「わたしの何がダメなんやと思います?」

机に突っ伏したまま手を伸ばして、横を通り過ぎようとしていたその人の腕をがっつり掴みながら言えば、突然のことに特に驚いた様子もなく平坦な声で「何の話や」と返ってきた。

「大耳さん、お話聞いてくれますか」
「聞かせる気しかないやろ」
「まあそう」

掴まれた腕を無理に放すことはせず、呆れたような表情を浮かべつつも視線で先を促してくれる大耳に、相変わらず机に伏せたまま目だけを向ける。

「北に負けたあ」

言えば、一度瞬きをした大耳は「ああ、中間か」とすぐに合点がいったようで、それから「まだ勝負しとったんやな」と呆れ半分感心半分といった調子でわたしを見下ろした。

北信介という人に、テストの成績で勝てない。
別に勝負をしようと話をしたことはないけれど、三年間クラスが同じで、返却されたテストを「見せて」と言ったら何の抵抗も無く見せてくれる北と自分の成績を比べてしまうのはまあ致し方ないというか。

「一年の時、賢そうな顔してんな〜と思ってテストの点数見せてもらったら、ほんまに賢かった時の衝撃」
「そんな言うて、自分も別に成績悪ないしむしろ良い方やろ」
「わはは、でも負けてんねん」

自分もそれなりの成績を収めているけれど、まあ北には勝てない。
努力が足りないと言えばそうなのだろうけれど毎度毎度定期考査の度、学期末の通知表を見る度にこちらが劣っていることを、それも僅差でこちらの数字が足りないことを目にすると「北め……」と恨めしい気持ちになってしまう。
当の彼は、「こんなん別に勝ち負けの話とちゃうやろ」とおっしゃっていた。まあ、そうですねと思いました。

「北、頭打ってめっちゃアホになったりせえへんかなあ」
「物騒なこと言っとるな」

おっと、口が滑った。



「ラスト五本ー!」

マネージャーの掛け声にパンとひとつ手を叩いて、「よっしゃ気張れ!」と声を張ればハイッと部員の返事が辺りに木霊する。
体育館の往復ダッシュをあと五回、全力で走れば今日の練習はそれで終わりだ。一対一や三対三のゲームをしたあとの足腰には辛いものがあるけれど、明日から期末考査週間に入るためしばらくは練習が休みなことを考えれば手を抜くわけにもいかない。
流れる汗をTシャツの袖で拭いつつ、ラスト一本を駆け抜けて、一度大きく深呼吸をした。

「っし、お疲れ様!明日から部活禁止やけど、それぞれテスト勉強頑張りつつ、多少は身体も動かしといてください」

解散と声を掛けたところで、同じ体育館で半面ずつフロアを分けて練習をしていた男子バレー部も丁度練習を終えたようで、「っした!」と挨拶の声がいくつも重なって体育館に響いた。


「角名くん、北の弱点知らん?」

モップ掛けを行っていた男バレの後輩にそう声を掛ければ、まあぎょっとした顔をされた。
本気半分、冗談半分といった心持ちではあるけれど、別に君の先輩を陥れようと画策しているわけではないので安心してほしい。ただ、こう、泣きどころを握っておきたいというかなんというか。
「弱点、ですか」と切れ長の目を瞬かせてわたしの言葉を繰り返した彼に、うんうんと二度頷いた。

「弁慶でいうところのすねみたいな」
「すね……、いや俺の方が知りたいです、それ」
「おっ、北に恨みでもあるん?」
「そういうんじゃないですけど、えっ、みょうじさんはあるんですか」

訊かれて、モップを動かしていた手が止まる。恨み。北に。
男バレの監督と何やら話している当人に視線を向けて、その凛とした背中にしみじみと思った。

「賢くて、部の主将やって、素行もいいって化け物みたいよなあ」
「それはみょうじさんも同じじゃないですか、女バスのキャプテンだし、成績も北さんと張り合ってるって前大耳さんが」
「いやいや、わたしは北に負けっぱなしよ」
「勝負してるんですか」
「してるって言うか……、とりあえず北に参りましたって言わせたい」
「えっ」

えっ?角名くん、ちょっと引いてへん?



勝てないなら、めちゃめちゃに勉強を頑張ったらいいじゃない!
そう思っていた時期がわたしにもありました。

「もう色仕掛けしかないと思うねん」

机に頭を乗せ、英単語帳を横目で眺める。パラパラとページをめくりながら、目に映るばかりで少しも頭に入ってこない英単語たちに嫌気を覚えた。
単語帳を眺めるだけで成績が上がるなら苦労はしない。でも単語帳を見ることすらしないで英語というものに挑む知力もない。ままならない。
期末考査開始まであと三日と迫った今日、そんなことを考えながら徐に呟いた言葉を確かに拾ったらしい大耳は、怪訝そうな表情を浮かべて「何がや」と訊き返してくれたけれど、自分で言った事に「ナルホド!その手が!」とピンときてしまったわたしはそれに応えるよりも先に勢いよく立ち上がっていた。

「ちょっと北のとこ行ってくる!」

ついでに単語帳もバンっと勢いよく閉じる。データベース3000よ、しばらく机の上におりなさいな。
善は急げ、思い立ったが吉日。仕掛けるなら今!
「健闘祈ってて!」と怪訝を通り越して、最早呆れ顔の大耳に言って親指を立てれば、「信介のこと殺すつもりとちゃうやろな」と大変失礼な事を言われた。
なんでや、色仕掛けやて言うてるやろ。わたしは女スパイか?


「北!」

教室を踊るように飛び出して、廊下の先にその背中を見つけて腕を引く。その勢いのままくるりと反転した北の、丸く見開かれた目と視線がぶつかった。

「みょうじか」
「急にごめん、でも前から北に言いたいことあってね」

「なんや」静かに問うてくる彼に、そのまま口走りそうになったのをぐっと堪える。ここは人目のある廊下だ、多分こういうのは雰囲気づくりが大切なのだ。

「好きです」

と、一秒前までちゃんと考えていたのに、じっとこちらを見てくる北の瞳を見返していたら結局口に出してしまった。
それに対して「えっ」と驚きの声をあげたのは北ではなく、近くを通り過ぎようとしていた赤木だった。幸いわたしの声を拾ったのは北の他に彼だけだったようだけれど、ごめん赤木、今そっちに構っとる余裕ないです。
反対にうんともすんともどころか微動だにしない北に、もしかしてわたしは今この人に向けてでなはく、赤木に告白をしてしまったのだろうかと若干の不安を覚えた。それ程までに、長い沈黙が流れる。
「北」と呼びかけたところで、ようやく彼が口を開こうとした。いやでも待って、今ここで何かリアクションを取られても困る。

「返事は今すぐじゃなくていいので。というかむしろ返事なくても全然構わんのやけど、とりあえず期末終わるまでにあれこれ考えてくれれば」

特に浮いた話のない北といえど、突然降って湧いた告白劇には多少心が動くだろう、男子高校生なので。たとえその相手がわたしであろうと、多少なりとも頭を悩ませるのではないだろうか。考査までのあと三日間、それから考査期間の五日間、集中を乱してくれればそれはわたしにとって万々歳なのである!これぞ色仕掛け。正確に言えば言葉の意味がまあ違うけれど、とにもかくにもあとは勉強を頑張るだけだ。
それじゃあ!と一方的に告げて颯爽とその場を後にすれば、追ってきたのは赤木の戸惑ったような声ばかりで、やっぱり北は静かだった。



「おかしいやろ」

期末考査終了から一週間、全ての教科のテスト返却も終わり、職員室前の掲示板に貼りだされた今回の成績上位者の氏名。毎回、総合点数の学年上位五十名が載るそれには、見事にわたしの名前もあった。喜ばしいことである。
が、しかし。
中間考査よりも結果は上々、平均点も上がっておりこれは件の彼に勝っただろうと逸る気持ちを抑えて見に行ったというのに。

放課後の体育館で、ボールを力任せに叩いてそのままゴールに向けてぶん投げる。シュートフォームも何もあったもんじゃないそれは、当然のようにリングに弾かれフロアに落ちた。

「荒れてるな」
「荒れよるなあ」

今日も男バレと女バスで半面ずつの練習だ。放課と同時に「練習いこ」と有無を言わさず引き連れてきた大耳と、廊下で出会したのでこれまた引っ張て来た赤木が呆れたように苦笑した。
わたしたちが一番乗りだったようで、三人ぽっちの体育館にはよく声が響く。

「どうしたん?みょうじ」
「信介に期末の総合点で負けたらしい」
「ああ、いつものやつか」

いつものって言うな赤木!
ダンクシュートをぶち込みたい気分だけれど生憎と身長が足りないので、試みたところで余計腹立たしい結果になるだけだ。一度大きく息を吐き出して、今日のハーフコート用の練習メニューについて思考を没頭させようとしたのだけれど、やはりちらつくのはわたしより二つ前に書き記されていた「北信介」の名前である。
至って普段通りの並びだった。

「……わたしの魅力について一人十個言うて」
「なんや急に」
「面倒臭い彼女か?」

面倒臭いって言うな赤木!
順位だけ見ればわたしはいつもより上がっていた。ついでに北の順位もいつもより上がっていた。すなわち、わたしの仕掛けた色恋の話は彼の集中を乱すことは少しもなかった。

「そういえばみょうじ、あれどうなったん」
「……あれってどれ」
「あれはその、あれや、この間廊下でそのー、言うてたやん」

歯切れ悪く言葉を濁しながら言う赤木に、何の話だと首を傾げ、「この間」と「廊下」で思い当たることはひとつしかないないなと気付く。大耳へちらりと視線を向けていることから、下手にはっきり言ってはわたしに悪いと気を利かせてくれたのだろう。いいヤツだな。言うて大耳さんも知っとるけどな。

「あれな、色仕掛けやねん」
「えっ、なんやそれ」
「北に参りましたって言わせるための引っ掛け。どうもこうも、別になんもないよ」

本当になにもない。
クラスが同じだから会えば普通に挨拶をするし、昨日は部長会議があったから一緒に講義室に行ったりもした。けれど北があのことについて言及することはちっともなかったので、多分もう忘れているか無かったものとしているに違いない。こちらも別に好き好んでフラれたいわけでもないので、その話を蒸し返すこともない、故になにもない。

「あー、北嫌いや」
「そうなん」

実に子ども染みた吐き出しに返ってきた声は、大耳のものでも赤木のものでもなく。恐る恐る振り返れば、体育館の入り口にある件の姿。

「きた」
「この前と言うてたこと真逆やな」

一礼をして、お疲れと手を上げながらこちらに歩いてくる彼に、思わずボールを腕に抱き締めて硬直する。
そのままわたしの横を通り過ぎた北。かと思えば大耳と赤木が妙に気を働かせたようで、あっちで話して来いと二人して体育館の隅に追いやられる。徐々に人の増えてきた体育館で、部員に指示を飛ばすべき二人がいやこんなことをしている場合ではない。ないけれど。

「えーっと、北、さん。もしかして話、聞いてました……?」
「色仕掛けがどうって?」
「ばっちり聞いてるやん」
「声デカかったしな」
「あー……」
「一つ訊きたいんやけど」
「……どうぞ」

何を言われるのかと、ボールを抱く腕に力が入る。

「返事はしてええんか?」

最低やな、と罵られるものだとばかり思っていた北からの「返事」という言葉に、「何に?」と返しそうになって、やめる。
返答が必要な問答、いっこしかない。

「いや、あのあれ、北が賢すぎるあまりの衝動というか、北を動揺させたかったというか、そういうあれやから」
「それはみょうじにとってやろ」
「え?」
「みょうじの都合は知らんけど、お蔭で今回成績よかったわ」
「は?」

いや意味わからん。
わたしの嘘を嘘だと承知した上で、あいつアホなことしとるなあと裏で笑っていたので愉快に勉強が出来ましたってことか?
いや意味わからん。本当に彼の言わんとすることが微塵もわからず、つまりわたしはこの男の掌の上で踊らされていたのか?と自分のことは棚に上げて理不尽な怒りを抱きそうになったところで。

「テンションあがったんやろな、自分でもびっくりしたわ。みょうじは冗談のつもりなんやろうけど、返事してよくなったら言うてくれ」

じゃあ練習行くわ、と踵を返そうとする北に「あ、うん」と口だけで応える。いやおかしいやろ、おかしい、これはおかしい。ちょっと待て北。

「わたしのせいで成績上がったん!?」
「まあ、結果そうやな」
「何でそれをいま言うん!?」
「ちょうど話聞こえたからやな。浮かれてて言うの忘れてたわ。スマン」

策士策に溺れる、自縄自縛、身から出た錆。似た様な意味の言葉が頭の中を一瞬で駆け巡って。
え?嘘だとわかった上で言ってる?とこれが現実なのかわからずただひたすらに混乱していると、気付かぬうちに腕の力が抜けボールがぼとりと足の上に落ちた。痛い。

「現実やこれ……」

さっきからうるさい自分の心臓に、こんなの一生勝てないのではと、妙に確信してしまったので本当にままならない。

210730
恋と戦争は手段を選ばず
title さよならの惑星

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