「なまえって何でウチ入ってないの?」

分厚い板チョコを包丁で適当に砕いていたら、唐突にそう言われて思わず手を止めた。

今日も放課後の料理部の活動にお邪魔して、鋭意お菓子の制作中である。オープンスクールや、まだ少し先ではあるが文化祭用に大量に食事メニューやお菓子の試作をするらしく、人手はいくらあってもいいそうでそれのお手伝いをしているところだ。
チョコブラウニーをつくるために、市販の板チョコよりカカオ成分が高いという製菓用の、手でパキパキと折るのは少し難しいくらいには厚い板のチョコレートと向き合っている最中。
ちなみに一欠けら食べさせてもらったが、苦味のパンチが強すぎて目を見開いてしまった。

「……部員でもないのに活動に参加して、大変申し訳なく」
「え?あ、違う違う!普通に気になっただけ」

パウンドケーキのための、バターの入ったボールを抱えた部員のひとりにそう言われ、つまり料理部に入っていないにもかかわらずどうして部活にはちゃっかり参加しているのか訊かれたのだと思った。そういう意味ではないらしい。よかった。
まあ部外の人間が普通に活動してるのもおかしな話だよなと、自分の厚顔ぶりに苦笑しつつチョコレートを砕く手を再び動かしたのだけれど、集中を欠いていたせいかずるりと包丁が滑って危うく手を削るところだった。「わ、わー!」「え、うそ、大丈夫!?」「こら!みょうじさんが包丁扱ってる時はちょっかい出さない!」「ごめんなさい!」部長に、わたしではなくその子が怒られてしまった。いつの間にかそんなルールが生まれていたらしい。お騒がせして申し訳ない。
一先ずチョコレートに片を付けます、と断って作業を終えてから改めて話を聞けば、「なまえ楽しそうだし、入ればいいのになって」とのこと。

「ていうかなまえいたら私が楽しい」
「え、ときめいた」
「マジ?一回五百円ね」
「ときめきって有料なの?」

どうして部活に入っていないのか、といえば。
学校が家から遠い故に通学時間が長く、部活動を終えてから帰ると家に着くのが遅くなるから、というのが一応の理由であった。
「あーなるほどね、え、中学どこだっけ?」訊かれて、知らないだろうなと思いつつ母校の名前を口にすれば、案の定首を傾げられる。

「ごめん、訊いたのにわかんない」
「いやここら辺の人で知ってる人の方が少ないから、全然」
「ほんと遠いとこから来てんだねえ。今日は大丈夫なの?帰り」
「大丈夫ー」
「え、てかなんでここ選んだの?」
「えー?……ふふっ、君に会うためだよ」
「ときめきマイナスって感じ」
「マイナスとかあるの」

帰宅が遅くなるから部活をするな、なんて誰に言われたわけでもない。
帰るのが遅くなってそのせいで家の事が出来なくなるのが困ると、自分で勝手に決めただけだ。
実際のところ、別にそれで誰も困りはしないんだけど。祖母なんかは「部活に入れば?」と言ってくるし、誰もわたしに家事を強制しようなんて思っていないことは知っている。知っているけれど。

「……これさ、チョコにお湯入れたらオシマイなんだよね?」
「うん、頑張って」
「……見守っててください」
「いや気負いすぎだろ」

とりあえず、今はチョコレートの湯せんに集中だ。



学校帰り、毎月恒例となっているお馴染みのスーパーへ、ご近所さんと一緒に花を買いに行く。

「お前んとこ、文化祭とかあんの?」
「あるよ、まだ先だけど」
「へー、何かすんの」
「クラスで何かしらはすると思うけど……え、来たいの?女子校内でのナンパって意外とハードル高いよ……?」
「はあ?誰がそんなこと言ったよ。行くとしても、目的はなまえの冷やかしだわ」
「じゃあ絶対来ないで。まあウチの文化祭、チケット制だけど」
「あー、チケット」
「一枚で二人までだから……、あ、舞ちゃんと来れば?」
「なんで滑津だよ」
「舞ちゃんに会いたいし、男二人で来るよりいいかなと」
「つか行っていいわけ」
「……わかった、舞ちゃんにチケット渡しておいてください」
「お断りだわ」

堅治に来られるのは嫌だが、舞ちゃんには会いたい。だったら普通に舞ちゃんにチケットを渡してもらえばいいのでは、と思ったのにお断りされてしまった。まあ部活もあるだろうし、渡したところで困らせるだけかもしれないな。
見慣れたジャージを着た彼を見上げて、こんなでっかいのがウチの学校に来たら頭ひとつどころがふたつ分くらい飛び出てさぞ悪目立ちするだろうなと眉をひそめた。

「え!ウソ!?ケンジじゃん!?久しぶり〜!」

絶対に来ないで欲しいと改めて思っていると、唐突に聞こえた高い声に、呼ばれた当人と二人して振り返る。
見れば、見慣れない制服を着た女の子が一人、大きく手を振り笑顔を浮かべていた。
伊達工の子だろうかと思って、いや舞ちゃんが着ていた制服とは違う気がするし、それ以前にその顔に見覚えがある気がするぞ、とよくよく目を凝らせば奇跡的に数年前の記憶が引っ張り出された。

「えー、偶然!元気?てか相変わらず背高いね?高校どこ行ってんだっけ、あ、だて……あー!伊達工か〜!」
「いや、うるさ」
「うるさいってひどくない!?マジでこの人全然変わってないんだけど!」

次から次へと飛び出してくる言葉の数々に呆気に取られながらも、そうだ彼女は中学の時の同級生だと思い出す。
同級生、それはわかった。特別仲がよかったわけではないが、話したことはある、多分。それもわかったけれど、どうしても肝心な名前が思い出せない。なんだっけ、いや知ってる、知ってるはずなんだけどどうしてもあと一歩が出てこない。

「あ、ごめん、彼女さん?一緒なところ邪魔して……ってみょうじさんじゃん!」

当時の朧げな記憶を必死に探っていると、不意に水を向けられて一瞬目が泳いでしまった。向こうは覚えてくれているのに、こっちは名前が出てこない。大変失礼な話である。
申し訳なさで強張る顔で「久しぶり」なんて言ってみる。多分、「久しぶり」で合ってる、はず。すぐに返ってきた「久しぶり!」に内心でほっとして、ボロが出る前にそのまま口を噤んだ。

「あれ、二人って付き合ってんだっけ!?」
「……はあ?」
「何その返事、うわすごい不機嫌そうな顔してんじゃん!」
「誰のせいだよ」
「えー、私?てかさ、」

またぽんぽんと出てくる言葉の量にすごいなと感心しつつ、その言葉が真っ直ぐ堅治だけに向かっていることを理解して、じゃあわたしは先にスーパーで買い物をしておこうと彼に指で行き先を示してそれから静かにその場を離れた。



祖母から託された買い物メモを片手に、腕に引っ掛けた買い物カゴへ品物を入れていく。あー、この時間帯だともうもやしは売れ切れてるなあ。空っぽの陳列棚にそうだよねと納得して、次の売り場へと足を向ける。えーっと、トマトとキャベツ、あと牛乳と……。
メモに目を通しながら目当ての棚に進もうとした瞬間、不意に後ろから頭を鷲掴みにされて小さく悲鳴が溢れた。

「ひっ……、なん、堅治か……」
「…………」
「え、なに」

人の頭を掴んだまま、その背丈による威圧感を遺憾無く発揮してこちらを見下ろしてくるその人に、なんでそんな恐い顔してんだと訝しんでいると「置いてくか普通」と低い声で一言。

「いや、だって話してたし」
「話してねーよ」
「そんなウソある?」

どうにも機嫌の悪そうなその人に、「お菓子買ってあげるから元気出して」と適当に言えば「お前人のこといくつだと思ってんだ」とこちらを睨んで、かと思えばわたしの持っていたカゴを取り上げ野菜売り場を大股で歩きだす。持ってくれるのはありがたいけど待って、買い物メモも持っていって。



「あ」
「あ?」

結局ちゃっかり笛ラムネをカゴに突っ込んでいた、いくつかわからないご近所さんとの買い物帰り、不意に震えたケータイを確認すれば思わず声が出た。
なんだと目を向けてくる堅治になんでもないと返せば、目を眇めて尚高い位置から視線が降ってくる。何と言われるか想像がつくけれど、まあいいかとケータイを差し出せばそれに目を通した彼は不思議そうな声で「同窓会?」と眉を顰めた。

「中三の時のクラスでやるんだって」
「中三……、お前友だちいなくね?」

ほらみろ、言うと思った。
けれど事実と言えば、まあ事実なので特に反論もない。別にいじめられていたとか、仲間外れにされていたとかそんなことは決してないのだけれど、特別親しい人やいつも一緒に行動する人というのはいなかった。
届いたメッセージの差出人は当時のクラス委員長で、わたしみたいな人にもちゃんと連絡を回してくれるなんてしっかりした人だなあと感心する。そういえばクラスの人たちの進路もよく知らないし、今どうしているのかなんてのもひとつもわからない。極たまに駅で会ったりする人もいるけれど、大概が声を掛けられてようやくこちらが気付くという体たらくぶりだ。
現に今日だって、未だにあの彼女の名前が出てこない。

「お前、中学嫌いだった?」

お誘いはありがたいけれど、と断りの返信をポツポツ打ち込んでいると、そんな質問がぽんと降ってきた。え?と振り仰げば当の本人は真っ直ぐに前を向いていて、わたしもゆっくりと視線を戻す。
中学校の思い出というものが、実はあまりない。嫌いだったかと言われれば、そうではないと思う。
頭にこびりついて離れない、苛烈な印象を残している出来事はいくつかあるけれど、別に嫌いでは。

「さあ。あんまり考えたことない」
「あっそ。今日の夕飯なに?」
「じいちゃん作、豚の角煮」
「は、美味いやつじゃん」
「お断りします」
「まだ何も言ってねーわ」
「いや、絶対食べに来るやつじゃん」

いろんなことに自分で勝手に理由をつけて、選択肢を狭めているんじゃないかとたまに思う。

「みょうじの家って皆料理上手いよな」
「……わたし以外って言いたいんだな?」
「言ってねえじゃん」
「目が言ってるじゃん」

まあ、進学先にあの学校を選ばなければ、今こうして背負ったリュックの中を甘い匂いでいっぱいにしているブラウニーは存在しなかったかもしれない、と思えばこれはこれで正解なんだろう。そういうことにしておく。

果たしてネイビー


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