雨だ。雨が降っている。

「これは大変だ」

教室の窓から外に目を向けて、そう人知れず零してから、慌てて制服の胸ポケットに手を突っ込んだ。そこから取り出したケータイを、これまた慌てながら操作するけれど、画面は真っ暗なままでうんともすんともいわない。

なんで、あれ、あっ、充電切れてる。

えらいこっちゃと今度は内心で独り言ちて、「どなたか充電器をお持ちではないですか」と教室に居た面々に声を掛ければ、すかさず携帯充電器があちこちから差し出された。すごい、みんな持ってる。ありがたい。その中から一つを拝借して急いで繋ぎ、画面が明るくなるのを待った。
こうしている間にも雨は大きな音を立てて降り続けている。がんばれ、がんばってくれ、文明の利器。祈ること数秒、復活したそれを出来るだけ手早くいじってすぐに耳にあてた。コール音が数回鳴った後、ふっと一度音が途切れる。よし、出た。

「もしもしっ、起きてる?寝ててもいいけど窓の外見て、今すぐ見て、見たらすぐにベランダに走って!」
「………は?」
「洗濯物!洗濯物が雨で濡れちゃうから!」
「………はあ?」
「今日、朝は晴れてたからいつもより多めに干してるの!今すぐ取り込んで!」
「お前、誰に掛けてんだよ」

え、誰って。
全く予想になかった返答に、わたしはひとつ瞬きをしてから、誰って、兄ちゃんじゃんともうひとつ瞬きする。
「今日の俺は怠惰に過ごす、お家から一歩も出ません」とか朝ふざけたことを宣言し、布団でごろごろしていた大学生の兄ならお昼を過ぎた今でも家に居るだろうと踏んで、急に降ってきた雨の被害にあっている我が家の洗濯物の取り込みを頼んだのだ。
あれ、もしかして兄は兄でももう一人、既に実家を出ている上の兄の方に間違えて掛けてしまったのかもしれないと、一度耳からケータイを外して画面に目をやる。
そこには『なまえのお守役』と表示されていた。いや、誰。

「……すみません、あの、どちら様でいらっしゃいますでしょうか」
「はあ?そっちから掛けてきたんだろ、鈍足」

あ、わかった。
尋ねた通話相手が誰か理解したのと同時に、反射的にブツッと通話を終了させていた。
何がわたしのお守役だ、また人のケータイ勝手にいじっていらないことしたなあの人。というかどう考えたって今、「鈍足」は関係なくないか。つくづく失礼だし、口が悪い。
思うことは多くあれど、今考えるべきはそれではない。

さて気を取り直して、わけのわからない登録名の一つ下に履歴が残っていた兄に改めて電話を掛け直す。案の定兄は寝惚けた様子で、「あー、あ?お前雨とか、降らせてんじゃねえよ……」とかなんとも理不尽で意味のわからないことを言っていたけれど、洗濯物が無事取り込まれたことを祈っておいた。

「あ、なまえ、電話終わったの……ってなんか疲れてない?」
「……あのさあ」
「どうした?」
「世界で一番俊足な生き物ってなんだと思う?」
「どうした」

今度はわたしが、ふざけた『お守役』のケータイをいじってやろうと思いまして。



どうやらあの雨は通り雨の類だったらしく、電話を終えた後割とすぐに止んで、放課後になる頃には地面すらほとんど乾いていた。

家の冷蔵庫の中身を思い浮かべつつ、今日の夕飯はどうしようかと考えながら家路を辿れば、なんとまあ、洗濯物が物干し竿で揺れている姿が目に飛び込んできた。風に煽られ、ゆらゆらと。なんてこと。背負っていた通学用のリュックの肩紐をギュッと手で握れば、自然と目が吊り上がる。

「っ兄ちゃん!」
「おー、なまえ。おかえ、」
「洗濯物!」
「ごめん、ごめんなまえさん、許して」

これまたなんと未だに布団で転がっていた兄を強めに呼べば、相変わらずごろごろしたままそんな言葉が返ってくる。
一度取り入れて、雨が止んだからまた干した、なんて気の利いたことをしてくれたわけではなく、多分電話を終えたあとこの兄はまた眠りについたのだろうと容易に想像がついた。
面倒臭いけれど、これは洗い直した方がいいのかなと溜め息が零れた。
折角充電器を借りてまで電話をしたというのに、あまりにも怠惰が過ぎる。普段忙しい人だから、たまの終日休みぐらいのんびりしたいのだろうというのはまあわかるけれど、ソレはソレだ。
沸々とわいてくる怒りをそのまま声音に乗せれば、それを察したのか返事だけは神妙を装ったものが返ってきた。

「兄ちゃん」
「……ハイ」
「今晩のお肉抜き」
「はあ!?なまえ!お前はやっていいことと悪いことの区別もつかなくなったのか!殺生にも程があんだろっ」
「うるさいです」

何事かをわあわあ喚く兄を無視して、ドスドス足音を立てながら洗濯物を取り込みに行こうとしたところでピンポーンと間の抜けた音が響いた。
インターホンだ。誰かが来たらしい、宅配や郵便の類だろうか。ハーイと返事をしながら玄関へ向かい扉を開ければ、それのどちらでもなかった。

「……お前、ドア開ける前にインターホン取れっていっつも言ってんだろ」
「…………『お守役』」
「は?」

扉の前にいたのは、『なまえのお守役』もといご近所さんだった。
ああ、確かに直で玄関を開けるなとはよく言われているような、と思いつつ見上げなければ見えない位置にある顔に視線を向けて、「なんのご用で」と問えば彼は途端に眉根をぐっと寄せた。なんだ。
というか、ずっと思ってたけどオモリヤクってなんだ?この人は何を担っているんだ、面倒を見られた覚えなんて無いに等しいのに。

「お前が昼間ワケわかんねえ電話してくるからだろ」
「あ、堅治、勝手に人のケータイいじったでしょ!」
「人の話聞いてんのか」

ギュッと鼻をつままれて変な声が出た。なかなか痛い。

「ドアは確認してから開けようなー」
「ハーイ……、え、今日部活は?」

なんでいるの?
春も終わりに近づいてきた今、少しずつ日が延びていて、夕方でも空はまだいくらか明るかった。季節にもよるけれど、部活動をしている彼の帰宅は今の時期だと大概は日が暮れてからになるのだと、以前言っていたのを思い出す。
「体育館の点検で休み」相変わらず人の鼻を摘んだままその人は言った。なるほど。

「え、早く帰れたのにもしかして寄り道もせずに帰ってきたの?」
「あ?」
「……あの、堅治……、友だちいる、いたたた」
「なんか言ったか」
「いたい」

今度は口を左右に引っ張られた。割に容赦がない力加減だ。
ぱっと解放された頬には鈍い痛みが残っているが、これは図星をついてしまったのだろうか。まあ別に友だちがいなくたってね、死にはしないしね、人生楽しければそれでいいよ、と一人納得して頷いていると、あからさまにイラっとした表情。
そして「お前のせいだろ」と謎の責任転嫁。

「うんうん、ごめんごめん、堅治には堅治なりの生き方があるもんね、知ってる知ってる」
「………」
「青筋浮いてる!」
「お前が妙な電話してきてそのままブチ切ったからだわ!」
「でん……ああ、あれね、間違い電話!」
「わかってんだよそんくらい!」
「え、じゃあなに」
「そのあと掛け直しても出ないからわざわざ来たんだろうが!」

掛け直しとは。
あのあと電話なんて掛かってこなかった、と思い返してみて、ああそういえば兄に電話を掛け終えた後すぐにまた充電が切れてしまったんだったと思い出す。充電器借りたの、ちょこっとだけだったから。そしてそのまま現在も鞄の中で眠っているそれ。気付くわけがない。
なるほどと頷けば、それが癪に障ったのか今度は頬を両手のひらでプレスされた。

「おいコラタコ」
「タコって言う方がタコ」
「出ないから何かあったのかと思ったわ」

ひどい悪口を言ったかと思えば、そうトーンダウンした静かな声でぽつりと零した彼につられて「ごめん」と素直に謝罪しようとしたところで、それよりも先に堅治が顔を逸らした。何事かと思った次の瞬間に彼は派手に吹き出し、ひいひいと喉を引き攣らせて笑い出す。

「……はい?なに?」
「っは、おま、顔!面白すぎんだろ……っ」
「……誰のせい?」
「ふっ、元々のクオリティじゃね?」

相変わらず頬はプレスされたままで、喋る度に違和感があるし声がくぐもる。今この人はとんでもないことを言ったが、ウソじゃん。普段わたしの顔見ていきなり吹き出したりしないじゃん。元のクオリティ関係ないじゃん、両親延いてはご先祖様に謝って。

「はーっ、笑ったわ。今日のお前ん家の夕飯何?」
「ご飯!?それよりごめんは!?」
「は?それ言うのなまえの方だろ」
「人の顔で散々遊んでおいて……」
「で、夕飯は」
「ええ……、あ、そういえばちょうど一人分お肉余るんだった。食べていかれるんですか」
「あー、やっぱお前がつくんの?」
「嫌ならお帰りください、バイバイ」
「お邪魔しまーす」
「お邪魔するのか……。文句言わないって約束して」
「善処する」
「それ言うやつだ!帰って!バイバイ!」
「もう上がったから無理」
「無理なわけある!?」

結局彼は夕飯を食べていったし、食卓には「堅治!お前それ!!俺の肉っ!!」と兄の絶叫が響いたけれど、わたしは知らないふりを決め込んでおいた。

きみのわたしのそういうところ


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