今日の夕飯は祖母が作ってくれると言うので、下拵えだけ手伝ってあとは甘えることにした。自分の部屋で、友人から借りたというか半ば押し付けられた雑誌をパラパラと眺める。
毛足の長いラグの上で行儀悪く片膝を立て、いま流行りだというアイドルの顔がずらりと並ぶそれを、はー皆顔が綺麗だなあ、整ってるなあと感心しながら眺めているとドカドカと騒々しく階段を上る足音が部屋の外から聞こえてきた。

どうせ兄の仕業だろうとさして気にも留めず雑誌に目を向けていたのだけれど、そのまま足音が兄の部屋ではなく自分の部屋の前まで迫っている気がして顔を上げた次の瞬間には、騒々しい足音の勢いそのままにバンッとやかましい音を立てて派手にドアが開く。

うわ、うるさ、いや、え?

唐突に開いた扉の先に居たのは兄ではなく、ご近所さんの彼だった。
扉壊れてない?大丈夫?
そう思うくらいには乱暴に開けられたのだけれど、それ以上に彼の様子が気になった。俯きがちで表情はあまり窺うことが出来ないのだけれど、明らかにいつもの人を小バカにした感じとは違う。

「堅治、」

どうしたのかと問おうとした矢先、彼が部屋にずかずかと踏み込んで来て、かと思えばその勢いのまま床で膝を抱えていたわたしにラリアットをするかのように腕を首へと回し、あろうことか引き倒した。
突然のことにわたしが受け身なんぞの対応を取れるはずもなく、後頭部と背中を強かに床に打ち付ける。なかなかに痛い。痛いけれど、それ以上にこの事態への驚きが勝った。

なんだこれ。

眠る時に見慣れている天井を眠くもない今見上げて、それから視線を左隣に向ければ極々近くに明るい髪色の頭がある。最早近すぎて何かよくわからない。
膝を立てた状態で仰向けに転がることになったわたしと、そんなわたしの上に半分身体を乗っける形で突っ伏す堅治。
重いし、痛いし、よくわからない。とりあえず身動きが取れない。

考えたところで明らかになることはほぼ無いけれど、何かしらがあったんだろうなというのはすぐにわかった。
そりゃそうだ、理由もなしにこんなことされたら堪らない。

「堅治、重い」
「………」
「体重100kg超男」
「……、るせえ、お前より軽いわ」
「それはない!」

わたしが100kg超えてるって言うのかこの人。やっと喋ったかと思えば、悪態をついてきた。でも声に元気がない。
じんわりと伝わってくる堅治の体温がやたらと高い気がして、自由な右手をどうにか伸ばして明るい色の髪に触れた。「……何してんだよ」とくぐもった低い声が聞こえてきたけれど、気にせずに掻き回す。
羨ましい程にさらりと軽いその髪からは、制汗剤らしきものとそれに紛れて微かに汗のにおいがした。熱でもあるのかと思ったけれど、そうではないようでとりあえずほっとする。部活帰りなんだろう。

開け放たれた扉からは、階下で祖母が仕度中の夕飯のいい匂いが漂ってきて空きっ腹を刺激した。
今日のメインは肉じゃがだ。祖母のつくるそれは野菜が大きめで、箸を入れればほろりと崩れるよく味の染みた一品なのだ。まさかそれを嗅ぎ付けてウチに来たわけ、じゃあないよなあ。

人の揚げ足取りや嫌味なら淀みなく喋るくせして、自分のことは黙りなんだなあとひとりで何だか可笑しくなったけれど、いいかげん重いし暑い。
名前を呼んでバシバシとその背中を叩けばうるせえと低い声と一緒に更に抱え込まれてしまった。わたしが悪いのか、これ。

「お腹減ったね」
「………」
「今日の夕飯はばあちゃんがつくるから美味しいよ」
「………」
「別に、堅治の分はないけど」

わたしは超能力者ではないので、口で言ってもらわないとわかりっこない。わかりっこないけれどまあ、わからないならそれでもいいかなと思う。
だがしかし、やはりいつまでもこの状態なのはよろしくない、潰されてしまう。まったく困ったものだ、ばあちゃんの肉じゃがを食べてさっさと立ち直るなり吐き出すなりしてくれ。
わたしは祖母に夕飯の人数変更を伝えるべく、スウっと息を吸い込んだ。

「ばあちゃーん!!堅治も夕飯食べ、うっ」

階下に聞こえるよう張り上げた声は、けれど言い終える前に頬を左右に引っ張られて中途半端に消えた。痛みと同時に、堅治が身体を起こしたことで重みも消える。

「…………」
「…………」

そこでようやく見えた彼の目は、赤く充血し、泣いたあとのそれだった。

「……鼓膜破れるわ」
「肉じゃが、美味しいよ」
「知ってる」

そっぽを向き口を尖らせながら言った彼が面白くて笑えば、顔を手で鷲掴みにされて視界が真っ暗になる。手がでっかい。
わたしが身体を起こすと同時に手も剥がれ、さて祖母に連絡しに下へ行こうと立ち上がった瞬間に気付いた。
同時に、ひっと短い悲鳴が喉から零れる。

「わーっ!」

思わず叫べば、唐突になんだと眉を顰められたけれど、そうしたいのはこっちの方だった。
雑誌が、先程まで眺めていた友人の雑誌が。なんてこと。開いたままだったページが、ぐしゃりと蛇腹に折れてしまっている。その上、端の方が少し破れていてもう一目見ただけで大参事だ。
自分のものだったらなにもここまで騒ぎはしない。残念だなと思いはするが叫ぶことはないだろう、しかしこれは借り物なのだ。

「いや、なに」
「雑誌!」
「雑誌?あー……、お前の?」
「違う、クラスのギャルの……」
「ギャルの……」

ごめん、とばつが悪そうに目を伏せた堅治に、まあ開きっぱなしにしていた自分も悪いよなと思ったけれどいやあの状態だと不可抗力じゃないかとすぐに思い直す。
とりあえず、これは弁償ものだな。
一先ず持ち主である友人に謝罪と、同じものを買ってくると連絡を入れれば、ほぼノータイムで「気にすんな、買わなくていい」となんとも太っ腹な返事をいただいた。
続けて届いた、これでチャラでいいわ、というメッセージと添付されたいくつかのお菓子の画像にちょっと心が軽くなる。よし、買いに行こう。

「ちょっとコンビニ行って来るから、堅治留守番してて」

そう言えば、堅治は無言で立ち上がった。どうやら彼も行くらしい。
それならばと次兄の部屋の前に転がっていたキャップを、背伸びして堅治の頭に目深に被せてみた。
彼はやはり何も言わなかった。



菓子類のみをいくつか、無事購入した帰り道。いつの間にやら日は暮れ、街灯が照らす中を並んで歩く。
背が高く、キャップの被り方のせいであまり顔の見えない隣の大男は、もしここに幼い子どもなんかがいたら大層怖がられるのではかろうか、なんて考えていたらぽつりとその大男が口を開いた。

「……お前、兄ちゃんからなんか聞いてねえの」
「え?」

兄ちゃんって、どっちのだ。なんかって、何だ。
そう思ったけれど、どちらにしろ兄たちから特別何か連絡を受けてはいないので「ううん」と首を横に振る。
もしかしてその赤い目には、兄が関係あるのだろうか。
ポケットに突っ込んでいたケータイを取り出して、一応確認してみたけれどやはりこれといったものはなかった。今日じゃなくて、もっと前のことか?と指を滑らせているとふと、全然違う、別のメッセージに目が留まる。

「あ、ねえ。この間のあの写真なに?」
「は?この間っていつ」
「この間はこの間だよ。これこれ」

少し前、唐突に堅治から送られてきた脈略も説明もない一枚の写真。制服姿の鎌先さんが写ったそれを見せれば、彼はキャップの隙間から一瞥したあと「別に、ただの写真だろ」とふいっと視線を逸らした。

「どうせこれ、鎌先さん怒らせたんでしょ」
「知らねえよ、その人大体いつもそんな感じだし」
「それ多分堅治のせいだよ」
「……お前、なんでそんなあの人たちのこと知ってんの」
「なに?」
「ウチの先輩たち」

この前ウチの体育館来てた時も何か普通に話してたし
そう言われて、ぽかんとしてしまう。
何か不服だったんだろうかと思い謝ろうとして、けれどそこに責める様な響きなはなかったことに気付き、ますます彼の言ったことの意味がわからなくなった。

伊達工バレー部は割と部員数が多いけれど、それなりに、特に試合に出ている人たちならわたしは最低限顔と名前がわかる。一年生はまだよく知らないけれど、二年生、三年生となれば。

「そんなの、堅治が話すから」

それ以外ない。
長兄に試合観戦に連れていかれることがあるから、部員のなんとなくの顔は覚えられるかもしれない。
けれど名前と顔が一致する程にその人たちのことを知っているのは、部員でありチームメイトである彼の口から話を聞くからに決まっている。
彼の部屋に乱雑に、けれど確かに取ってある部員の集合写真と照らし合わせながら、茂庭さんが、青根がという話を聞いたことがあるから。

わたしの言葉に面食らったような表情をして見せた堅治に、反対にこっちが驚いてしまった。

「うそでしょ?」
「……そんな話してねえわ」
「それこそうそじゃん」
「うるせ」

急に視界が真っ暗になる。
頭にあったキャップを、わたしの顔を覆うように被せてきたその人は、深く深く息を吐いた。

「なにこれ、どういう状況」
「……なまえ、先帰ってて」
「どこに」
「お前ん家」
「肉じゃがは?」
「食うから」

先行ってろ
聞こえた声は、僅かに震えていた。



もう一度、キャップを彼の頭にぐっと深く被せて、言われた通り先に一人帰路を辿った。
その道程の途中で、長兄からの連絡により今日伊達工バレー部がインターハイ予選に敗退したことを知った。「兄ちゃん観に行ってたの?」「いや、行けなかったから行ってた後輩に聞いた」ああ、彼のことを心底応援しているこの兄から、わたしに連絡がいっているかもしれないとあの人は思ったのだろうか。
今日の彼の様子にそこでようやく合点がいって、自分の選択した話題の無神経さに気が沈んだ。

「……迎えにいこ」

一人になりたいがために先に帰れと言ったのだろう彼の元へ、踵を返す。
嫌がるかもしれない。けれど、元はと言えば彼がわたしの部屋に突っ込んできたのが悪いのだ。そう勇んで足を踏み出したところで、声が飛んでくる。

「足おっそ」

キャップのつばを軽く上げて人を小馬鹿にしたように言ったその顔は、よく見慣れたものだった。

「お前まだ帰ってなかったの?走るのだけじゃなくて歩くのまで遅くなった?」
「……遅くない」
「つかなんでこっち向いてんの。みょうじさん家は反対方向ですけど」
「知ってますけど」
「なんでそんな不貞腐れてんだよ」
「誰のせいだと思う」
「さあ?」

ぺらぺらとまあ、人をばかにするのがお上手なことで。
身体から力みが取れて、腹が立つのと同時にじわりと心が浮上する。
気持ちを切り替えて、落ち込んでいたものを前へと向けることは相当な気力がいる。強がりでも、取り繕っているだけでもなんでもいい。堅治がいつも通りでいられるだけ回復したならそれで。

「……もう二口さん家にお帰りになられたらどうですか」
「はあ?なんで」
「なんでってなんで?」
「なまえがウチ行けば」
「それこそなんで?あ、ていうかお金、半分払って」
「は?なんの」
「お菓子!元はと言えば雑誌ダメにしたの堅治なので」
「あー、ギャルの……。ギャルによろしく言っといて」
「いやそういうのいいから、お金」
「気が向いたらな」
「それ払わないやつ!」

堅治はそのまま本当にみょうじさん家に来たし、肉じゃがもきっちり食べていった。

「ばあちゃん、堅治の方が肉じゃが多い!」
「なまえが堅治ちゃんと同じ量食べたら大変なことになるでしょうよ」
「大変なことに……」
「堅治ちゃん、お代わりあるからね」
「あざっす」
「違う、ただの堅治贔屓だこれ」

そのにやにやした表情は鬱陶しいけど、楽しそうだからまあいいよ。

呪文のいらない目玉焼き


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