞬きをして、そこに居るはずのない次兄の姿があってますます当惑極まった。確か、帰ってくるのは日付が変わってからと言っていたはずだ、既に「明日」になってしまったのだろうか。

「飯は?結局昼食ってないんだろ。どうする、つか熱は?下がった?」
「……おなかへった」
「じゃあ食え」
「うん」

空腹を感じるままに口にすれば、次兄は頷いて居間の方を指差す。のそりと布団から出れば身体は今朝よりも随分と軽く、頭痛も嘘みたいにすっきりしていた。
兄の後ろをついて居間に顔を出すと、長兄がソファに腰掛けてテレビを見ていた。いよいよ今が何日の何時かわからなくなり、時計に目を向けてそれから壁に吊るしてある、祖父が毎朝必ず破く日めくりのカレンダーを見る。朝と同じ日付だ。昼に一度目を覚まして以降、随分と眠っていたらしい。

「おっ、なまえ。起きたか、具合は?飯食える?」
「腹減ったらしいよこいつ」
「じゃあ準備するわ。熱計っときな」

渡された体温計を受け取って、ソファに深く沈む。至れり尽くせりだなとそんなことを静かに考えながら、テレビのリモコンを操作する次兄に声を掛けた。「兄ちゃん」

「昨日、堅治泣いてた?」

疑問形なのか断定形なのか、自分でもよくわからない曖昧な響きの言葉だった。
こちらを振り向いた次兄の答えを、聞きたいのか聞きたく無いのかもまたわからなくて、天井の明かりに目を向ける。

「あれこれ大量に買わされて、見事散財したわ」

何の話だ。
「あいつ最初遠慮してたくせに、容赦なさすぎて笑う」だから、何の話。
ふう、と息を吐き出して同時に鳴った体温計を見れば平熱に戻っていて、一先ず安堵する。

「熱は?」
「ない」
「まあ一日爆睡してればな」
「……兄ちゃん、今日バイトは?」
「シフト変更で早上がり。あっ、つかお前!D組じゃねえじゃん」
「なに?」
「クラス。今朝学校に二年D組のみょうじですけどっつったら、もしかしてEじゃないですかって言われたわふざけんな」
「え、ちゃんとEって言った」
「Dって言ったろうが」
「言ってない。そっちの耳が悪い、痛い!兄ちゃーん!!この人耳引っ張ってくる!!」
「お前病人に何してんだよ」
「いった!兄貴だって人の事蹴ってんじゃん!」
「ハイハイ、なまえのこと心配で勝手にバイト早く上がったんならもっと労わってやれよ。飯出来たから食べな、なまえ」

それも知らない話だなあ。
物凄く複雑そうな顔をして長兄に一発蹴りを入れた次兄は、当然のようにやり返されていた。

今日だけの事ではなくて、きっとわたしはいろんなやさしさに触れながら生きている。それにもかかわらず、結局は自分のことばかりで情けない。そう思えど、やはり揺れる瞳と向き合うことは出来なくて、熱いスープと一緒に喉の奥に流し込んだ。

頭の中すら好き勝手できない


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