「……間違ってる」

ぬっと手元に影が落ちて、顔を上げればなんとも渋い表情を浮かべた佐久早がこちらを見下ろしていた。
「なに?」「字」訊けば返ってきたあまりにも簡潔な物言いに、瞬きを数回。字、と言われてまた手元に目を落としてみたけれど、彼が何のことを言っているのかやっぱりわからなかった。
背番号、氏名、学年、身長、出身中学。ウチの部員の情報がずらりと並んだ用紙と、持っていたペンを差し出せば佐久早は少しの間をあけたもののそれを受け取った。彼の性格を多少なりとも知っているので、手に取らないかもしれないという懸念があったのに、意外だなと驚いて思わずその姿を凝視してしまう。そうしている間に、さっさと紙が戻ってきた。

見れば佐久早清臣、というわたしの書いた文字の「清」の字を丸で囲み、そこから伸びる線の先にはなんとも几帳面そうな筆跡で「聖」と記してあった。ああ。

「聖臣」

思わず声に出す。
じっとわたしを見下ろす佐久早が一度ゆっくり瞬きをし、何か言いたげに口を開いて、閉じた。今はおなじみのマスクを付けていないので、口の動きが丸わかりだった。

「清い、じゃなかったか。ごめん、ありがとう。打ち込む前で助かった」

佐久早がいつこの間違いに気付いたのかは知らないが、名簿をパソコンで打ち込んでしまう前に分かってよかったと思う。
人の名前を間違えるというのはひどく失礼なことだと認識しているので、彼の渋い顔にも納得がいった。もしかして物凄く怒っているのだろうか、と一瞬案じたけれど、いや佐久早はバレーをしている時以外は常に大体こんな顔かと考え直す。
もしかしたら他にも詳細を間違えている人の分があるかもしれない、一度本人たちに確認してもらってから打ち込むべきかなと先輩マネージャーに相談しようとくるりと彼に背を向けたところで、「オイ」と呼び止められた。

「なに?」
「……なんでもない」
「嘘じゃん」

絶対何かあるから、呼び止めたんでしょう。思わず笑えば、佐久早の眉間の皺が深くなった。
やっぱり、名前を間違えたことに腹を立てているのだろうか。

「ごめんって。もう間違えないから」

軽く手を振り、今度こそ先輩の元へ向かう。呼び止められることはなかった。
潔癖の気がある人だから、「キヨオミ」という名前は「清」の字だと無意識のうちに思ったんだろうか、と自問自答してみる。
これは本人には絶対に言えないなと、内心でそっと笑った。

//


「っごめん!佐久早ごめん!」

やってしまったと、後悔したところで遅い。
「ボール転がすなっつってんだろ!」と部員を叱る声が遠くで聞こえたが、今のは明らかにわたしの不注意だった。

「ほんとごめん、怪我してない!?」
「……いや、お前の方だろ」

転んだ。正確に言えば、転びそうになったところを寸でのところで佐久早に支えられた。
がっしりと掴まれた二の腕に羞恥を覚えるが、それどろこではない。

日程確認のため紙面に目を通しながら体育館内を歩いていたら、足元のボールに気付かずそれに乗り上げそうになった。まずいと瞬間的に顔を青くして、避けようと妙な体制になったところを、目を丸くした佐久早が咄嗟に助けてくれたのだけれど。
重力に反して引っ張られた腕に、一瞬肩が外れたような錯覚を覚えたけれど、それならば引っ張った方にも少なからず衝撃があるのではとより一層血の気が引く。

「大丈夫?本当に大丈夫?どこも痛まない?」
「大袈裟なんだよ」
「だって」

自分の不注意で怪我をさせたなんてとんでもないし、相手は佐久早だ。あれこれと、本人曰く慎重を期して行動するような用心深い性格だし、その上ハイタッチなんかの接触すらも好まないのは見ていればわかる。
大袈裟なんかでは決してない。
半袖のTシャツから出た剥き出しの肌を、大きな手が掴んでいることに冷や冷やして焦りばかりが加速した。

何度目かのごめんを口にすれば、その手がそっと離れていったけれど、彼の手が触れていた部分は未だ熱が残っているようでひどくあつい。

「気を付けろよ」
「うん、ありがとうございました。その……、大丈夫?」
「は?」

いろんな意味を込めてそう訊いたのに、しつこいの一言で片付けられてしまった。

//


「わたしまで花束貰っちゃった」
「……貰うだろ、普通」

いいでしょ、と小振りな花束を軽く掲げて見せれば、どうでも良さげな顔で佐久早は見下ろしてくる。
卒業式後、最後のバレー部の集まりで、後輩たちから卒業生へ贈られる花を自分も貰えたことがうれしかった。自分たちも過去、先輩マネージャーたちに渡していたので彼の言うように普通と言えば普通なのかもしれないけれど、実際に受け取ってみるとやっぱりうれしいものなのだ。

「いやあ、これでみんなともお別れだね」

果たして佐久早がそういった感慨を覚えるのかは知らないが。

「元気でね」
「…………」
「え、無視?」

高い位置にある顔を仰ぎ見れば、彼は目を細めて笑みを浮かべているように見えた。口元には相変わらずのマスクが居座っているので本当のところはわからないが、何か面白い事を言った覚えは無い。
三年間、バレーを通してこの人と大なり小なりかかわってきたわけだが、最後までよくわかんない不思議な人だったなあと思っていると、不意に眼前に花が迫っていた。

「え、うわ、なに。待って、ちょ、佐久早!」

彼はあろうことか、自分の持っていた花束を、後輩から佐久早宛の贈り物をわたしに押し付けた。なに?もしかして花嫌いだったの?いや、だからって。本当にどういうことなの。
そうするだけして、両手をポケットに突っ込みスタスタと背を向けて行ってしまう彼の名前を大きな声で呼べば、顔だけで振り返って佐久早は言った。

「バーカ」

いや、なんで?
心底わけがわからなかったけれど、そこに言葉通りの貶すような響きは無くて、本当に一体なんだったんだろうと花束を二つ腕に抱えながらわたしの高校生活は幕を閉じたのだった。

///


時間というのは、あっという間に過ぎるものだなと、この数年本当によく思う。
高校、大学を卒業し学生ではなくなった今、驚く程に日々が足早に過ぎ去っていく。

「お、みょうじだ。久しぶり!」
「久しぶり、古森。元気?」

不定期的に開かれる高校バレー部OB会の集まりは、今まで数度参加したことがあるが当然のように皆大人になっていて顔を合わせる度に時間の経過を思わせた。

「珍しいね、ってわたしも毎回いるわけじゃないんだけど」
「今回たまたま予定が空いててさ」
「それはよかった」

全国大会常連の強豪校とくれば、バレーボールを主軸に生きていくOBというのも少なくなく。
久しぶりの再会を果たした古森もその一人で、わたしの知る当時より随分と身体つきは逞しくなり顔つきも幼さがなくなったなとひっそりと感動を覚えていると、彼はにっと笑ってそれから「佐久早!」と店の奥の方に向けて声を張った。

「え、佐久早来てるの?」

思わず目を丸くして訊けば、古森は笑みを深くしてあそこあそこと店の奥隅を指さした。あ、ほんとだ、佐久早だ。
高校卒業以来、初めて会う佐久早という人の顔の下半分は相変わらずのマスクで隠れていて、思わず笑ってしまう。「うわあ、ふっ、佐久早だ……ははっ!」「すごい笑うじゃん」「変わんないなあと思って」「まあ、佐久早だからなあ」

話しておいでよ、と古森がわたしの背中を押した。断る理由も特になく、笑いを引きずったまま足を進めれば、「何笑ってんだよ」と随分な挨拶が飛んでくる。

「久しぶり。座っていい?」
「……好きにしろ」
「気になる間だなあ」

一応の許可を得て、彼の向かいの席に腰を下ろしたところで思い出した。「そうだ佐久早、サインって貰える?」鞄から色紙とペンを取り出せば、返事は引いたような顔。想定内のことだったので、さしてダメージを負うこともなくずいっとそれを差し出せば、なかなかの躊躇いを見せた後で佐久早はそれを受け取ってくれた。「ありがと!」今度は白けたような目が返ってくる。
まあ久しぶり、のあとの二言目がサインくれ、だもんな。不躾だとは自分でも思うけれど、覚えているうちに頼まなければ。

「もう二度と書かないからな」低い声と共に返ってきた色紙には、確かに彼のものであろうサインが記してあった。はあすごい、なんて書いてあるのか全然わからない。
最早アートのように見えるそれを、しげしげと眺めようとして、その右上に見覚えのある几帳面な字を見つけてしまった。
「みょうじなまえさんへ」自分の名前だ。
瞬間、ぶはっと盛大に吹き出してしまう。唾が飛ぶのを嫌がったのか、佐久早は思い切り顔を顰めていたが、笑えるものは笑える。

「ご、ごめん佐久早……、これ、わたしの同僚に頼まれたやつ……あはは!」
「……は?」
「同僚が、佐久早のファンなんだって」

職場の同僚に、今度高校の部活の集まりがあるのだと言えば、確か井闥山だよね?え、井闥山のバレー部ってことはもしかして佐久早聖臣も来る!?もし会ったらサインって貰えたりする!?と色紙とペンを預かってきたのだ。
来るかどうかも、貰えるかどうかもわからないよ、と応えたけれど、今回たまたま会えたのでお願いした次第なのだが。
確かにそんなことは彼に一言も言っていなかったが、まさかわたしの名前付きで書いてくれるとは思いもしなかった。

「みょうじなまえさんへ……、ふふっ、おもしろ……!」
「…………」
「ごめん、怒んないで」

実は、妙にうれしかった。
彼がわたしの名前をフルネームで、正しくそらで書き記してくれたこと。

「佐久早、わたしの名前ちゃんと書けたんだねえ」

おさまらない笑いと、そのせいでにやける顔。佐久早はむっつりとした表情で、転売防止のためだと答えになっていない答えを口にした。そうだね、名前が入っているとサインは売られにくいもんね。

「あっはっは!!」

耐えきれず、今日一番のでっかい声で笑えば、「うるさい」と怒られた。



「色紙もう一枚買ってくるから、もう一回だけサインお願いしてもい?」
「断る」
「コンビニ行ってくるね!」
「オイ」

席を立ちあがったわたしに、深い深い溜め息を吐いた佐久早もどういうわけか一緒に立ち上がる。

「一緒行ってくれるんです?」
「うるさい」
「いやあ、今日来てよかったなあ。いいもの貰っちゃったし」
「お前は」
「なに?」

お前は、俺の名前ちゃんと書けるのかよ
突拍子の無い言葉を理解するのに、数秒時間を要したけれど。
彼の名前を口にしながら宙に文字を描けば、合ってるかわからないし簡単に名前を呼ぶなと怒られた。

200524
都会にも星は降る
title さよならの惑星

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