テスト前の衝動。

「お前、試験勉強するって言ってなかった?」
「言ってた」
「今なにやってんの」
「模様替え」
「なんで」
「あ、ベッドのそっち側持って」
「勉強しろよ」

言われてしまった。



学校帰り、駅で偶然ご近所さんと一緒になり、そのまま同じ帰り道を辿った。
日は少し前に暮れていて、街灯の明かりが灯る辺りは薄暗い。

「帰り遅くね?」
「自分もこの時間じゃん」
「こっちは練習があるんで。お前もなんか始めたわけ?」
「ううん、放課後自習してきた。褒めていいよ」
「褒めないですけど」
「褒めて、いいよ」
「ハイハイ、また今度な」
「いや、今度は別にいいや」
「なんだお前。つかなんで自習とかしてんの」
「優秀な学生さんだから」
「ふーん」
「……テスト期間に入ったからです」

自習することに理由なんていらないだろうと言い返したいところだけれど、普段そんなことはせず、たまに料理部に顔を出す外は大抵さっさと家に帰っているわたしだ。彼もそれを知っているので、何も言えない。
テストという言葉に、堅治はああとひとつ頷いて、それから苦い表情で「ウチもそろそろだわ」と口にした。どうやら伊達工よりわたしの学校の方が一足早いらしい。

「お前今から夕飯つくんの?」
「うん?うーん」
「今日なに」
「二口さん家の献立?知らない。おばさんに訊いたらいいと思う」
「みょうじさん家のだわ」
「あー……みょうじさん家の夕飯は、冷凍食品か、レトルトかー……、カップ麺?」
「へー、なんで」
「今日夕飯いるの、わたしと父さんだけなんだよね。勉強しなきゃだし、父さん別に夕飯が何でも文句言わないし。いいかなって」
「あー、まあなまえがつくるよりは確かだよな、味が」
「怒った」
「すぐ怒る」
「すぐ怒らせる!」


家の前で別れて、宣言通り特に夕飯の準備には取り掛からず、自室でテキストを開いて試験勉強に取り組んだはいいものの途中で集中が切れた。
ペンを指先で回してみたり──まあ、不器用なせいか一回転しただけですぐ終わるのだけれど──、無駄に問題集をパラパラ捲ってみたり、肩をぐるりと大きく回してみたりしたところでやる気は戻ってこず。
もういっそ夕飯つくろうかな、でも堅治の言う通り、わたしがつくるよりも冷凍食品とかレトルトの方が美味しいんだよなあ……、企業努力の塊に勝てる腕なんてわたしには無いのだ。

とりあえず、副菜を──確かほうれん草があったはずだから、それをしらすとごまで和えて、他に何か汁物でもつくっておこうと椅子から立ち上がったところで、ふと視界に入った姿見の位置がなんとなく気になった。
勉強机の横に置いてあるそれを、クローゼットの側に移動したい。前々から何となしにそう思っていたのだけれど、まあいずれやればいいやと後回しにしてきたソレ。
姿見に映る自分をじっと見つめること数秒、わたしはこの時判断を誤ったのだ。


掃除機の電源を一度切って息を吐いたところで、開けっ放しにしていた扉をコンコンと叩く音が聞こえ、パッと顔を上げる。

「お前、試験勉強するって言ってなかった?」

なぜかそこに立っていたご近所さんは、ひどく呆れた表情でそう言った。



「え、そもそもなんでいるの。不法侵入……」
「違いますけど。おじさんに入れてもらったんだわ」
「おじさん」
「みょうじのお父さん」
「あれ、父さんいつ帰ってきた?」

どうやら今ウチを訪ねてきた堅治と、父の帰宅が偶然重なったらしい。掃除機の型が古くてやたらガーガーうるさかったせいかもしれないが、全然気付かなかった。

「で、お前マジでなにやってんの」
「模様替えと、掃除」
「飯は」
「まだ。とりあえず、ベッドのそっち側持ってほしい」

おもいっきり眉を顰められたけれど、それでもベッドの足元の方に手を掛けてくれた彼を見て、「向きをね、こう、九十度動かしたい」と頭側を起点にぐるりと手で孤を描いて見せれば更に眉間の皺が深くなった。

「それ、俺が大変なだけじゃないスか」
「割とわたしも大変!」
「大体何で非力なのにこんな大物動かそうとしてんだよ」
「気分」
「ふざけてんのか」

その一言は無視して、せーのと無理矢理合図を投げれば溜め息が聞こえてきたけれど、それでもベッドの脚がふっと浮いた。
わたしの衝動になんだかんだで付き合ってくれるので、笑いそうになった。


「そういえば、何しに来たの」

変わったベッドの位置に満足し、一息ついたところで訊けば「今更かよ」と言いたげな表情を向けられる。さっきカラーボックスの中を整理した時に、一度出してそのまま床に重ねて置いていたアルバム数冊をパラパラと捲りながら、「夕飯持って来た」と彼は言った。
曰く、父とわたし、二人分のご飯を持って行けと二口のお母さんに使い走りにされたんだとか。わたしの「カップ麺」発言を憐れに思った堅治が手を回してくれたのか、単にその話を聞いたおばさんが気に掛けてくれたのか、はたまた偶然二口家の夕飯に余りが出たのか──、いやそれはないか。詳しいところは彼が口を割りそうにないのでわからないけれど、何はともあれ夕飯を持って来てくれたらしい。
やったと手をあげて、ありがとうとお礼を言えば「んー」と視線をアルバムに向けたままの生返事が返ってきた。かと思えば、「……お前、ホントに小さい頃から顔変わんねえな」とまじまじと人の顔を見ながら言ってくる。

彼の見ているアルバムは、主に父が写真を撮り母がつくってくれたわたしの幼少期からを綴ったものだ。末っ子故か長兄と比べるとその量は大分少ないし、わたし単体で写っているものよりも兄たちと一緒に撮られたものの方が多いけれど、それなりに大切にしている。

「わたしにばっかり言うけど、でも堅治もそんな変わってな……」
「なんだよ」
「かわいくなくなったね……、ごつくなった」
「まあお前と違って成長してるんで」
「わたしだってしてますけど」
「いや、昔っから足遅いし、何もないところで転けて怪我してるから別に成長はしてない」
「見た目の話してるんですけど!」

彼の見ていたアルバムを覗き込めば、そこには今よりずっと幼い彼の姿もあった。
今に比べて随分と小柄な体躯と、少し色素の薄い大きなくりくりの瞳がかわいらしい小学生の彼を見てから、ふと今現在の彼に視線を向ければひどく大きくなったものだなと若干の感動を覚える。
瞳は相変わらずくりくりな気もするが、顔の丸みがとれ、手や足はいつの間にか骨張っており「かわいい」からは程遠い容姿になってしまっていた。

「ていうかこのアルバム、なんで俺こんな写ってんの」
「わたしが訊きたい。これわたしのアルバムのはずなのに、どこかしらに堅治が写ってるのおかしくない?」

わたしと堅治が出会ったのは小学校に上がる少し前で、赤ん坊の頃からの知り合いというわけではないが、それでもわたしのアルバムの中には彼の姿もたくさんあった。
一緒に大口を開けて笑っているもの、お互い不貞腐れて親に宥められているもの、兄たちと一緒に走り回っているもの──本当にいっぱいあって、一体これは誰のアルバムだと首を傾げたくなる。

「まあ堅治も身内みたいなものなんじゃない」

そう結論付けたところで、堅治は少し顔を顰めて何か言いたげな表情を浮かべたけれど、同時にコンコンと開きっ放しのドアを叩く音がまた聞こえて意識がそちらへ向かった。

「ただいまなまえ、二口さん家から夕飯分けていただいたからそろそろ食べようか」

そこから顔を出した父に「おかえり」と返して再度堅治に目を向けた時には、もうアルバムは閉じられていた。



二口のお母さんが息子に持たせた夕飯の生姜焼きは、父とわたしの二人分にしては些か多く、じゃあ堅治くんも夕飯まだなら一緒に食べようという父の一言により三人で食卓を囲んだ。
それは別にいいのだが、人のつくってくれるご飯ってなんでこんなに美味しいんだろうと思わず零したわたしに対して、「なんでだろうな」と半笑いで返した堅治と、そんな彼を諌めるどころかそのやりとりに声を上げて笑い出した父には遺憾の意を示したい。

「じゃ、お邪魔しましたー」
「あ、待って堅治。最後に勉強机動かすの手伝って」
「いやお前いい加減勉強しろよ」

言われてしまった。

グレープフルーツと理解できない生クリーム


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