虫の知らせって、そんなものは無い。


文化祭を終え、迫る定期考査や模試に気を重くしながらもいつも通りに起きて、洗濯機を回しつつ適当に朝食を用意して食べ、以前より一本早くした電車に乗り、眠気と闘いながら四限まで授業を受けて。
さあお昼だ。飲み物を買うべく食堂近くの自販機まで行こうと、教室を一歩出たところで不意に少し間の抜けた鐘の音が鳴り響いた。校内放送だ。

「──二年E組 みょうじさん、至急職員室まで来てください。繰り返します、二年E組──」

「え、これなまえじゃん」
「みょうじちゃん呼ばれてやんの!」
「何したよー」
「誰の声だこれ。エツコさん?」
「違うだろ、エツコの声はもっと凄味があるじゃん」
「マニアか?」

突然聞こえた自分の名前に目を丸くしていると、教室の中から、廊下から。そんなのわたしが訊きたいですよと、笑いながら返して、本当に心当たりがないなと内心で首を捻りつつも食堂方面ではなく職員室へと足を向けた。
提出した課題に不備でもあったかな、呼ぶならお昼食べてからにしてほしかった、なんてこの時のわたしは本当に能天気で、たらたらと気怠い足取りで歩いていた。


「失礼しまーす……」

ノックと挨拶とお辞儀と。最低限の礼儀とはいえ、堅苦しい雰囲気の職員室っていつになっても好きになれないと思いながらそこへ入室すれば、すぐにわたしを見つけたクラスの担任がこちらへ駆け寄ってくる。
誰だ、エツコさんの声って言ったの。違うじゃんと笑いそうになって、けれどその表情がどこか切羽詰まっているように見えたためわたしは笑いを引っ込め、自然と眉を顰めそうになった。

「先生、わたし何か」
「みょうじ、こっち」

何かしましたか、そう尋ねるよりも先に彼女はわたしを手招いて、職員室の中でも人気の少ない応接のソファまで導いた。素直にそれに従い、本当に何事だといよいよ訝しんでいると担任は声を潜めるように、しかしはっきりと言った。

「みょうじ、すぐに荷物をまとめて早退しなさい」
「え?」
「今、あなたのお祖母様から連絡があって、貴女のお父様が、救急車で病院に運ばれたとのことです」
「──は」

彼女が何を言っているのか、よくわからなかった。
わからなかったけれど、頭の何処かで理解らしきものはしたらしく一気に手足の力が抜け、全身からサッと血の気が引く。そして背中からはぞわりとした何かが這い上がってくる。口の中は一瞬でからからに渇いて、無意識に手が震えた。

「せ、んせ……」
「ゆっくり、深く呼吸をしなさい。……ごめんね、お祖母様も気が動転しているみたいで詳しい話はわからないんだけど、今からお兄さんがここに迎えに来られるから、荷物だけ持って病院に一緒に向かって」
「…………」
「みょうじ、しっかりしなさい。突然こんな話をされて、酷な事を言っているとは思うけど、今ここで動揺しているだけでは何もわからないのよ」

わたしの目を真っ直ぐに見続ける担任に、うまく定まらない視線で応えれば、これが白昼夢でもなんでもなく現実であることがわかってしまったのに、それでも足元はふわふわと浮いているような気分だった。
からからの喉が張り付いて、上手く声が出せない。せり上がってくるものがあって、吐きそうだ。頭が上手く回らない、気持ち悪い、頭痛がする。
心臓が、どうにかなりそうなくらい早く脈を打っていた。

──なあみょうじ。お前んとこの母親、そろそろヤバいんだって?

「……せんせい」
「うん」
「っお願い、クラスのみんなには言わないで」

そんな中で咄嗟に出てきた言葉がそれだなんて、わたしはどうやら中学生の時のあのクラスメイトの男子の一言がどうにも忘れられないらしいと、この時初めて知ったのだった。



「あ、なまえ戻ってきた」
「マジだ、おかえり〜」
「どうだった?説教でもくらった……って、帰んの?」
「えっ、なまえちゃん早退?」
「どした?体調悪い?」

確かにひとつ頷いて、「みょうじを尊重する」と言ってくれた先生に頭を下げて職員室を後にした。
弾かれたように教室へ戻れば、先程職員室にわたしを送り出した面々が揶揄い混じりに声を掛けてくれたけれど、わたしはそれに軽く肩で息をしながら曖昧な笑みを浮かべつつ、自分の机に引っ掛けていたリュックを掴む。
お昼を食べる手を止め、わたしに目を向けるクラスメイトのその表情からはこちらを心配してくれているのだとすぐにわかったけれど、上手い言葉が出てこない。何かを、なにかを言わなくては。不安と焦りとで頭の中がぐちゃぐちゃだった。

「…………ご、限の体育が、嫌なので、帰ります」

どうにか絞り出したその言葉に、はあ?と方々から呆れたような声と、次いで笑い声が上がる。
「サボりかよ」「マジ?」「お前体育嫌いだもんね」「嫌いっていうか、ボール顔面でキャッチするレベルだからな。わからなくもない」「おいみょうじ、ボールは顔じゃなくてグラブで捕んだぞっ」「は?お前マサシの真似くそ上手いな?」「でしょ〜?任せろ」
俄かに騒がしくなる教室内を余所に、適当に荷物をリュックに突っ込んでいく。ゲラゲラとまあ品の無い笑い声は日常茶飯事で、それに今はなんだかほっとした。
それと同時に、こういう時に上手く言葉を紡げないことがひどくもどかしい。事実をありのままに伝えることは出来ない癖に、上手く躱すやり方もわからない。中学生の時に対人関係をなあなあに済ませてきたつけだろうか。痛感して自身が情けなくなるが、今はそれを嘆いている場合ではない。

自分も笑おうとして、その顔が引きつるのがわかった。きっと今、ひどい顔をしている。放送で呼び出されて、戻ってくるなり帰り支度を始め、その上取って付けた様な嘘を吐いて。一体どう思われているのだろう。
そう、未だ血の気の引いた頭で考える。こういう時でも体裁を気にする自分が嫌いだ。

人知れず拳を握って、昼休みの喧騒の中に「でもわたし、跳び箱は割と得意だよ」と一石投じれば、すかさず「跳び箱て!」「はいウソ〜!」「顔面から突っ込むんじゃね?」とかなんとかひどい物言いが返ってくる。本当に口の悪い連中だ。
リュックを背負う。「バイバイ」少し掠れた声で挨拶をして、振り返らずに自分の中での全速力で駆け出した。


心拍数が上がる。ドクドクと、心音が耳いっぱいに響いて、まるで心臓がそっくり耳のそばに移ってしまったかのように思えた。
わたしが昇降口を出たのと、バイクのエンジン音が耳に届いたのはほぼ同時だった。

「なまえ!」

ヘルメットのシールドを上げて鋭くわたしを呼んだ次兄に駆け寄れば、それだけで少し安堵感を得て目頭がじわりと熱くなる。

「泣いてんの、お前」
「……ない」
「よーしよし。あー、聞いたか、父さんのこと」
「救急車で、運ばれたって……、それしかわかんない」
「そっか。悪いな、俺もだ。ばあちゃんから直で電話あったんだけどな、まあ要領を得ねんだわ。病院の場所だけはわかったから、今から行くぞ。おら」

頭を鷲掴みにされ、ぐらぐらと揺さぶられる。落ち着いていて余裕があるように見える兄だけれど、その手が少しだけ震えていることに気付いてしまった。
わたしにもヘルメットを被せ、甲斐甲斐しく腰にはパーカーを巻いてくれている兄だって、恐くて不安なのは一緒なのだ。「はやく後ろ乗れ」それにひとつ頷いて。

──父さんにもしもがあったらどうしよう

その一言は飲み込み、兄の腰にぎゅっと腕を回した。肩を掴むな、無用な動きはするな、声掛けには素直に従え、その他諸々。ぐちゃぐちゃの頭の中で、それでも今まで再三言われた注意事項を必死で反芻する。

「途中で落っこちんなよ!」
「落ちないから、飛ばして!」

荒々しい動作で、それでも滑らかに滑り出した二輪に逸る気持ちがほんの少しだけ落ち着いた。



気を抜くと手が震えそうになる。ここで振り落とされては洒落にならないと腕に力を入れ直す。心臓はもうずっと騒がしい。ぐんぐん流れる景色に、次第に自身の身体が強張っていくのがわかった。
ああ、この道は。
十三歳になる年の夏から冬にかけて、何度も何度も長兄の背中越しに見た光景をいま再び目にしている。
冬のそれへと移り始めた冷たい風が体にぶつかるせいか、背筋がぞわりと粟立った。

過去散々通った、見慣れた道を直走り、次兄は白い大きな建物の駐車場に迷うことなくバイクを停めた。そこはかつて、母が入院していた大学病院だった。ひとつ深く息を吐き出す。
もたつく手でどうにか脱いだヘルメットを、小脇に抱えたまま入口をくぐれば相変わらず真っ白な空間が広がっていて少し怯んでしまった。大丈夫、大丈夫、落ち着け。また心音が耳いっぱいに響き出す。
こわくて仕方ない。

「すみません、みょうじと言いますが、今日父がここに運ばれたと聞いて──」

兄の声を聞きながら、また貧血を起こしたように頭の中が白くちかちかと点滅しだした。ひどく気持ちが悪い。

──母さん

胸の内でそっと呟いて、もうこの世にはいない母にお願いをしようとした。
どうか父が無事であることを、父に何事もなく平穏であることを祈っていてください──そんなことを考えて、我に返る。
都合の良い神も仏もいやしないのだと、過去に痛い程思い知ったじゃないか。そのくせ同じ戯言を繰り返してしまう自分に、ひどい吐き気を催した。

背筋が凍る音を知る


- ナノ -