「なまえって、お母さんいないんだっけ」

日誌を書いていた手を止めて、顔を上げる。「うん」ひとつ頷けば、黒板の右端に明日の日付と日直担当の名前を書いていたクラスメイトがこちらを振り返った。
放課後の人気のない教室は、普段とまるで違う空間かと錯覚する程に声がよく響く。

「離婚?」
「ううん、死別」
「病気?」
「うん、そう」

そっかあ、と呟くように言って、その子は手にしていたチョークを置いた。
窓から差し込む夕日が、淡く辺りを照らしている。
わたしはその窓から見える外の光景に一度だけ目を向けて、日誌を書く作業を再開した。

「三時間目、なんだったっけ」
「さん、三はあれ、あれだよ」
「どれだー」
「現国!あのわけわかんない評論」
「ああ、あのひたすら謎な評論」

あれ今度のテスト範囲だよねえ、マジで無理なんだけど。そう笑いながらわたしの前の席の椅子を引いて、横向きに腰を下ろした彼女はふっと目を伏せた。
現代文 評論
わたしはそう三限目の枠に記して、シャーペンを置く。「どうした?」訊けば、今度はなんとも複雑そうな表情が見えた。

「えー、んー……ごめん」
「謝られた」
「いやめっちゃ失礼な訊き方したし、今明らかに構ってちゃんやってる自覚がある!ごめん!」
「え、おもしろ」

両手で顔を覆って一気に吐き出したその子に思わず笑えば、笑い事じゃないからと唸るような低い声が返ってきた。

母の事を自らすすんで言うことはないけれど、訊かれれば答える。別に隠す必要は無いし、世の中にはいろいろな「家族」のかたちがあるので特段珍しいことでもない。
自称カマッテチャンな彼女にも、以前話の流れで母がいないのだと言ったような覚えがある。けれどそれを不躾に話の種にしてくるような子ではないとこれまでの付き合いでわかっているので、きっと他に言いたいことないし訊きたいことがあったのだろう。
おねえさんがお話きいてあげますよ
そう口にすれば、「私の方が誕生日早いし」と呻きながらの抗議が聞こえてきてやっぱり笑ってしまった。


「ウチ、離婚してて」
「うん」
「今お母さんの実家におばあちゃんたちと住んでんのね」
「うん」
「……お父さんはもう再婚してるらしいんだけど全然連絡とかとってなくて、まあそれは別によくて」
「いいんだ」
「うん。でー……、この間、お母さんに病気が見つかってー……」

心臓が一度どくりと大きく跳ねて、一瞬のうちに血の気が引いた。
ドッと音を立てて騒ぎ出す鼓動を無視するよう努めて、彼女の横顔を眺める。

「今すぐ命にかかわるとかそんなんじゃないから、手術すれば大丈夫って言われたんだけど」
「…………」
「でも大丈夫って言われても、すっごい不安だし……、誰に頼っていいんだろうとか、もし何かあったらどうしようとかすごい考えちゃって、え、ごめんごめん!なまえ泣かないで!」
「え、泣いてない」
「嘘!顔が泣きそう」

全くそんな自覚は無かった。
ごめん、と零して、けれどそのあとに続く言葉が出てこない。彼女の言う「不安」が、中学生の時のわたしが抱いた恐怖と重なった。
「ホントごめん、いきなり言われてもって感じだよね」落ち着いた声でそう言った彼女に、ただ首を横に振る。

「あのさ、なまえ。……訊いてもいい?」
「うん」
「なまえは──」

放課後の教室は、本当に声がよく響いた。



普段特に用事が無いにもかかわらず、当然のような顔をして我が家に訪問してくるご近所の彼だが、最近はほとんど姿を見ていない。
何やら大会が近いだとかで、練習が遅くまであるらしい。そういえばクラスの子もインターハイがどうとか言っていたような気がする。そういう時期なんだろう。

二口さん家とは昔からの知り合いで、よくお互いの家を行き来していたけれど、彼がああして我が家を訪ねてくることは中学生になった時一度ぱたりとなくなった。お互い部活動があったり新しく友人の輪が広がったりで時間のつかい方が変わったことももちろんあるけれど、それだけが理由ではない。

わたしたちの通っていた中学は男女の仲がいいというか、小学校の延長のような、男子も女子も名前で呼び合うことが割とあって、わたしも堅治もそのまま特に変わらぬ態度で接していたのだけれどまあ思春期故のあれやこれやというのは少なからずあって。そういうことを訊かれる度に彼は嫌そうな、面倒臭そうな顔をして「お前に関係なくね?」とか「見ればわかんだろ、ご近所付き合いしてんだよ」とかなんとか返していたような気がする。
わたしはわたしで好き勝手言われたこともあって、それが鬱陶しかったらしい彼は次第にウチから足が遠ざかっていった。

再び顔を見せるようになったのは、母が自宅療養を始めてからだ。
母が亡くなってからも、わたしの家事の不出来さを笑うためか、はたまたゆとりと遊ぶためかは知らないがあの人はちょくちょく我が家で踏ん反り返っている。

「たーだいまー」
「おかえりなまえ、今日は天ぷら揚げるから手伝って」
「えー、油跳ねるの怖い」
「揚げるのはばあちゃんがするから、衣つけてほしいのよ」
「ああ、はーい」

ひょっこりと顔を出して出迎えてくれた祖母に、とりあえず着替えてくると断って二階の自室へ向かった。
通学用のリュックを下ろして、考える。

なまえは、どうやって立ち直った?

帰り道、ずっと頭の中で響いていた言葉に、ひっそりと息を吐き出した。
わたしは母の死から立ち直れているのだろうか。そもそも、「立ち直る」という状態に至るような精神的ダメージを負っていたのだろうか。斎場で大きな声を上げて泣いてしまったけれど、今考えてみるとそれがどうしてなのかよくわからない。悲しいから、寂しいから、辛いから。ただ感傷にどっぷり浸かってしまったが故の気もするし、感情が馬鹿になってしまったようにも思える。
ひどく曖昧で、考えてもよくわからない。

ただひとつ、そんな曖昧な中でずっと気に掛かっていることがあった。
言葉とは時に呪いにもなる。

「今日は堅治ちゃん来れないのかねえ?」
「なんで?」
「大量に揚げようと思うんだけど、食べきれるか不安なのよ」
「兄ちゃんが食べるんじゃない?」
「あらっ、あの子今日夕飯いるの?」
「違ったっけ?」

不安だと言いつつ量を減らすどころかどんどん具材を切っていく祖母に、まあばあちゃんの天ぷら美味しいしいっぱいあっても大丈夫だろうと適当なことを思いながらわたしはわたしで天ぷら粉を手に取った。
天ぷらなんて誰が揚げたって一緒だと思っていたわたしが、全くそうではないことを知って驚愕したのは中学生の時である。「……お前これ、ばあちゃんに習ってつくったんじゃねえの?」次兄が実に怪訝そうな顔をしていた。それと、跳ねる油に恐怖を覚えたのもその時だ。初心者が、美味しいからってイカなんて恐ろしい食材を揚げるものではない。


衣が剥げることもなく、綺麗な黄金色に揚がった大量の天ぷらを前に、自分もこんな風に見事な技術を会得する日は果たして来るのだろうかと真剣に考えていると、不意にテーブルの上のケータイが震えた。

今日はありがとう 私頑張るわ また話きいてね!

届いていたメッセージに、なんと返そうか少し逡巡したあと「まかせろ」と一言だけ打ち込む。
頑張らなくていいよ、と思う。けれど病気の人を支えるのには確かに気合いが必要だし、無理はしてほしくないけれど本人がそう覚悟を決めたのなら周りがとやかく言うことではない。
ひとつ息をつき、さて夕飯だと食卓の準備を始めようとしたところでもう一通、彼女からよりも先にメッセージが届いていたことに気付く。差出人は『ミシンマスター』……さすがにもう勝手にパスコードを解明されていることはなさそうだが、以前登録名を弄られたまま変更するのを忘れていた。
送られきたのは、写真が一枚だけ。
練習帰りなのか、街灯の下で制服姿の鎌先さんがこちらを指差して怒っているようなそれ。あの人、また鎌先さんにとんでもない口でも利いたんだろうか。どんだけ鎌先さんのこと好きなの?

送ってきた意図が全くもって謎なので、こちらも写真を一枚だけ送り返してみた。
すぐに返ってきた「そればあちゃんがつくったやつだろ」という、本日の我が家の夕飯を送っただけなのに、確信を持った一文。わかんないじゃん、わたしが揚げたやつかもしれないでしょ、いや揚げてないんだけど。実にその通りなんだけれど。……今度は油跳ねに打ち勝てるよう、頑張ってみるかなあ。



斎場の、桜の木の下。
大丈夫って言って
そう彼に向けて口にした一言が、ずっとずっとわたしの気掛かりだ。

この世でいちばん昏い星


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