「堅治がキャプテン?」
「うん」
「……堅治がキャプテン?」

思わずそう繰り返したわたしに、長兄は声を上げて笑った。



朝晩と肌寒くなった今日この頃、学校では着々と迫る文化祭の準備に追われていた。
その準備の最中、どういうわけか手首を捻挫した。特にこれといって思い当たる原因も無く、日常生活で手首に負担を掛けていたかというとそんなことも無く。いや、知らず知らずのうちに、ということもあるかもしれないけれど。
気付いたら物も持てない程に手首を痛めてしまった。

自身の手首をひどい顰めっ面で眺めていたらしいわたしに、なんだその顔ブスだな〜なんて言ってくるクラスメイトを更なる顰めっ面で見返し、保健室で診てもらってこいという言葉には首を横に振って応えた。
そんな大袈裟な、とその時は思ったのだけれど、素直に保健室に行けばよかったと今更後悔したところで。先に立たずというやつだ。


「ただいま」と口にしながら靴を脱いでも、暗い家の中から返ってくる声は無く廊下を進む自分の足音だけが静かに響いた。通学用のリュックをおろし、取り敢えず洗濯物を取り込もうと庭に出て腕を伸ばしたところで再び顔を顰めることになる。

「痛い……」

ぼそりと呟いたそれはやはり誰に拾われることもなく。とりあえず平気な片方の手で洗濯物を取り入れ次は夕飯の準備を、と思ったけれどただでさえ手際の悪いわたしが片手でそれを出来るのだろうか、否。
しまった、これではままならないと溜息が溢れた。数時間前の、保健室へ行くという選択を選ばなかった自分を恨めしく思いながら、少し逡巡したあと湿布を片手に家を出た。



薄暗い中を歩いて三分程で辿り着いた家のインターホンに指をかけたところで、それを押すよりも先に「あ?なまえ?」と柄の悪い声に名前を呼ばれた。ちょうど息子様がご帰宅したらしい。
おかえりとわたしが言うよりも早く「お前ん家ここじゃないって知ってた?」となんともまあいらない一言を頂戴する。

「知ってるからピンポン押そうとしてたんですけども」
「ふーん?」
「……お母さんは?」
「は?なんで」
「なんでって、おばさんに用があって来たから」
「なんで」
「? なんでってなに」

さも不思議そうな顔をしてわたしを見てくる彼に、思わずこちらも同じような顔になってしまった。
二口のお母さんに用があったらダメなのかと怪訝に思いつつ、ドアの鍵を開けて扉を開いた彼に促されて足を進めれば、明かりの無い静かな家の中に違和感を覚える。

「……もしかしておばさんいない?」
「みたいだな」

我が家と同様二口家もまだ誰も帰ってきていないらしく、自然と肩が落ちた。
仕方ない、帰ろう。
そう切り替えて「お邪魔しましたー」と踵を返したところで「待て」と引き止められる。手首を思い切りつかまれて。
痛い、と悲鳴を上げるよりも先にその手を反射的に払ったわたしに、堅治は心底驚いたような表情を浮かべてこっちを凝視する。わたしの反応が予想外だったのか、「……は?」となんとも間の抜けた声を溢して、それからひどくばつが悪そうに眉尻を下げた。

「なんで、そんな怒ってんのお前」
「怒ってない」
「いま手払ったろ」
「うん」
「いや、うんじゃなくて」

じわりと生理的な涙が滲みそうになって、言葉数が少なくなる。
そんなわたしを見た堅治はあからさまにぎょっとした顔になり、それから神妙な面持ちで、触るぞと一言断りを入れてわたしの腕をそっと引いた。

リビングまでのそう長くない道程で、マジで怒ってねーんだよなと余程手を払われたことが不服だったのか、何度か訊いてくる彼に適当にうんうんと頷けばじゃあなんでだとやっぱり不満気な顔をわたしに向けてくる。言ったら言ったで面倒臭そうだなと思って言い淀んでいると、その視線は次第に胡乱なものへと変わっていき、どうにも空気は不穏だ。
これはもう逃げてしまうのが最善ではと、さっと背を向け廊下へ引き返そうとしたのだけれど、まあ当然のように堅治の反射神経の方が上回ったわけで。
「おいコラ」と低い声と共に掴まれたのは例の手首で、間髪入れずその手を払えばまた同じやりとりのはじまりはじまり、である。
コントかな、全然面白くないけど。



「笑いませんか」
「それは聞かないとわかんねえわ」
「帰る」
「待て待て。お前の話聞いて、俺が笑ったことあるか?」
「どの口が言ってる?」

天地がひっくり返っても今わたしの手首に触れてはならぬと厳命すれば、普段はなに言ってんだとバカにしてきそうな彼も今ばかりはわたしの鬼気迫る様子にふざけているわけではないと察したのか、とりあえずは頷いていた。
「それで?」と投げかけられた当然の疑問の声に姿勢を正して問い返せば、とんだ大法螺を吹くときた。
「言え」「嫌だ」の応酬を繰り返すこと数回、一際大きな「言えって!」「嫌だって!」の後ついに折れたのは堅治の方で、「頼むから」と急に声のトーンを落として言うものだから私の方も虚をつかれて、結局素直に口を割ってしまうのだった。

「手首捻挫した」
「は?あー、それで……。理由は?」
「わかんない」
「なんだそれ」
「でも痛い」
「そりゃ捻挫したらな」

ひどく呆れた表情で、雑に頭を撫でられる。
笑われた方がましだったかもしれないなとちょっと思った。

「で?」
「なにが?」
「いや、何しにウチに来たんだよ」
「あ、湿布貼ってほしくて。おばさんに」

家から勝手に持ち出した、祖母だか祖父だかの使っている湿布を掲げて見せれば「いや病院行けよ」と呆れを通り越して引いたような顔で言われる。

「病院行く程じゃないので」
「それは行って医者に決めてもらえ」
「やだ、病院好きじゃない」 
「好き嫌いの問題じゃないんですケド。つかその湿布何用だよ」
「なんだろ、市販のやつ?お母さんいつ帰って来ますか」
「知らね。買い物だったらそのうち戻って来んじゃね」
「買い物かあ」
「お前ん家誰もいないわけ?ばあちゃんたちは?」
「卓球大会の打ち上げ行ってる」
「あー。元気だよな、あの人たち」
「うん」
「つか右左どっち?さっき俺が掴んだ方?」

その通りである。
件の手を差し出せば、「まあ利き手じゃなくてよかったんじゃね」と軽く触れられた。
まさかそのまま容赦なく捻る気では、と疑心を抱いてしまったが、ただ様子を診てくれているだけらしい。なんか、ごめん。

「利き手じゃないなら自分で貼れんじゃね?湿布」
「……ところがどっこい」
「ああ、まあなまえだもんな、悪い」

何もかも悟ったような顔で謝られると、苛立ちを越えて虚しさが心を襲った。
利き手は無事。しかし片手で湿布を剥がして思うように貼り付ける自信は皆無。昨今は片手でさっと綺麗に貼れるよう工夫されているものも売られているらしいけれど、結局は人によるんじゃないかと遠い目をしてしまう。
他人の手を煩わせる事にはなるが、湿布をくちゃくちゃの無惨な姿にするよりは賢明だ。そう思う事にする。

「おばさん帰ってくるまで待ってていいですか」
「別にいいけど、なんで?」
「え?わたしの話聞いてた?」
「聞いてたわ。いやだから、俺でよくね?」

確かに、そうだ。
彼の帰りはもう少し遅いと思っていたから端からおばさんに頼む気でここを訪ねたし、運動部でもないのに謎の手首の負傷をバカにされる懸念故に彼にお願いするという考えは頭から抜け落ちていた。
もうばれてしまったし何の問題もないことに気付いて、お願いします、と湿布を預ければ「千円な」とあこぎな単語が聞こえたが華麗に無視した。
その手つきは存外丁寧で、なんだかんだで人の面倒を見ることに長けている人だよなと、同時に先日長兄が言っていたことを思い出す。
彼は今、バレー部のキャプテンをやっているらしい。そう聞いた時、あの堅治がと驚いた。人の事をよく小バカにしてくる、先輩にも平気で失礼な言葉を向ける、あの堅治が。信じられないものを見る様な顔をしていたらしいわたしに、長兄はまた笑って「今月末の試合、なまえも観に行くだろ」とまるで決定事項のように言った。

「茂庭さんたち、元気?」
「は?茂庭さん?さあ、元気なんじゃね。練習とかよく顔出してるし」
「へー、いい先輩だ」
「暇なだけだろ」

こっちは望んでないと呆れ顔をつくってみせた彼に笑えば、それが渋面に変わり差し出していた手をぎゅっと握られた。

「痛い、ひどい、鬼だ!」
「湿布貼ったけど、あんま手動かさないようにしろよ」
「今悪化した!」
「気のせいだろ」
「……っう、いたい、……ひどい、信じてたのに……っ」
「……あーもう!泣くのやめろって!ごめん!」
「手首やられたわけじゃないから、ほんとはそんなに痛くない」
「マジで嘘泣きやめろ」

嫌味ではあるが、嫌な人ではない。
患部を冷やす存在に、ありがとうとお礼を言えば相変わらずの渋面で「そのけろっとした顔腹立つわ」と言われたが華麗に流しておいた。

さて、そろそろ帰って夕飯の準備をしなければと腰を上げたところで、果たして出来るだろうかとぎくりとする。湿布を貼ったところで、和らぐだけで痛みが完全に無くなるわけではなかった。
まあお湯を注ぐだけとか、レンジで温めるだけとかそういう便利な食品をつかってどうにかすればいいか、今日は自分と父の分だけ用意すればいい日だしと二口家をあとにしようとしたところで「お前夕飯どうすんの」と丁度考えていたことを訊かれ、曖昧な笑い顔になる。

「なんだその顔」
「生まれつきですね」
「知ってる。今日ばあちゃんたちいないんだろ、どうすんの」
「頑張る」
「……大丈夫か?」

あまりにも信用がない。しかし、片手でどうにかしようとして火傷したり手を切ったり、最悪火事を起こしたりしそうだと寒心に堪えないといった様子で言う彼に、なるほどありえると素直に納得してしまった自分がいる。
父の帰りを待って、外に食べに行くなり出前をとるなりした方が賢そうだと考え直して今度こそ帰ろうと思った時、「ただいまー」とわたしがここに来た本来の目的である人の声が聞こえてきた。



「ごちそうさまです、お邪魔しました」
「ハーイ。お父さんにもよろしくね」
「うん、ありがとう」

結局、二口家で夕飯をごちそうになってしまった。
買い物から帰ったおばさんに、夕飯を食べて行くかと訊かれ、父の分を用意したいからと遠慮したけれどすぐに手首の負傷が見つかり。「うわ痛そう!だめ、食べてって。お父さんの分も用意するよ」という言葉に、ちらりと堅治を見遣れば「そうしろ」と自分がつくるわけでもないのに偉そうに頷くから、それに甘えてしまった。鶏手羽の甘辛煮、美味しかったなあ。

「どうやったら料理って上手くなるんだろ」
「ばあちゃんに訊けば?」
「教えてもらってるはずなんだけど」
「まあ人には向き不向きがあるしな」
「不向き」

母親の命により強制的にわたしを家まで送ることとなった彼は、半分笑いながらそう言った。言葉だけ聞けば慰めているようにも思えるが、全くそんなことはない。

「……本当にキャプテン?」
「は?なに」
「伊達工バレー部のキャプテン」
「なん、でお前が知って……ああ、兄ちゃんか」
「隠してたの?」
「別に隠してたとかじゃないけど。本当にってどういう意味だよ」
「後輩いじめてない?」
「…………」
「痛い」

横から耳を引っ張られる。
痛がるわたしを余所に、息をひとつ吐いた後「茂庭さんの壁が高いんだよな」とぽつりと、彼は本当に小さくそう溢した。
茂庭さん。そこまで詳しく知っているわけではないが、彼から少なからずどんな先輩なのか聞き及んでいる。堅治が、茂庭さんみたいに。

「……どこに笑う要素があるんだよ」
「え?ははっ」
「マジでなんなんですかなまえさん。手首握っていい?」
「それしたら泣く」
「おー、泣け泣け」

茂庭さんは絶対そんなことしないと思うって言ったら、うるせーってまた耳を引っ張られた。

へなちょこヘモグロビン


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