夕飯の片付けを終え、自室で課題を適当にやっつけ、床にごろりと転がっていると不意に部屋の扉がノックされた。

「なまえ、なまえ!」

ノックというよりは、殴りつけるという表現が正しいかもしれない。扉を破壊する気か?とその凶悪ぶりに呆れていると、返事もしていないのに勝手に扉が開いた。叩いた意味。
顔を出した次兄は声音通りどこか不機嫌な様子で、喧嘩を売りに来たのか?と思わず転がったまま身構えてしまった。
一体何事かとわたしが口を開くよりも先に「おい、出掛けんぞ」とだけぶっきらぼうに言って兄はそのまま部屋を後にした。
なんだ、今の。
怪訝に思いつつ起き上がってから声を張り上げ、「いってらっしゃい」と遠くなった背中に投げつければ、すぐにわたし以上にデカい声が返ってきた。

「お前も行くんだよ!」

横暴じゃん。


「わかるか?俺の気持ちが」
「わからん」
「わかれ」

仕方なしに玄関へ向かえば、既に兄の姿は無く、更に仕方なく靴を履いて外に出たところでバイクの前で待ち構えている兄と目が合ってしまった。そうして唐突に「わかるか?」と訊かれながらヘルメットを被せられる。
わたし、行くなんて一言も言ってないぞ。
フルフェイスのそれに、夜とはいえまだ夏の暑さが残るのにこれは耐え難いなと思っていると、その間に今度は長袖のジャケットを羽織らされ。実に甲斐甲斐しいことではあるが、いやそうじゃない。
一通りの支度を終えて満足したのか兄は、わたしを見てひとつ頷き、それからまた「わかるか」と口にした。だから、わからんて。

「とりあえず行くぞ」
「いや、どこに」
「はあ?買い物に決まってんだろ」

「はあ?」はこっちの台詞では。

先にバイクに跨った兄に促され、何ひとつとして納得がいかない中顔を顰めつつ渋々わたしもそれに同乗すれば「落っこちんなよ」と真剣なトーンで言われた。
実に不本意なタンデムではあるけれど、頼まれたって落ちてなんかやらないしと内心で思いながら、バイクにこうして乗る度に言われる注意事項を頭の中で反芻していく。肩を掴むな、無用な動きはするな、兄の声掛けには素直に従え、その他諸々。
「はい、出発ー」兄の掛け声と共に低いエンジン音を立てて滑らかに走り出した車体は、生温い夜の風を切って行き先の知らない「どこか」へ進んでいった。



兄が運転するバイクの後ろに乗せられるのは、初めてのことではない。けれどよくよく考えてみれば、自分から乗せてくれと言ったことは今までに一度も無かったように思う。
被らされているヘルメットだって、今みたいにある日突然出掛けるぞと兄二人にバイクのショップに連れて行かれあれでもないこれでもない、ジェットはダメだろこいつの場合フルフェイスの方が安全だ、でも軽めのにしとかないと頭から落ちるだろ、とかなんとかわたしのものを選んでいるらしいということは辛うじてわかったけれど、二人が何を話し合っているのかはちっとも理解出来ず、わたしはただお店のお兄さんに話しかけられるまま答えていた。

「君はあの二人の妹さん?」
「そう、です……?」
「ああ、じゃあ君がなまえちゃんか!」
「えっ、なんで知ってるんですか」
「みょうじくんたちからよく話聞くよー」
「えっ」
「あともう一人弟くんがいるんだよね?」
「弟……」
「あれ?確かケンジくんっていう」
「……あ〜」

時折、ちょっと頭貸せ!とか、何色がいい?なんて訊かれつつ。
気付けばお買い上げされていたのがこれ、黒に蛍光ピンクのラインが入ったヘルメットだけれど、いくら記憶を辿ったところで自分がその色がいいと言った心当たりも、そもそも欲しいと言った覚えも全く無かった。

バイクの二人乗りの仕方なんて知るわけもないし、乗せてもらうなら車の方がいいというわたしの主張は兄二人に黙殺され、その癖、お前は運動神経が引く程悪いんだからバイクの上で下手なことすると冗談抜きで死ぬぞとやたらと真剣な顔で言われ。
じゃあ乗せなきゃよくない?というこちらの最もな言い分は「風、感じたいだろ」という次兄の至極バカな発言により一刀両断されてしまった。あれは笑ってしまったわたしの負けだ。因みに、長兄はわたし以上に腹を抱えてゲラッゲラ笑っていた。

バイクの車種がどうでエンジンがどうでという話を何度聞いても覚える気のないわたしは無理にでも乗せるくせに、反対にその話を興味深げに聞く堅治のことは絶対に乗せない。
好きに触るのも良し、静止したそれに跨るも良し、けれど絶対にお前を乗せては走らない。そう言い切った兄たちに、堅治は特に文句を言わなかった。
何も意地が悪くて言っているわけではない、身内ではなく、尚且つスポーツ選手である彼に万が一があってはいけないからだろうというのは彼もわたしも理解しているけれど、それなら尚更のことわたしは?わたしはいいのか?堅治が怪我をするより、わたしが大怪我する確率の方が遥かに高そうなのだけれど。



はい、到着ー
兄がそう言ってヘルメットを外したのは、ネオンギラつくディスカウントストアの駐車場だった。
驚安の殿堂と謳っているそこには、実用品から珍妙な品までいろいろあるし夜中まで営業をしていて何かと便利だけれど、一体兄はわたしを連れてまで何を買いに来たというのか。
人の頭からヘルメットを回収して、いつの間にやら機嫌は直ったのか意気揚々と店内へ入ろうとする兄のパーカーの裾をいや待てと掴めば、兄はわたしを見下ろして「お前、補導されんなよ」と愉快げに言った。
補導。
その人の左腕を引っ張ってそこにあった時計を覗き込めば、確かにわたしが警察にお世話になってもおかしくない時間帯だった。

「……その場合、怒られるのは高校生連れ回した自分じゃん……?」
「よし、お前は今から大学生だ。堂々としてろ」

めちゃくちゃ言うな、と呆れながらも、絶対に兄と離れないようにしようとパーカーをより強く握り込んだ。



ずんずんと慣れたように真っ直ぐ兄が進んでいった先にあったのはゲーム機器類のコーナーで、その中から迷わず手に取ったハードを見て、わたしは思わず声を上げてしまった。

「えっ、それ持ってんじゃん」

据え置き型のそれは既に家の中で見た事があるし、居間で兄がテレビ画面に齧り付くようにしてコントローラーを握っていたのも記憶に新しい、そしてわたしやご近所さんもたまに付き合わされていた。それなのにまた買うのか。
携帯ゲーム機ならまだしも、据え置きを二台用意してそれをやり込む時間があるのか?なんていらない心配を勝手にしていると、兄がひどく眉間に皺を寄せてわたしを見下ろした。

「……ねんだよ」
「え?」
「だから、ねえの!今、家に!これっ」

一語ずつ区切って言われても。いや、あったじゃん。どういうことかとわたしが訊くよりも先に兄は般若のような形相で口を開いた。

曰く、今日配信のダウンロードコンテンツを大層楽しみにしていて、バイトをラストまで頑張り機嫌よく家に帰ってきたところ、肝心のハードが見当たらなかった。
我が目を疑って、真っ先に思い浮かんだ心当たりである長兄に連絡をとったところ「ああ、ウチにあるわ」とけろりとした調子で言われ。どうやら長兄が先日実家に帰ってきた際に、一人暮らし中の家に持ち帰ったらしい。
次兄、怒髪天を衝く。
結果、だったらもう新しいの買いに行ったらあ!と不機嫌全開でわたしを連れ出したと。

「わかるか、俺の気持ち」
「わか……、わたし来る必要あった?」

お菓子買ってやるから我慢しろって言われた。



「あー、早くなまえも免許取ってツーリング出来りゃいいのにな」

目当ての物を無事、金に物を言わせて手に入れ、帰りも当然のように人の頭にヘルメットを被せながら兄は言う。

「……いや、お前がバイクは危ねえな。絶対取るなよ、やめとけ」
「どういうこと」

撤回が早すぎる。
おーし、出発ー。相変わらず間延びした調子の合図のあとで、するりとバイクは走り出した。

こうして乗っていると、否応無しに思い出すことがある。

四年前、初めて長兄とバイクの二人乗りをした。それは兄たちが面白がった結果だけれど、その年の夏以降その経験は不本意ながら役に立つことになった。

平日の学校終わり、長兄の運転するバイクに跨って母が入院している病院へ向かう。夏休みに二輪の免許を取ったばかりの次兄と病院で合流して、面会終了時間まで母と好きに過ごす。
帰りはまた二台のバイクで家に帰って、翌日の落ち合う時間を決める。三人とも部活動をしていたから、それを終えてからだと会える時間はあまり多くはないけれど、自分たち自身の生活を疎かにするなと母から懇願に近い小言を受けていたため、部活をサボるという選択は取らなかった。

「兄ちゃんさあ」
「あ?」
「運転上手くなったね」
「はあ?誰に向かって言ってんだお前」

バイクの免許を取って一年後、二人乗り解禁となった次兄の運転で母の墓参りに行った。
その道中、カーブでの重心移動の加減を間違え、気付けば地面が間近に迫っているというひどく恐ろしい体験をした。
兄と二人顔を青くし、半泣きになりながらもどうにか母のもとへ辿り着き、安堵からか結局二人して泣いた。
後から来た父や長兄にひどく驚かれたけれど、それが悲しみだけからくる涙ではないことは、わたしと次兄の間だけでの秘密である。

「そのうち堅治が免許取りそうだよね」
「あー、堅治なー」

そりゃ楽しみだ、と笑った兄の声は、夜の空気に溶けて消える。
お菓子を買ってもらっていないことに気付いたのは、家に帰り着いたあとだった。

飴玉ひとつ絶対王政


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