01


 あの日から、もう直ぐ一週間。部屋の中は今でも綺麗なまま保っている。衣類だって、全て洗濯をし直してアイロンを掛けた。
 前世から苦手だった料理も手を出し始めて、少しずつ練習はしている。上達具合は遅いけれど、それでも当初よりは少しだけマシになったのだ。ほんの少しだけれど。
 味はそれなりによくなったが、見た目がちょっと……。まぁ、及第点だろう。私にしては頑張っている方だ。前世を含めて、あんなにも料理が出来なかったのだから。
 充実はしているのだと思う。毎日、やる事も覚えなければいけない事も、考えなくてはいけない事も多い。
今となっては、前の様にのんびりしている時間など、あまりないのだ。
 しかしやはり、あの日以降も降谷さんは帰って来なかった。いつ帰ってきても良い様に準備はしてあるのだけれど。
 もしかしてこのまま、ずっと帰ってきてくれないのだろうか。せめて少しでも良いから、彼と話をする機会くらいは欲しい。今までの事を謝る事もしたいのだ。
 とっくに愛想は尽かされているとは思うけれど、それでも顔を合わせて話をしたい。確かに連絡先は知っているけれど、機械越しでも文面越しでも無く直接がいい。
 そうは思っても、降谷さんはもう二度と自分の元へは帰って来てくれないかもしれない。それはそれで悲しいものだ。やはり自業自得なのだけれど。
 もう少し、記憶が戻る前の私がちゃんとしていれば良かった。今となっては、自分の態度についてを後悔しても遅いけれど、こればっかりは思わずにはいられない。
 ため息をつきながら、作り終わった夕飯をラップにかけて冷蔵庫へと仕舞い込んだ。今日も帰っては来てくれないのだろうと、ほんの少しの落胆を見せながら。
 冷蔵庫を閉めて、ため息を一つ吐いた頃。ふと玄関の方から、ガチャリと鍵の開く音が聞こえた。思わず「ん?」という声が漏れる。
 程なくして、今度は扉の開く音と閉まる音が聞こえて来た。これはもしかして。そう思って、急いで玄関の方へと向かう。
 そこにいたのは、やはり。

「ふ、降……零、さん」

 思った通り、降谷さんだった。危うく降谷さんと口に出しそうになって、慌てて言い直したが気が付かれてはいないだろうか。
 私の方をちらりとだけ見て、降谷さんの直ぐに視線を外してしまった様子を見る限り、大丈夫そうではある。
 しかし、その反応が少し心に刺さったのだけれど。ここまでだったか。
 だがここでめげてはいけない。負けるな私。

「お、お帰りなさい」

 振り絞る様に口に出したが、彼の反応はやはり薄いものだ。小さく声を「あぁ」とだけ漏らすだけ。
 流石に面と向かって、その反応は悲しいものがあるが、これも今までの行いの所為なのだから何も言えない。この世の行い気をつけて、なんて言葉の通りである。悲しい。
 そう思っていれば、本当に小さくだが返してくれた。

「……ただいま」

 一瞬、我が耳を疑った。これは幻聴ではない、よね? 違うよね? 降谷さんがただいま、と言ってくれた。ちゃんと返してくれた。
 たったそれだけの事なのに、何故だか嬉しくなってしまった。

「! はい!」

 思わず破顔した顔で返事をすれば、降谷さんは怪訝そうに顔を顰めた。しかし、そんな事は何も気にならない。だって、降谷さんが返事を返してくれたのだから。
 降谷さんは首を傾げながらも、私の横をスッと無言で通り過ぎていく。慌ててその後ろをついて行った。

「今日は、その……ご飯とか、お風呂とか……どうしますか?」
「いや、直ぐに出る」
「そう、ですか」

 簡素な答え。しかし、分かりやすい。
 ただ、その答えにほんの少しの寂しさを覚えた。いいや、めげない。挫けない。これ位で折れる程、弱くはないのだ。これ位で折れる位ならオタクなんて勤まるはずはあるまいよ。色々な戦争に負ける事だってあったのだから。
 それに、降谷さんがそう答える事は、心の何処かで予想は出来ていた。だからこそ、寂しさと一緒に「だろうな」という気持ちもあったのだ。
 降谷さんの後ろを、ちょこちょことついて行きながら、話しかける事は辞めない。例え、鬱陶しいと思われても、だ。

「えぇっと……それなら、着替えとかは必要ですか? もし必要なら用意します」
「……あぁ」

 一瞬だけ、こちらをちらりとだけ見てから直ぐに視線を逸らした。
うーん。降谷さんのその反応は一体どんな意味を含ませているのだろうか。こればっかりは、私には分からないが、あまり待たせるのもダメだろう。早く寝室に行って、降谷さんの着替えを用意しこなければ。

「分かりました。じゃあ、直ぐに用意してきますので、リビングで待っていて下さい」

 降谷さんが小さく返事をしたのを見届けてから、別れて寝室へと足を運ぶ。
 シンプルな紙袋を手に取って、その場で広げた。そして、クローゼットを開けて中から数枚の着替えを取り出して、それを紙袋の中へと丁寧に仕舞っていく。折角、綺麗に洗濯をし直してからアイロンを掛けたのだから、ここで入れる時に失敗しては無駄になってしまう。
 何時もよりも慎重になりながら、丁寧な動作を心掛けた。入れ終わった紙袋の中身を確認すれば、ぱっと見では特に問題はなさそうだ。
 それを手に持って、降谷さんの待つリビングと足早に向かう。リビングに通じる扉を開ければ、降谷さんは何故か座る事も無く立ったままだった。どうかしたのだろうか。
 首を傾げながらも、彼の側に近寄った。

「あの、ふ……零、さん? どうかしたんですか……?」

 恐る恐る声をかければ、ゆっくりとこちらへと顔を向けた。その表情は目を丸くしていて、全身で驚いたと言っているかの様だ。
 何がそんなに、降谷さんを驚かせているのだろうか。と、私は分からず、首を傾げてしまったのだけれど。もしかして、部屋の中を片付けたけど、降谷さんからしたらまだ汚かった、とか? それはまずい。

「この、部屋」

 あぁ、やはりそうか。この部屋について、何か思うと事があったのだろう。
 しかし、こんな所でまた彼のメンタルに負荷をかけるような事をしてしまったのかと思うと、やはり自分で自分を殴りたくなった。
 思わずひゅっという、空気の漏れる声が出てしまう。
 声が裏返ってしまいながら「な、何か駄目な所でも……ありましたか?」と呟いた。

「あの、一応は片付けたんですけど……まだ散らかっていると言うなら、明日にでもやります」

 そこまで言えば、今度は心底信じられないと言うような表情を浮かべていた。何でや。と、思ったけれど、今までの事を思えば当然の反応ではあると思う。
 まだ駄目な所は有るかもしれないけれど、それでも前よりはまだマシになっているのだから。降谷さんに見えない所で、在りし日の惨状を思い返して遠い目になる。
 すると、小さく呟くように降谷さんは声を発した。

「まさか、これ……君が……?」
「え? あ、はい……そう、ですね」

 私がちゃんとお片付けをしました。まぁ、部屋を汚くしたのも私だったのだけれど。
ほんの少し遠い目になった。
 一人でそんな事を思っていれば、私と部屋の中を何度か交互に見ている降谷さんの姿が目に映る。
彼の反応を見ている限りだと、かなり驚いている様子だ。まぁ、そうだよね。そんな反応になってしまうよね。無理もない。
 小さく「そうか」とだけ呟いて、何かを考えている様子を見せた。え、やっぱり何処か駄目だったのだろうか。どうしよう、ちょっと心配になってきた。

「えっと、その……何か、ありますか?」

 気になる所とか。と、恐る恐る聞けば、降谷さんは「いや」と首を横に振った。それは大丈夫、と言う事なのだろうか。それとも、まだ何か気になる所はあるけれど、目を瞑っておこうという事なのだろうか。一体どっちだ。
 色々な意味で心臓に悪い。冷や汗をかきながら降谷さんを見つめれば、彼と視線が交ざる。
 その瞬間、どきりとした。彼に怒られるかと思ったからだ。しかし、それは杞憂だった様で降谷さんは時計をちらりと見るだけで、特に触れる様子はない。

「……もう行く」
「え? あ、すみません。これ、着替えです」

 そう言って、降谷さんへ紙袋を手渡した。彼は無言で受け取ってから、それ以上はこちらを見る事はなく、玄関へと向かって行く。
もう行ってしまうのかと、ほんの少しの残念さと寂しさを覚えた。
 まぁ、そんな反応も仕方ないよね。嫌いな相手とは長い時間、一緒に居たくはないよね。あ、自分で言ってて悲しくなってきた。と、そんな風に心の中で泣きながら、降谷さんを見送る為に後ろを着いて行く。
 いや、だって旦那でもあり推しでもある降谷さんに嫌われる事の辛さは耐えがたいもの。
 玄関の扉に手をかける彼にいってらっしゃいを言う事くらいは許されるだろうか。至って普通の事だと思うし。

 あ、そういえば。

 思い返せば、今まで彼に言った事があっただろうか。うーん、駄目だ。思い出せない。
 これは、もしかして今まで言った事がなかった? 見送りをした事がなかった? 降谷さんは旦那なのに? 思い出せないと言う事は、つまりそう言う事なのだろう。頭が痛い。
 今更。そう思うけれど、そもそも旦那なのだし、今からだって別に見送りの挨拶くらい言ったって良いだろう。

「い、いってらっしゃい。ふ……零さん」

 ほんの少しだけ驚いた様な表情を浮かべていた。

「あ、あぁ。行ってくる」

 どこかギクシャクとしていたし、ぶっきらぼうな言い方だった。
 だとしても。それでもちゃんと返してくれたのだ。その事に何だか嬉しくなってしまう。言葉を返してくれただけで、そう思うのは少し単純かとも思うけど仕方ない。だって、嬉しいものは嬉しいのだから。
 思わず緩む頬のままで「はい!」と私が返せば、また降谷さんは驚いた様に目を丸くしていた。
あれ、そんなに驚く事だったのだろうか。何故なんだ。
 そのまま「じゃあ」とだけ言って、今度こそ降谷さんは仕事へと向かって行った。
 しかし、降谷さんの事を『降谷さん』と言ってしまいそうになるのを何とかしないと。
ちゃんと気を付けていかなければならない。だってこのままでは、いずれ『零さん』ではなく『降谷さん』と言ってしまいそうだ。流石に旦那である降谷さんの事をそうやって呼ぶことは、本来ならある筈がないのだから。
 突然、言い方が変わってしまったら不審に思われるだろう。今のこの状態では余計に。
ちょっとこれは本気で頑張っていかなければならない。

 頑張れ私!
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