低いエンジン音が耳に届いてなんとなく振り返れば、すぐ近くでバイクが停まった。

「お!なまえちゃん、こんにちはー」
「え?あ、お兄さん。こんにちは」

ヘルメットを脱いでにかりと笑みを浮かべたその人は、兄たちがお世話になっているバイク屋のお兄さんだった。挨拶を返せば「久しぶり」とまた人好きのする笑顔で言って、かと思えばはっとしたように眉をひそめ思案顔になる。
どうしたんだろうか、そう思っているうちに「この間大変だったみたいだけど、大丈夫?お父さん」と言われて思わず、お父さん、と口の中で繰り返した。

「あ……、え?もしかしてお兄さん、知ってるんですか?」
「うん、お祖母さんから電話があった時、ちょうどみょうじくんウチの店にいてさ。急に顔真っ青にしてバイク飛び乗ろうとするから、ちょっと落ち着きなって一回止めたんだけど」

それは、知らなかった。
「話聞いて、車で送っていこうかって言ったんだけど大丈夫って言うから、マジで安全運転で気を付けてねって店長と心配してて」そう続けたお兄さんに、あの日──父が救急搬送されたと連絡があった日、次兄は次兄でやはりひどく動揺していたのだと改めて知る。
一応そのあとで次兄は店に顔を出し、事の大凡を話したらしいけれど、今日偶然会ったわたしの顔を見てまた気に掛けてくれたらしい。それに応えようと口を開く前に、今まで沈黙していた隣の彼から軽く小突かれる。
見上げれば、声は出さずに「誰」と口だけ動かして訊いてくるその人に、わたしよりも先にお兄さんが謝罪を口にした。

「あ、彼氏さんかな、急に割って入ってごめんね」
「いや違います違います、えっと、あ、これケンジです」
「ケンジくん……、ああ!弟の!そっか、君が。身長高いねー、みょうじくんたちより大きいんじゃない?」
「ですね」

それじゃあお大事にと、またエンジン音を立てて走り去って行ったお兄さんに軽く手を振り見送る。

「マジで誰。なんの話だよ」

おじさん?いや兄ちゃん?なんかあったわけ
訝しむように眉根を寄せてこちらを見下ろす彼には、何も伝えていなかったなと思い出した。



あの日、真っ白な空間で倒れそうになりながらも必死に耐えている中で、何かに縋りたくてたまらない中で。
蓋を開けてみれば、父は救急搬送されたわけではなかった。

「え?」
「なんて?」
「ごめんなあ、ばあさんの早とちりだ」

そう頭を掻きながら呆れつつも申し訳なさそうに言った祖父に、次兄と二人顔を見合わせて脱力した。

急性虫垂炎、いわゆる盲腸。
仕事中に吐き気を催し、それからどうしようもない腹痛を覚えた父は、心配した同僚に病院へと連れて行ってもらったらしい。つまり救急車で運ばれたわけではなく、自らの足で病院へと向かったのだ。
病院からの電話を受けた祖母がそれを勘違いし、動揺しながらも長兄と次兄には直接、わたしには学校へと連絡を入れてくれたわけなのだけれど。

「じゃあ、別に事故ったとか、急にぶっ倒れたとかってわけじゃねえんだな?」
「そう。入院して様子見はするけど、今普通に面会出来るぞ」

覚悟が出来ていたわけではない。けれど、「最悪」が常に頭の中を過ぎっては心に鉛を溜めていた。

「マジか……」

ぽつりと零れた兄の呟きにはひどく様々な感情が入り混じっているように聞こえて、わたしはゆっくりと深く息を吐き出した。ずっと強張っていた肩の力が、血の気が、吐き気が。騒がしかった心臓が、やっと正常に戻っていくような気がする。
父からすれば「よかった」と言える状態では決して無いけれど、それでも。

その後、少し遅れて駆けつけた長兄も話を聞いて同じく脱力し、深く深く息を吐き出した。ここに来るまでの間、ずっと呼吸もままならなかったのだろうと思う。
父の病室に三人で顔を出せば、ベッドの上で横になるその姿が一瞬だけ母と重なって息が詰まった。「心配かけた」と笑うその姿が。
数日前から痛みがあったけれど単なる胃腸炎だと思っていたという父に向けて、長兄は語気鋭く言った。「頼むから、もっと自分の身体を大事にしてくれ」と泣きそうに震えた声を受けて、父はごめんと深く頷き、それから「三人ともひどい顔だな」と笑った。
その日、恐怖と安堵と各々が様々な感情を抱え、いつの日かのように兄弟三人でちょっとだけ泣いた。



「結局手術したんだけど、もう退院して仕事行ってるよ」
「……それ、いつの話だよ」
「いつ……、手術したのが一週……、いや二週間前?」

放置すれば死に至る可能性だって十二分にある。笑い事ではないけれど、今では家族の間で笑い話のひとつとなった。
そういえば、その事でばたばたしていたから先月末にあったという堅治の試合は観に行けていない。

「別に誰もばあちゃんのこと責めてないのに、しばらくの間落ち込んでて……」

もう、過ぎた事。そういう、軽い気持ちで話したのに。先程よりも眉間に深く皺を寄せて、剣呑な雰囲気を纏った堅治に言おうとした言葉が途切れた。
すっと目を細めて、口を開くその様が、何故だかやたらとゆっくりした動きに見えた。

「なんでその時言わねえの」

ひどく硬い声だった。
え、と声にならない声が零れ落ちる。

「なんでって」
「今は笑えてても、その時は大変だったんだろ」
「そう、だね?」
「お前はいつもそうやって、肝心なこと言わないよな。おばさんの時だってそう」
「母さんの……、だって、」 
「だってなんだよ」

どうしてそんなに険しい表情をしているのか、わからなかった。
見下ろしてくる視線が、まるでトゲのように自身に刺さっているのではないかと錯覚を起こす。
だって。

「そんなこと言われたって、迷惑だし、困るじゃん……」
「はあ?」

今度は、低い低い声だった。「じゃあ」と続いた言葉に、どうしてだか身を引きそうになる。

「逆の立場だったらどう思うわけ」
「え、」
「ウチの家族に何かあって、俺が引くほど痩せて、疲れたような顔してんのにそれでも何も言わないで笑ってんの見て。それであとから大変だったって話聞いて、なまえはどう思うんだよ」

そこでようやく、はっとする。
二口家とはかれこれもう十年以上の付き合いがあって、その家族の誰かに、堅治に「何か」があれば当然心配になるし何か出来ることは無いかと力になれる方法を考えるだろう。でもその「何か」を知ることが出来なくて、無理に訊くことも憚られたのなら。ああ、そうか。
今日の今日までその考えに至らなかった自分が恥ずかしく、申し訳なくなり少しだけ当時の、そして今の堅治の気持ちを理解出来たような気がした。
けれど、それでも。

「……だって、堅治は家族じゃ無い」

母の時だって、今回だって。漠然と「助けてほしい」と思った。堅治に話せば、どうにかしてくれるのではないかという思いもあった。けれどやはり、困らせるのではないかと思う気持ちが大きかった。言えるわけがない。
この鉛のように重くて黒くて暗いものを、家族ではないその人に背負わせたくはなかった。
「っんだよそれ」けれど、揺れる堅治の瞳を見て、言葉を間違えたかもしれないと思う。

「そういう話してんじゃねえだろ!口では人のこと身内みたいとか弟とか適当なこと言う癖に、いざとなったら家族じゃないってどういうことだよ」
「だってほんとのこと、」
「じゃあ!お前にとって俺はなんなんだよ!」

勢いに気圧され今度こそ身を引きそうになって、けれど同時にカッと頭に血が上るのがわかった。
そんなふうに言うけれど、いざ言われたらどう思うの?どんな反応をするの?
母がもう長くはないと余命宣告をされた。日に日に痩せて、身体が小さくなっていく。
父が救急車で搬送された。何がどうなっているのかわからない。またあの白い場所に足を踏み入れなくてはならない。
心臓が潰れそうな程辛くて、悲しくて、怖い。そう言われて、どう思うの?

「……なにそれ」
「は?」
「っ堅治には!絶対わかんない!!わたしがどんな気持ちで黙ってたかなんて、絶対!わかんない!!」
「ああ、わかんねーよ!なまえが言わないのにわかるわけねえわ!!」
「わたしが何で言わなかったかもわかんないくせに!勝手なことばっか言わないで!!」
「そうやって人の気持ち勝手に決めつけてんのはそっちだろ!!」

「おーまえら、うるせえんだけど。近所迷惑って知ってる?」

唐突にパッと、自分たちの間に割って入るように光が差した。一瞬目が眩んで、それがバイクのヘッドライトであると気付くことに数秒要す。

「ケンカしてもいいけど、場所考えろ」

バイクから降りて、心底呆れたように言ってきたのは次兄だった。
いつの間にか話しているうちに自宅の前まで来ていたようで、日も暮れた中、いくつか近所に住宅の立ち並ぶそこで声を張り上げるのは確かに迷惑な話だなと兄の言い分は最もであることに気付く。
そんなことにも気付けない程に、いっぱいいっぱいになっていた。

「二人とももう家帰れ。堅治は送ってってやるから車乗れ」

堅治が手にしていた買い物袋を奪い、わたしに押し付けたかと思うとリモコン式の鍵で車のロックを外した兄は、有無を言わさずわたしたちの背中をそれぞれ別の方向へ押す。
二口家は車で移動するには近すぎる距離にあるし、一度爆発した感情の収め所がわからず心の整理がついていないけれど、どうしてだか兄に反論する気は起きなかった。


「……ただいま」

言われるがままに家に入れば、途端にさっきまでの激情がしゅるしゅると萎んでいく。
出迎えてくれた祖母に買い物袋を預け、余程ひどい顔をしていたのか心配されたけれどそれを振り切り重い足取りで風呂場へと向かった。

シャワーのコックを捻る。ザーザーと音を立てて流れだす水をぼんやり眺めて、お湯に変わったそれを頭から被る。

「ふっ……う、」

頭の上からどんどん水が流れてくるなら、目から零れ落ちる水なんて些細なもので、一緒に流してしまえば無いも同然だ。いちいち拭う必要はないし、どんなに声をあげたところで大きな水音がかき消してくれる。
ただ何故、いま目から零れ落ちるものがあるのかは自分のことなのに全くわからなくて、ぼやける視界の隅に映る、排水口へと向かう水の流れをただただひとり見送った。 閑話

愛に似て非なるもの


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