そう大きくはない庭で、じっと太陽の光を浴びるゆとりを窓辺からぼうっと眺める。
亀には紫外線が必要不可欠なのだというのを知ったのは、次兄がゆとりを連れ帰って来たその日で、それ用のライトを置いてはいるもののたまにこうして庭に出して日光を浴びせている。

梅雨の晴れ間、東北の夏前にもかかわらず刺すような、柔らかく無い日差しに目を細めた。年々夏が暴力的になってきている気がする。もう少ししたら日陰に引っ込めなくては。
そうしているとなんだか眠くなってきて、そのまま目を閉じそうになる。けれど「教訓」を思い出し、わたしは欠伸をするに留めた。



今から三年前の、今と同じ時期の頃。
母の葬儀を終えて少し、表面上は日常を取り戻しつつある中で、実に唐突に次兄が我が家に亀を連れ帰って来た。

意味が分からなかった。

「なに?え?拾ったの??」
「リクガメがそうそう落ちてるかよ、貰ったんだっつの」
「もら……、りくがめ?」
「ウチで飼う」
「かう、は?どうやって!?」
「道具は揃えた」
「いや、ええ?」

犬や猫といった馴染みある生き物ならまだしも──いやそれだって事前の報告や準備無しに連れ帰って来るものではないけれど、亀って。
あまりにも突飛な話でひたすらに狼狽えるわたしに、兄は抱えていた箱を「よく見てみ」と近付けてきた。それを半信半疑で覗き込む。
亀だ。本当に亀がいる。丸っこい甲羅に、そこから伸びる四肢、黒々としたつぶらな瞳。

あ、かわいい。
そう純粋に感動を覚えたけれど、だからといって飼うということをすんなりと飲み込めたわけではなく、わたしはとりあえず長兄に早々の帰宅を促すべく電話を掛けたのだった。


「うわ、マジで亀だ」
「まじで亀だよ……」

あれからひと騒動あったものの、まあ譲り受けてしまったなら責任をもって飼おうと家族各々が自分なりにリクガメという生き物について調べ、どうにかこうにかやっている。
ちなみに次兄は、帰ってきた長兄から重い一発をくらっていた。生き物を相談も無しにほいほい貰ってくるなと叱った長兄に対して、上とも下とも派手にケンカをする次兄にしては大人しく素直に謝っていたのが実に意外で少し驚いてしまったのだけれど。

そんな次兄から話を聞きつけたらしくふらりと我が家を訪ねてきた堅治が、亀をおっかなびっくりといった様子で軽く指で突く。

「名前とかあんの?」
「あるある。ゆとり」
「は?なんて?」
「みょうじゆとり」

なんだそれ、みたいな怪訝な顔をされたけれど、わたしたちも初めそんな顔をした覚えがある。
命名は次兄で、曰く「心にゆとりを!」とのことらしい。どういう意味か、とはみんな訊かなくてもなんとなくわかった。
表面上は、普通。けれど内側にはきっとそれぞれ抱えるものがあったんだろうと思う。まあ妙な名前ではあるけれど反対する人もおらず、結果この亀はそう名付けられてしまったのであった。

「わたしのセンスじゃないよ」
「へー?」

疑いの眼差しを向けながらも、物珍しいのかそれとも気に入ったのか相変わらず亀改めゆとりに手を伸ばして構っている彼が、三年経った現在、ゆとりのことを一番にかわいがっているように思う。おかしいな、日常的な世話はわたしが一番してるはずなんだけどな。


事が起きたのはゆとりが我が家に来た、その年の夏のことだ。

日の暮れ始めた頃、夏休み中の部活動を終えて帰ってきた次兄が、ゆとりをケージから出して日光を浴びせようと庭に出していた。窓際に腰を下ろし胡坐に肘をついて、のそのそ動くゆとりをしばらく眺めていたらしいのだけれど、練習の疲れもあってほんの少しの間目を閉じてしまった。
大きな欠伸と共に目を開けて、庭を見遣ればあるはずの姿がないことに気付く。もう一つ欠伸をして、目を凝らすもやはりいない。まあその辺にいるだろうと、次兄は大して焦りもせず庭に降りたらしい。

「ただいま……、兄ちゃんなにやってんの?」

祖母との買い物から戻り、どうしてだか庭に立ち尽くす兄の背中に声を掛ければ、兄は勢いよく振り返り青白い顔で「ゆとりが」と掠れた声を出した。
飼うまでのんびりしていてあまり動かないイメージが亀にはあったが、実際は意外に足が速くせかせかと動く生き物なのだと、未だ短い付き合いではあるが知った。
見ていなかった間にゆとりが消えた。物陰や軒下を捜しても見つからない。
部活で日に焼けているはずの顔が、血の気を失って白くなっている様にわたしは少しの間二の句が継げなかった。

いろいろな可能性が頭を過ぎる。
ゆとりは、ひっくり返ったら自力では起き上がれない。そのまま気付かれなければ命にかかわる。カラスや猫なんかの野生の生き物に襲われれば、やはりどうなるかわからない。道路には車や自転車の危険性があるし、そうでなくても誰か他の人が連れ帰るかもしれない。

未だ短い付き合い──ではあるが、愛着が、愛情がないわけではない。「生き物を飼う」という責任だってある。
わたしも庭に降りて辺りを捜すが、あの丸いシルエットは見当たらない。焦れて、兄を非難したい気持ちがぐんと大きくなる。腹立たしい気持ちそのままに兄に雑言を投げつけようとして、息を呑んだ。

「…………っ」

兄が、ぼろぼろと涙を零していた。
 「母さんが……っ」次いで小さく聞こえた声に、言葉を失う。

母の病気が分かった時、兄弟三人で泣いた。母を送った日、わたしは大きな声をあげて泣いた。周りの様子はあまり覚えていないけれど、長兄は兄弟を代表した挨拶の最中に耐え切れず涙声を震わせていたように思う。
では、次兄はどうだったか。

母と入れ替わりのようにやってきたゆとりに、知らず知らずのうちに母を重ねていたらしい次兄を、そんな大切な家族を見失ってしまった兄を、馬鹿にして笑い飛ばすことは到底出来なかった。

「……ゆとりは亀だし、オスだよ」

でも、ゆとりは母ではないから。
そう辛うじて口にした自分の声も少し震えていて、励ましでもなんでもなかったけれど兄はゆっくりとひとつ頷いた。


「お邪魔しまーす、なあ玄関のところで……、え、何どういう状況……?」

とにもかくにも、ゆとりを捜そう。そう行動に移ったところで、玄関の方から庭に顔を出した人がいた。
目を赤く腫らして憔悴している兄と二人、庭に居るわたしたちに驚いて目を丸くしている。「声聞こえたからこっち来たんだけど、あー……」気まずそうに視線を逸らすご近所さんに、ゆとりが、と口にしようとしたところでそれよりも先に兄が「堅治、お前それ」と上擦った声を上げた。

「え、ああ、そうそう。こいつ、玄関の植木のところでなんか挟まってたから」

連れてきたけど、大丈夫だった?
──力が抜けた。それは兄も同じだったようで、勢いよくその場にしゃがみ込んで大きく息を吐き出す。
ご近所さんの手の中には、丸っこい甲羅があったのだった。



「ゆとりー、そろそろお家入ろー」

声を掛けてその身体を持ち上げれば、心なしかじとりとした目で見られたような気がする。
自分が思っていた以上に亀という生き物は感情表現が豊かであるし、思っていた以上によく動く。そしてそれがかわいらしい。
ゆとりを見ているとたまにあの日のことを思い出しては、本当に堅治が見つけてくれてよかったなと心底思う。いつの間に玄関の方まで回り込んでいたんだこの子は。

悲しい、寂しい、苦しいという感情の表現の仕方は「泣く」という行為だけではもちろんない。どんなに悲しくたって泣けない時もあるし、反対に悲しくもないのに涙が零れてしまう時だってある。
あの日、後に帰宅して事の経緯を聞いた長兄は、ただ静かに「堅治に感謝しろよ」と言っただけでそれ以上何かを言うことはなかった。
長兄も次兄も、わたしも。それぞれがそれぞれの感情を抱えていて、一緒に育ってきた兄弟だから少なからずわかりあえる部分もあるけれど、本当の本当のところ、心のやわらかいところに抱えている想いはその人のものでしかない。
亡くなった母へのおもいも、亀のゆとりへのおもいもまた然り。
兄弟といえど、それぞれが違う人間なのだ。

「あ、やっぱ居た。なあなまえ、俺のジャージ知らね?」
「びっ……、庭から登場しないで」
「声聞こえたから」

ひょっこりと庭から窓辺に現れたご近所さんに、心臓が一度ひっくり返った。びっくりした。最早不法侵入ではと思いながら、「知らないよ」と返してゆとりを床に下ろす。

「いや、この間忘れて帰ったからあるハズ……、おっ、ゆとり」

下ろすや否やまた窓の方へ突進していったゆとりに、堅治がうれしそうな声をあげる。

「別に堅治に懐いてるわけじゃないよ、外に出たいだけで」
「は?まあなまえより懐かれてるけどな」
「……それが不思議なんだよね。なんで?」
「ハイハイ。そういや昔、ゆとり脱走したよな」

一瞬、自分の心を見透かされたのかと思った。「……したね」あまりにもタイムリーな話題に変にどぎまぎしつつ答えれば、「みょうじの家来たら玄関のとこでなんかゴソゴソしてるし、初めデカめの虫かと思ったわ」なんて彼は言った。虫って。

「あのあと兄ちゃんたちにスゲー感謝されて、マジで何事かと思ったんだよな。お前はずっと泣きそうな顔してるし」
「え、してない」
「してました〜。でもホントよかったよな、見つかって。こいつ、来た時からずっとペットっていうよりみょうじの一員みたいもんだし」
「…………」
「違った?」
「違わない、こともない、のかなあ……?」
「どっちだよ」

それとこいつ絶対なまえより足速いよなとゆとりを抱えながらしみじみした口調で言う彼に、いつもなら湧いてくる怒りも今ばかりは鳴りを潜めていた。

砕けた星のかけらを抱いて眠る


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