※割とご都合主義
※安室→降谷夢
※基本ネームレス



「すみません。別れましょう」
「……分かりました」

 そんなよくある台詞で、私と安室さんは別れたのだ。
 本当は嫌だった。別れたくない、と叫びたかった。彼に泣いて縋りたかった。でも、それは出来なかったのだ。
 勿論、私が嫌いになった訳では無い。かといって理由を聞けば、彼に嫌われたから、という訳でも無かった。
悲しそうに笑う安室さんは「貴女を嫌いになった訳ではありません。どうしても話せない理由があるんです」と言うのだ。今でも愛していますよ、といよいよ泣きそうな安室さんを見ていたら、どうしたって嫌だなんて言えなかった。
そこまで想ってくれていたのに、そう思えば、私は受け入れるしかないじゃないか。
もう一度、安室さんは私に対して謝罪の言葉を告げた。

「……すみません」
「いえ。私も、安室さんの事は愛してます。けれど、理由があるなら仕方ないじゃないですか」

 なんて強がって、笑顔を取り繕ってみたけど、うまく笑うことが出来ていただろうか。きっと出来ていなかったのだと悟るのは、安室さんの表情を見れば難しい事ではなかった。
 しかし、私はずるい返事をしたと思う。私にだって本当は、安室さんと別れなければならない事情があったのだから。
 それをあたかも安室さんに振られた、というシチュエーションにしてしまったのは、本当に申し訳ないと思う。
 父親に「付き合っている人と別れろ。お前に婚約者が出来た」なんて言われてしまった。
 最初は嫌だと反抗もしたが、全く聞き入れてもらえなかったのだから仕方ない。この攻防は一か月ほど続いていただろうか。
 そんな矢先に、安室さんに分かれてくれと言われたのだ。彼も、きっと私の様に理不尽な理由なのではないかと思えば、後腐れが無いように別れた方がいい。素直に頷けばいいのだ。
 人生、二十年以上も生きていれば、逆らえない事なんて多々ある。それが、会社の上司からの命令であったり、私の様に父親からのお告げだったり。人それぞれ違うけど、やはり、どこかで理不尽な事に巻き込まれたりすることもあるのだ。
 あぁ、なんて悲しい事だろう。
 こうやって、私と安室さんはそんな理不尽さで別れることになったのだ。

「すみません。今までありがとうございました」

 そんな言葉で、私の恋愛は幕を下ろした。


 ◆


 帰ってから、これでもかというほど泣いた。こんなに泣いたのは、一体いつぶりだろうか。最後に泣いたのは、子供の時だった。
いいや、安室さんに告白してOKを貰えた時も同じくらい泣いていた気がする。
ただ違うのは、あの時は嬉しくて泣いていたという事。それが今では。なんてことだ。あの時と真反対の理由じゃないか。でもあの時は、終わりがこんな風になるなんて、微塵も思っていなかったけれど。誰が想像できただろうか、という話になるのだけれど。
 あの場では、安室さんの前では平気だったのに、大丈夫だったというのに。家に帰って一人になれば、もう駄目だった。声を上げて泣いてしまったのだ。
 それほど、安室さんと別れなければいけなかった事が酷く辛くて、悲しかった。なんで。どうして。本当は嫌だったのに。そんな事ばかりが、ぐるぐると頭の中で巡る。
 生まれて初めて、父親の事が嫌いになりそうだった。幾ら厳しくても嫌いではなかったのに。
 苦手ではあったけれど、それでも嫌いだなんて思っていなかった。
 だというのに。
 理不尽な事には慣れてきたつもりだった。それでも、こればっかりは耐えることが出来そうにもない。
 何故、好きな人と別れなければいけないのだろうか。どちらかが嫌いになったというならば、まだマシだった。悲しくても、辛くても、きっと何時かは乗り越えられたはずなのに。
でも違う。
 安室さんも理由があって、と言っていた。彼も一緒だったのだろうか。私と一緒で、別れなければいけない理由とやらがあったのだろうか。
 今となっては分からないし、聞いたとしても困ったように笑うだけで、何も答えてくれなかったのかもしれないけれど。
 でも、愛しているのだと言ってくれた。だからこそ、彼も理不尽な理由だったのではないかと思えたのだ。誠実な人だったから。少なくとも、私に対しては誠実だった。だからこそ、あの言葉に嘘偽りが無かったと思える。
 私も安室さんも、運が無かったと言えばそれまでだけど。でも、こんなのってない。こんな終わり方をするなんて。もしも父親に、勝手に婚約者を作られていなければ、待っていることだって、できたかもしれないのに。困らせることになっても、泣いて縋れば何か変わっていたかもしれない。変わらなかったかもしれないけれど。
もしかしたら、もしかしたら。そんな事を考えれば考えるほど、涙が溢れてくる。こればっかりは、どうしたって止められそうにもない。今は、止める方法すら分からないのだ。
 酷すぎる。私が何をしたって言うんだろう。ただただ、好きな人と一緒に居れるだけでよかったのに。でも、それは叶わなかった。
 どうして私は泣きながら、好きな人の連絡先を消さなければいけないのだろうか。別れを告げなければいけなかったのだろうか。
 画面に浮かぶ、消去完了のポップアップを見つめて、また涙が零れた。
 
 これで本当に終わりだ。私と安室さんの関係は、終わってしまったのだ。


 ◆


 安室さんと別れて、もう一週間が経とうとしていた。なんとも早いものだ。しかし、心の傷が癒えたかと聞かれれば、そんな事はない。まだまだぽっかり空いた心が、ずきずきと痛んでいる。
 未練がましいと言われれば、否定できるはずもないし、自分で受け入れたのだから、と言われても否定なんて出来やしない。例え、それが理不尽で不可抗力だったとしても。
 あの日、私が泣いて縋って嫌だと拒否していれば何か変わっただろうか。否。きっと何も変わらなかっただろう。ただただ、安室さんを困らせただけだっただろう。
 そう思えば、私が取った態度は間違いなんかでは無かったのではないだろうか。
 無意識に漏れてしまったため息に、隣に居た父親が反応を示した。

「……これから、お前の婚約者との対面なのだからそんな浮かない顔をしていたら失礼だろう」

 頭を切り替えろ。そう言われたけれど、はいそうですかと素直に頷けるはずもない。反抗期という訳ではないけど、好きな人との仲を引き裂いた原因が半分くらいある父親に言われても、と心がささくれ立つ。
 自分で思っていたよりも低い声で「そうですね」と返事を返せば、父親は既にもう、こちらを見てなんかいなかった。
 冷徹で淡白な性格の父親らしいと言えば、らしい。今だって厳しい顔をしているだけだ。また、父親に文句を言われてしまうので、今度は心の中でそっとため息を吐いた。それ位は許してほしいものだ。そんな鬱々とした気持ちのまま歩いていれば、父親の「ついたぞ」という言葉に顔を上げた。

 見上げれば、大きな看板が目に入る。ぱっと見で、ここはそれなりに敷居が高い料亭だという事が分かった。
 なんとも肩の凝りそうな所だ。

 相手は、そんなにいい所の人なのだろうか。それどころか、相手はかなり年上の人だったらどうしよう。あぁ、嫌だな。
なんて、またげんなりとしながら、堂々とした出で立ちで店内へと足を踏み入れる父親の後を追った。
 店内に入れば、人のよさそうな笑みを浮かべた店員さんに案内をされる。この料亭の雰囲気からすると仲居さんと呼んだ方がしっくりくるのではないだろうか。
 洋装ではなく和装だから余計に、そう思う。
 長い廊下を無言のままでついて行く。その途中で立派な中庭が見えた。大きな池に、風情溢れる木。あれはきっと桜の木ではないだろうか。
 今は時期が外れていることもあって、残念な事に花弁の一枚だってなっていないのだけれど。春の季節であれば、綺麗な満開の花が咲いていたのだろうか。
 それらを横目に、渡り廊下を渡り切った先にある、上品な襖の前で立ち止まった。そこには気品あふれる金拍が押され、淡い薄紅色の桜が描かれている。
 案内してくれた店員さんが、こちらを振り返って、これまた人の良さそうな笑顔を携えていたのだ。そして、静かな声で「こちらのお席になります」と言って、その襖をすっと開けた。
 私は「ありがとうございます」とだけ言って、父親に続く様に室内へと足を踏み入れた。
 室内はそれなりに広い。大きなテーブルをはさんで椅子が四つ。しかし、今日は三人であるから、一つは使われないだろう。
 そういえば、まだお相手の方は来ていないのだろうか。室内はがらんとしており、誰も居なかったのだ。
 首を傾げていれば、徐に父親が口を開いた。

「どうやら仕事が押している様で、遅れるみたいだな」
「そうですか」
「先に座っていよう。もうすぐ到着するようだしな」

 私と父親は、座席へと腰を下ろした。隣同士で座っていることが、私からすると何となく気まずい。家でさえ、二人っきりで隣同士になって肩を並べることなんて殆どないのだから。
口数が多い人ではないから、余計に。
 気まずい沈黙が流れる中、父親のスマホがぴろりんと鳴った。そのままポケットから取り出して画面を操作する姿を横目で見る。恐らく、今日の相手とやり取りをしているのだろう。
 暫くして、スマホをまたポケットの中へと仕舞い込んだ父親は、私の方を向いた。

「もう着いたそうだ」

 と、言う事は顔を合わせるまで後数分と言った所だろうか。相手はどんな人なのか、気難しい人だったらどうしよう。あぁ、駄目だ。
 はっきりと言えば、緊張しないと言えば嘘になる。だって、そうだろう。会った事も無ければ、相手の情報なんて一切ないのだから。
 婚約者という割に、父親は何の情報も私にくれなかったのだ。せめて名前くらいは、教えてくれても良かったのではないだろうか。
 聞かなかった私も悪いのだけれど。
 膝の上でこぶしを握りしめた。その手の内が、少しだけ汗ばむ。やはり自分は緊張しているのだと、再認識をした。
 ほどなくして襖の向こう側からは、二つの足音が聞こえてくる。遂に来たのか。来てしまったのか。あぁ、どうしよう。
 どうかせめて、優しい人でありますように。そんな風に思った時に、不意に脳裏によぎったのは安室さんの笑った顔だった。
 どうして、こんな時に思い出してしまうのだろう。やはり、まだ安室さんの事が好きだからなのだろうか。想っているからなのだろうか。
 安室さんの様な人だったらいいと、思ってしまうのは、相手に失礼だという事は分かっているのだが、願ってしまう。だって、しょうがないじゃないか。
今でも大好きなのだから。
 下唇を噛んでいれば、襖の前で二つの足音が止まる。向こう側では、何やら話している声が聞こえてきた。
すると、店員さんの「お連れの方がいらっしゃいました」という声の後で、父親が相槌を打てば、失礼します、の声と共に襖が開かれる。
 私は、失礼な事ではあるが、そちらの方へ顔を上げられなかった。
 横に居る父親の「来たか。降谷君」という言葉で、初めて相手の名前を知る。
 相手は“降谷”という名前なのか。下の名前は分からないけれど、きっと後で紹介はしてくれるだろう。

「すみません。遅れました」

 そんな言葉を発した相手の人は、部屋に入って来た。その後ろで店員さんの「ごゆっくり、どうぞ」の声と共に、襖の閉まる音が聞こえる。
 そういえば、相手の声。どこかで聞いたことのある様な声だった。どこでだったっけ。そこで、気が付く。安室さんの声とよく似ているのだ。
 しかし、どうせ彼本人な訳がないのだ。きっと似ているだけなのだろう。名前だって“安室”ではなく“降谷”というらしいのだから。どこまで私は未練が残っているのだろうか。
 ほんの少し、私は俯いた顔のままで自傷気味に笑った。
 すると、隣にいる父親から「何時まで下を向いているんだ」と厳しい声を投げられる。
 どうやら、相手の人は席に座った様だった。それも、私の真正面。
 確かに、ずっと下を向いているのも失礼な話だろう。
 ふっと顔を上げようとした時に、相手の人が父親をなだめる様に口を開いた。

「気にしないでください。きっと初めて会う人間に緊張しているんだと思いますし」

 そう、優しい声色で言うのだ。それが、やはり安室さんと被ってしまって、私の心は痛くなる。
 どうして、そんな。

「えぇっと、初めまして。降谷 零です。ゆっくりでいいので名前を教えてくれませんか?」

 そう、促す様に柔らかな声で言ってくれた。父親とは正反対で、安室さんと似ている、その優し気な声。
 あぁ、駄目だ。だんまりしているのは、やはり彼に失礼だ。そう思って、私は顔を上げる。

「す、すみません……私は……」

 そこまで言って、続きを言うことが出来なかった。だって、目の前に居たのは、安室さんにそっくりだったのだから。
 本人だと言っても良い位に。
 私が驚いて固まっていると、向こうも同じように目を丸くしたまま固まっていた。
 小さく「え、まさか。そんな……」なんて呟いている声が、降谷さんから聞こえてくる。その反応は、まさか。いいや、そんな都合のいい事なんてある訳ないじゃないか。
 別れた恋人が婚約者として、目の前に現れるなんて。そもそもの話で、名前が全く違うじゃないか。彼は“安室 透”で、目の前にいるこの人の名前は“降谷 零”。ほら、全く違う。
 だから、やはり別人なのだ。ただ、気になるのは彼も私の顔を見て驚いている事だった。どうして、そんな反応をされるのだろうか。もしかして、彼も同じように、知人に私とよく似た人が居たのだろうか。
 それならば、納得のできる反応だけれど。事実、どうなのだろう。
 お互いに、そんな驚いた顔のまま固まっていれば、隣に居た父親が怪訝そうな表情を浮かべていた。

「どうかしたのか?」
「い、いえ……」
「なんでも、ないです」

 どちらも絞りだような声で、ようやっと言葉を発した。ぎこちなかったが、自分の名前を名乗ると、降谷さんはまた驚いた表情になる。もしや、知人と名前まで一緒だったのだろうか。
 隣にいる父親が、軽く降谷さんの紹介と、私の紹介を、それぞれにした所で沈黙した。動揺しすぎて何を話せばいいのか、全く分からない。
 世界には似ている人が三人はいるとは言うけれど。まさか、こんなに似ているとは思わないじゃないか。
 さて、どうしよう。
 ちらりと降谷さんの方を盗み見れば、こちらをじっと探る様に見ていた。そこで、ばちっと視線がぶつかる。すると、降谷さんは苦笑いを浮かべたのだ。
 困った。本当に困った。
 どちらも無言になる章素を見て、また父親は怪訝な表情になる。しかし、直ぐにあぁ、と手を叩いた。

「俺がいたら会話もし難いだろう。後は二人でゆっくり話すといい」

 そう言って、父親は席を立ってしまった。
元々は、紹介した後に抜ける予定だったと、そう言うのだ。お見合いではないのだから、ここに居てくれても良かったのではないだろうか。
この時ばっかりは、行かないでくれと思った。普段は気まずいし、一緒に居るのが苦手ではあるけれど、それでも父親だ。
こういう時は心強い。だというのに。
 父親が部屋から出て行くのを、私と降谷さんで見送る事しか出来なかった。引き留める時間なんてくれやしない。そういうところだぞ。
 しかしやはり、お互いに無言である。先ほどの父親と二人っきりの時に訪れた無言の空間よりも気まずい事は確かだ。
 どうしよう。私も降谷さんも、お互いの知人に似ている人間と婚約者になったのだから。いや、彼の方は、本当にそうなのか定かではないのだけれど。
 しかし、見れば見るほど安室さんとよく似ている。ここまで似ているという事は親戚の線もあるのではないだろうか。

「あの、」
「な、なんですか?」
「聞いても、良いですか?」
「どうぞ。何でも聞いてください……俺も、少し聞きたいことがあるんです」
「あ、はい……それは構いません、が」

 どこかぎこちないやり取りの後で、私は降谷さんに聞いた。

「もしかして、よく似た親戚、とかいらっしゃいますか……?」
「……いえ。自分と似た親戚はいませんよ」
「そ、そうですか」

 居ない。と、言う事は、本当ただ似ているだけの人なのだろう。凄く信じられないけれど。
 金に近い茶髪、それに褐色肌にブルーグレーの瞳。そして顔の造詣が驚く程よくて、声まで似ている。だというのに、本人でも無ければ親戚という線もない。
 苗字が違うのだから双子。という訳でもないだろう。
 いや、これもう本人じゃないの? そう思っても仕方ない位に似ているのだ。
 うんうん唸っていると、降谷さんは「俺も聞いてもいいですか?」と言いながら、こちらをじっと見つめてきた。私が頷けば、じゃあと言って口を開く。

「……貴女、もしかして双子の姉妹とかっていますか?」

 驚いた。どうやら降谷さんは、似たような事を疑問に思っていたのだ。残念ながらハズレだ。

「えぇっと……すみません……居ない、です」
「そ、そうですよね」

 そう言って、あははと笑うのだ。私もつられて「そうですよ」と言って笑った。
 ひとしきり笑った後に、お互いに落ち着いた様で、ふうっと息を吐き出す。そしてまた無言の空間になった。
 何だか、まどろっこしい。単刀直入に聞いてしまった方が良い気がしてきた。

「えぇっと、続けてで申し訳ないんですけど」

 そう切り出せば、降谷さんは「どうぞ」と促してくれた。

「つい一週間前に恋人と別れたんですけど。その人と降谷さんが、とても似ているんです……名前は安室 透って言うんですけど」

 知っていますか? そう言った。そして、顔も容姿も、声まで似ているのだから何か関係があると思っていますと、続ける。
 初対面の人にこんな事を言われても困るだろう事は分かっている。しかも初めて会うと言っても、婚約者からこんな事を言われて、良い思いをしないだろうという事も理解している。
 でも、気になってしまったのだから仕方ないじゃないか。無関係だと、一言でも言ってくれれば謝るだけだ。気分を害してしまった、と。
 優しそうな人ではあるけれど、怒られるかもしれない。それでも気になってしまった。降谷さんの返答をただ待っていれば、否定も肯定もしない返答が返ってくる。

「……奇遇ですね。俺も丁度その頃に恋人と別れたんですよね」
「え、あ……そう、なんですか」
「俺は、貴女の言う安室 透という人間ではありませんが……一緒ですね」

 安室さんではないと言う。やはりそうか。じゃあ失礼な質問をしてしまったという事。すみません、と言おうとして口を開いたところで、少しの違和感を覚えた。
 同じ時期に降谷さんも恋人と別れていた。それも気になるが、そこではない。
 彼の“俺は、安室 透という人間ではありません“という言葉が、なんだか引っかかる。どうして俺は、という部分を強調したのだろう。しかも、知っていますか? の問いに安室 透という人間ではありません、という返答は違和感を覚えてしまうのだ。何故だろう。
 普通は、知っていますか? と聞かれたら知りません。と返すものではないのだろうか。あれ?
 首を傾げていれば、降谷さんからくすりと笑う声が聞こえた。そちらの方へと視線を向ければ、その降谷さんの表情に、仕草に、また固まってしまったのだ。
 だって、その表情は、安室さんの笑った時の表情と一緒で、仕草も一緒だったから。
 やっぱり。降谷さんは安室さんなのではないだろうか。そう思ってしまう。

「えっと、降谷、さん……?」
「なんですか?」
「え、っと……その……」

 上手い言葉が見つからずに、言い淀んでいれば降谷さんはまた笑った。

「そういえば」
「……え?」
「俺、料理が趣味なんです」

 そうなんですね。そう口を開きかけた時に、降谷さんはかぶせる様に言葉を続ける。

「それで、がっつりした料理もですけど、実はハムサンドやケーキなどの軽食系も得意なんですよ」

 そう言うのだ。ハムサンドやケーキなどの軽食系。そういえば、安室さんも得意だったっけ。それに、料理が好きだとも言っていた気がする。
 確かに、安室さんの作る料理はどれも美味しかった記憶があった。

「よければ、今度どうですか?」

 あぁ、もしかして。降谷さんは本当に安室さんなのではないだろうか。そして、直接は言うことが出来ないから、こうやってヒントをくれているのではないだろうか。
 少しずつヒントを出してくれるのも安室さんと一緒。だったらもう。

「いいんですか?」
「えぇ、勿論! だって、婚約者なんですから」

 遠慮はしなくていいと笑うのだ。だから私も、笑って「よろしくお願いします」と返せば、降谷さんは満足そうに目元を緩める。
 それからは、今までの無言が嘘だったかのように話が盛り上がった。

「そう言えば、付き合っていた人の事なんですけど……少し意地っ張りで、負けず嫌いな所もあるんですが、そういう所が可愛かったんですよね」

 突然、言われたそんな言葉。
 安室さんだと確信していなければ、きっと思わず顔を顰めていたであろう内容。幾らなんでも、婚約者の前でそんな事を言うのはどうなんだろうかと。
 しかし、残念な事に私はもう確信してしまっていたのだ。だからこそ、降谷さんにそう言われて、急に顔が熱くなった。多分、真っ赤になっているのではないかと思う。
 どうして、急にそんな事を口に出したのか。

「それに……」

 そう言って、次々に話し始めるものだから、私は慌てて降谷さんを止めた。やっぱり、少し意地悪な所も一緒じゃないか。
 きっと、聞いても理由なんて教えてくれないだろうけど、降谷さんは安室さんなんだ。そう思ったら、何だか嬉しくなってしまった。
だって、大好きな人と別れたと思ったら婚約者に昇格したのだから。これが嬉しいと言わずに何と言えばいいのだろうか。
ふっと笑ってから、降谷さんの名前を呼んだ。

「何だ?」
「えっと……その、これからもよろしくお願いします!」
「あぁ。こちらこそ、よろしくお願いします」

 未来のお嫁さん。と微笑みながら言うものだから、折角顔の赤みが引いてきたというのに、また赤くなってしまうじゃないか。
 降谷さんには直ぐにバレてしまっていたようで「真っ赤ですね」と笑われた。誰のせいだと思っているんですかね! そういう所ですよ。

「ふ、降谷さん!」

 赤い顔のままで降谷さんの名前を、怒ったように呼べば「すみません」と笑った顔のままで言う。
 それ絶対に悪いと思ってませんよね。私、知っているんですから。そう頬を膨らませていれば、降谷さんは目を細めた。

「俺の事が嫌いになりました?」

 あぁ、もう。その表情と言葉はずるい。そんなの決まっている。

「……嫌いになんてなる訳ないじゃないですか」
「そうですか?」
「むしろ、貴方の事が大好きです!」

 半ば叫ぶように言い切れば、降谷さんが今度は嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「奇遇ですね。俺もです」

 そんな風に言うものだから、私の怒りもしぼんでいく。元々、本気で怒っていたわけではないけれど。それどころか、頬が緩んでいっているのが分かる。今、私はだらしない表情をしていそうだ。
 すると、ふと降谷さんが突然あっと言う声を漏らした。
 私が首を傾げながら「何ですか? 降谷さん」と聞けば、頬を掻きながらえぇっと、と漏らしながら言葉を続ける。一体、何だろうか?

「あぁ……折角こうやって婚約者になれたんですし……降谷さんって言うのも他人行儀じゃないですか」

 それに敬語も。と言うのだ。真意は分からないけれど、確かに言う通りかもしれない。

「え? まぁ、そうですね」

 そう頷けば、降谷さんは「ですよね」と少し食い気味に来る。いや本当に、どうかしたのだろうか。そして、降谷さんは
「だからな」と言い直してから。

「よければ、下の名前で呼んでくれませんか?」

 なんて言うのだ。あと敬語も無しで。と続ける。

「い、いですけど……下の名前って……」

 確か。そう頭の中で自己紹介して貰った時の事を思い出していれば、不意に降谷さんが口を開いた。

「零」
「……え?」

 急に言われたからか、咄嗟に反応が出来ずに聞き返してしまった。すると、もう一度「零、だ」と繰り返す。
 頭の中で、それを反復する。

――れい。

「零、さん」

 そう声に出していれば、降谷さんは酷く嬉しそうに笑っていた。なに、そのかお。思わず息が詰まりそうになる様な感覚がした。
 今まで一番、優しい顔。ドキドキしてしまうじゃないか。
 そして、これまた嬉しそうな声で「あぁ」と返事をしたのだ。しかし、その後で「さん」もいらないんだけどなぁ、なんて降……零さんは苦笑いを浮かべていた。流石にそこは譲れない。
 急に呼び捨てって言うのは、私にとっては難易度が高いのだ。そう、言えば零さんは仕方ないなという様に笑った。

「そこは追々、慣れてもらうという事で。今はそれでいいか」

 と、納得してくれた様子。良かったと私は胸を撫でおろした。強引に呼び捨てで呼んでもらう様にされるかと思ったから。

「じゃあ、私の事も下の名前で呼んでほしい、な」
「! そうだな」

 そう言って、私の名前を呼んだ。それも呼び捨てな上に、優しい声で。その破壊力たるや。
 何だか恥ずかしくなって、赤くなる顔を隠す様に俯きながら消えそうな声で「はい」と返事をすることしかできなかった。すると、零さんがくすりと笑う声が聞こえたのだ。何だか悔しい気がするのは、絶対に気のせいじゃない。
 赤い顔のままでむすりとすれば、零さんにまた笑われた。でも、大好きで愛しい人とこれから一緒に居れるのだと思ったら、もうそんな些細な事はどうでもいいかな、なんて思えてしまう。
 笑われたって、悔しいと思ってしまったって、いいんだ。だって、零さんとこれからも一緒に過ごせるのだから。
 一つ咳ばらいをしてから零さんに向き直る。

「えぇっと、改めて。不束者ですが、末永くよろしくお願いします!」
「あぁ、こちらこそ! 末永くよろしくお願いします!」
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