半ば押し込められるようにして座らされた助手席で、静かに息を吐き出した。
運転席側の扉が開くと同時に車内に冷たい風が流れ込んできて、その温度にこれは現実なのだとぼんやり思う。

「シートベルトしたか?おし、お前夕飯は?家にあんの?」
「……多分」
「マジか、じゃあ外で何か食うのは無しだな。どこ行くかなー」
「…………」
「どっか寄りたいとこある?」

いつもと変わりない調子で口を開く運転席の男に、二口は一度ゆっくりと瞬きを返し、そっと零す。

「……なんも訊かねえの」
「は?なにを」

なにを、ときたものだ。
尋ねたのは自分だが、改めて事を口にする気には到底ならず「さっきの」とだけ告げて窓の外に目を向ける。もしかしていま若干の気まずさを抱いているのは己だけなのかもしれないと思い、いっそ頭を掻き毟りたくなった。
「あー、なまえとケンカしたんだろ。なに、堅治あいつにいじめられた?」返ってくる声はなんとも軽いもので、なんだか脱力してしまう。

「……逆じゃね?」
「あ、そ?まあデカい声出すのはやめろ、近所のばあちゃんがびっくりして飛び出してくんぞ」
「ごめん」

その通り以外の何物でもないのでそこは素直に反省の弁を口にして、それから一拍置くと口からは勝手に「あー」という唸り声ともつかない低い音が零れ落ちた。
隣から「どうした」と半分笑うような調子で訊かれて、二口は堪らず自分の顔を両手で覆う。肺の空気を空っぽにする勢いで深く長い溜め息を吐き、一瞬口にするかどうかを躊躇ったものの、意に反してくぐもった声が自身の喉からまろび出る。

「あそこで兄ちゃんが来てくれなかったら、マジであいつに何言ってたかわかんねえわ……」

わかっている。別に、なまえが悪いわけではない。何か間違ったことを言ったわけでもない。
大っぴらに口にするような話ではないし、もう解決した事だ、彼女が自分に話す必要も無いと言えばまあ無かった。
血の繋がりがある関係でもないし、「家族」と呼べる間柄でだってないのだ。むしろ、彼女が自分の事を身内だなんだと称する度に鼻白むような、また踏みにじられるようなどうにも言い難い感情を覚えていたくらいだ。それをあからさまに表に出したことはないので、彼女は知る由もないだろうが。
なまえの言い分が全く理解できないわけではない。家族じゃない、だから言わない。まあ、わかる。

「ウチの末っ子はそんなお前を怒らせるようなこと言ったのかよ。やべーな」

兄ちゃんと、幼い頃から呼び親しんできたこの人だって「兄」ではないし、この人はこの人で自分の事を「弟」のように扱うけれどそれらは全く事実でなはい。そんなことはわかっている。
そもそも、「家族じゃない」と、そう言われたがために感情が抑えきれなかったわけでは決してなくて。

「……知らね」

再び窓の外を流れる景色に目を遣って、ぼそりと呟くように吐き出す。
四年前の冬の初め頃、二口は偶然外で顔を合わせたみょうじ家の長男に、みょうじの母親のことを聞いた。入院中で、もうあまり長くはないらしいとそんな、冗談にしては全く笑えない話を。
俄かには信じ難く、半信半疑どころか微塵も話を飲み込めず帰宅した。どうにもすわりが悪くて、自身の母親に「みょうじのおばさんのことだけど」と、それだけを口にしてみた。その直後、夕飯の支度をしていた母親は手にしていた鍋を床に落とし、けたたましい音がまるで脳に直接刺さるように響き渡った。次いで、張り詰めるような静寂が訪れる。少しの沈黙を破ったのは、細く揺れる声だった。
──誰から聞いたの
それだけで明白。彼の母親は、既に事実として知っていた。

今日、なんてことのない調子で父親の大事を口にした彼女に、さっと血の気が引いた。まず初めに当人である父の安否を心配して、同時にその家族の気持ちを慮った。それから、ああまただと、そう思った。
それでも、あんなふうに責める気なんて少しもなかった。そういうなまえの頑なな部分と、彼女には彼女なりの考えがあることを、今までの付き合いの中で承知していたつもりだったから。
けれど、「迷惑」だとか「困らせる」だとか。いつ誰がそんなことを言った。いつ誰がそんな態度をとった。「家族」という言葉をまるで盾に取るような、こちらの歯痒さやもどかしさをまるきりわかっていないような言い種に、それを理由とするなまえに、神経が張り裂けそうな程の痛みを覚えた。その痛みが少しずつ、じりじりと胸の奥を焼くように這って終いには血液が沸騰するかと思う程どろりとした熱い怒りにも似た感情に変わり、声を荒げてしまった。

「ま、いんじゃね?生きてりゃケンカぐらいすんだろ」
「……おー」
「あ、つか堅治もうすぐ誕生日だろ?何欲しい?」

運転席の彼にとって、妹と「弟」の言い争いは大して気に留めることではなしらしい。否、出会したのは偶然といえわざわざ仲裁に入り、二人を強制的に引き離しその上「送る」と言ったくせに片方をこうしてあてのないドライブに連れ回していることを考えれば、彼はまた彼なりに思うところがあったのだろうけれど。
がらりと変わった話題に二口は一度面食らって、それから息を吐くように小さく笑った。

「いいよ、別に」
「はー?いいわけねえから。もうこのまま買いに行くわ」

どこへ行くのか手早くナビを打ち込み、音声案内を始めたそれに従って車は右折する。
優しいと言うべきか、傍若無人と呼ぶべきか。有無を言わさず行き先を決められ、それに連行されることになった助手席の彼は大人しくその行為に甘え、何かいま欲しいものがあっただろうかと思案することにした。
そして、不意に思い出す。

「……乾燥機」
「? なに?」
「あ、いや、なんでもない」

いつだか、洗濯乾燥機が欲しいと言っていたのは隣の男の妹だった。
話の前後は忘れたが、確か話の流れで欲しいものを訊いた時、真剣な顔で「乾燥機」だなんて言うものだから二口は呆れた覚えがある。
「冬に洗濯物干すの、冷たくて辛いから。ウチいま洗濯機タテ型なんだけど、ドラム式に替えようかって言っててね?あれ乾燥機能ついてるし。でもウチは人数多いから洗濯物の量も多いし、ドラムじゃ追いつかないかもしれなくて……じゃあ乾燥機別付けで買った方がよくない?ってばあちゃんと話してるとこ」
とうとうと人を置いてけぼりにして話を続ける彼女に、「へー」とだけ返したような記憶が呼び起こされる。
まあ自分にそれを買えと言っているわけでは無く、単純に直近で欲しいものを口にしただけだろう。なまえが欲しいもの、を訊いた二口とみょうじ家が必要としているもの、を答えた彼女の間に多少の齟齬があっただけで。
「あ、あとマッシャー」「なんて?」「マッシャー。ジャガイモ潰すやつ」白けた視線を気にすることなくそう言ってのけた昔馴染みの彼女に、二口はまた「へー」とだけ返したのだった。

「やべ、俺いま金持ってたっけ」
「だからいいって」
「よくねーっつってんだろ。お前なんでそんな頑固なの?」
「え、なんでこれ俺が怒られてんの?」

家の洗濯機事情は知っているのに、その家族のことは知らないんだなと思うとなんだかひどく笑えて、同時にどうしようもなく虚しくなった。

熱い鍋底とかなしいこと


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