04


 朝日で意識が浮上した。少し間抜けな声を漏らしながら起き上がる。ぼーっとする頭のまま、ベッドの上に座りっぱなしでいれば、ふと隣に気配を感じた。あれ? と思いながら、まだ完全には開いておらず、しぱしぱとする目をこすりながら隣へと視線を移す。

「ふ、るや……さん……」

 どうしてここに居るんだろうか? 何故。そう思ったが、直ぐに昨日の事を思い出した。そうだ。そうだった。昨日、降谷さんが帰ってきて、一緒のベッドで寝たんだった。
 そこまで思い出して急激に頭が覚醒していく。忘れていたわけじゃないけれど、寝ぼけた頭では直ぐに理解が出来なかっただけだ。いい訳だけれど。
 固まったまま降谷さんを眺めていれば、小さく身じろぎをした。そして「んっ」という声を漏らす。直ぐに薄っすらと目を開いて、こちらの方へと視線を向けた。

「お、おはようございます」
「……あぁ、おはよう」

 寝起きの掠れた声で、大きな声とは言い難い音量で、そう返してくれた。それが少し色っぽい、だなんて思っていない。思っていないって言ったら思っていない。降谷さんに対して、そんな邪な感情を向けていません。
 緩慢とした動作で起き上がる降谷さんの目は、やはり眠たそうにしていた。

「えぇっと……朝ごはんは食べますか?」

 ちらりと時計を見てから、降谷さんは私の方へ視線を戻して答えた。

「そうだな。食べるよ」
「じゃあ用意してきますね。お時間は大丈夫ですか? 出る時間は……」
「八時には出る」
「分かりました。出来たら声をかけるので、もう少し寝ていても大丈夫ですよ」

 今から用意をして食べ終わった後でも、ゆっくりできる時間はあるだろう。
 降谷さんは私の言葉を聞いて、もう一度ベッドの中へと沈んだ。それを見届けてから「よし」と言って、頭を叩き起こしてベッドから降りる。こそこそと寝室の隅の方へ移動してから、さっと着替えを済ませた。
 顔を洗ってからキッチンへと向かって、冷蔵庫の中身を確認する。有る食材は、あまり多くない。とはいっても、朝の一食ぐらいなら特に問題ないだろう。
 スピンオフだと、降谷さんは結構がっつりめに食べていた様な記憶がある。それが朝だったとしても、だ。それに、美味しそうだったんだよね。降谷さんの手料理は美味しいでしょ。何時かは食べてみたいけれど、無理そうかな。夢のまた夢だろう。
 まぁ、彼に比べたら足元にも及ばないだろうけれど、私は私の出来る範囲で頑張ろう。そう決意して、朝ごはんの用意に取り掛かる事にした。

 結局、日本人らしい朝ごはんにしたのだ。白米に豆腐とわかめの味噌汁。それと焼き鮭にほうれん草のお浸し。後はこの間、漬けてみたカブと白菜ときゅうりの漬物。
 降谷さんからしたら物足りないかもしれないけれど。もしも足らなかったら次の時に増やしてみるとしようか。
 こんなものかと、テーブルに並べてから、時計を見た。丁度いい時間かもしれない。降谷さんを起こすためにもう一度、寝室へと向かう。そろりと寝室の中に入れば、ベッドの中で眠る彼の姿が目に映った。そんな姿が微笑ましくて、ふふっと声が漏れてしまう。すると、その声に目を覚ましたのか、また薄く目を開いた。

「朝ごはんの用意が出来ましたよ。そろそろ起きてくださいな」
「ん……わかった」

 そう言って、目をこすりながら起き上がる降谷さんが幼く見えて、またふふっという声が漏れてしまった。何だ、という視線を向けられたから、私が何でもないと返すと口を横一文字に結んだままで降谷さんは何も言わない。
 すると、もぞもぞと動き始めてベッドから降りる姿があった。そんな降谷さんに一言「先に行ってますね」とだけ声をかけてから寝室を出でリビングへと戻る。
 暫くすると、遅れて降谷さんがキッチンへと来たのだ。その姿は先ほどの様子とは打って変わって、もう何時も通りの降谷さんだった。
 さっぱりとした顔をしているという事は、顔も洗ってきたのだろう。毛先が少し湿っているし。促せば、そのまま椅子へと座った。

 お茶を淹れて持っていくときに、あれ? と降谷さんの後頭部に視線がいく。そこには、可愛らしくもぴょんと跳ねた髪があった。寝ぐせだ。
 降谷さんも寝ぐせが付くんだ。なんて思いながらじっと見つめていれば、その視線に気が付いた降谷さんが振り向いた。

「……何だ?」
「えっと、寝ぐせが」

 そう私が言うと、ばっと勢いよく後頭部を押さえた。そして、歯切れが悪く「あー……直したつもりだったんだけどな」と言うものだから、可愛らしく思えて笑ってしまった。ついうっかり。完全に無意識である。
 すると、笑うなと言わんばかりに、じっとりと睨まれる。怒らせてしまっただろうか。小さく「すみません」と謝れば「いい」と呟いた。

「よければ、後で直しましょうか? 後ろは分かりにくいでしょうし」

 大きなお世話だったかもしれない。言ってしまった後で後悔した。流石に出過ぎた事を、言ったと思う。幾ら降谷さんが柔らかくなったからと言って、そこまでの事を許してくれないだろう。
 急いで「無理にとは言いません」と言えば、少し考えた様子を見せる。

「……いいや、頼む。君の言った通り、後ろは分かりにくいからな」
「え、いいんですか?」
「君が言い出した事だろ」

 嫌か? と眉をしかめながら言うものだから、私は勢いよく首を横に振った。

「そんな事はないです!」
「じゃあ頼む」
「あ、はい……」

 それなら早く食べてしまおう。そう言う降谷さんの声で、呆然としていた私は漸く動き出すことが出来た。そして、降谷さんの前の席へと腰を下ろす。
 昨日と同じように、お互いに手を合わせて『いただきます』と言って箸を動かす。やはり同じように無言だった。気まずいとは思うけれど、ただ昨日よりは感じない。降谷さんの態度が柔らかくなったと思うからなのだろう。
 会話が無かったからだろうか、私も降谷さんも時間がかかることなく食べ終える。食器をシンクに置いて、水につけた。洗うのは、降谷さんが家を出てからでもいいだろう。
 ゆっくりとお茶を飲んでいる降谷さんに向けて声をかける。

「ドライヤー持ってきますね」

 それだけ伝えて、お風呂場へドライヤーを取りに行く。それと濡らしたタオルとブラシも一緒に。
 リビングへ戻ると、部屋に入った瞬間に降谷さんと目が合った。そのまま、ソファーの方へと移動して貰って、後ろに回る。ソファーの方がコンセントに近いから。

「頼む」
「分かりました」

 そう言って、濡れたタオルでね寝ぐせの部分を湿らせてから、ドライヤーの電源を入れた。

「熱かったら言ってくださいね」

 そう一言、声をかけて降谷さんの髪に風を当てて、ブラシを掛けながら丁寧な手つきで寝ぐせを直していく。元々さらさらとした髪だから、そこまで時間はかからなかった。
 綺麗に直った寝ぐせに満足げに笑いながら、降谷さんへ「終わりました」と声をかける。

「悪いな」
「いいえ、私が言った事ですから」

 そう返して、ドライヤーを片付ける。仕舞おうと思って、お風呂場へと行こうとした時に、降谷さんから声を掛けられた。

「なぁ」
「? 何ですか?」

 首を傾げていると、降谷さんは少し歯切れの悪そうに「あー」とか「その」とかを言う。彼にしては珍しい。何か伝えることがあるのは分かるのだけれど……何だろうか。

「なぁ、今日は何か予定はあるのか?」
「え? 予定、ですか……? 〇〇ショッピングモールへ買い物に行く予定です」
「じゃあ、夜は?」

 いよいよ分からない。今までは一度もそんな事を聞かれた事が無かったから余計だ。

「特に出かける予定はありませんけど……どうしてですか?」
「そうか。いや、もしよかったらだが……夕飯でも食べに行かないか?」
「……………………え?」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。え? 降谷さんが誘ってくれた? これは夢だろうか。分からないように手の甲をつねってみれば、痛かった。
 あ、夢じゃないんだ。
 じゃあ本当に降谷さんが夕飯を食べに行く事を誘ってくれたのだろう。突然どうして。頭の中はパニック。いや、だって仕方ないじゃないか。
 固まっていれば、降谷さんは続けてた。

「少し、君と話がしてみたくなったんだ」
「話、ですか……?」

 私が繰り返せば、降谷さんは「あぁ」と言って頷いた。

「知りたくなったんだ。君の事を」

 そう言って「嫌なら……まぁ、無理にとは言わないがな」と付けくわえた。そんな事はない。嫌なわけなんてない。だけど、どうして?

「嫌、という訳ではないんです。ただ急だったので……その驚いてしまって」

 私がそう言えば、そうだよなと降谷さんは苦笑いを浮かべた。え、笑った? 始めて見た。苦笑いだったけど、初めてだ。

「……今まではゆっくり話したこともなかっただろ? 結婚も突然だったし……お互いの事を知る機会もなかった。だから、だ。遅くなったけれど」
「え、っと」

 漸く絞り出せた言葉は「はい」だった。まだ頭は追いついていない。いや、急展開過ぎてどうしたらいいか分からないのだ。しかし降谷さんは、そんな私をいてけぼりにして「決まりだな」と目元を緩めた。そして、時計の方へと視線を向けて立ち上がる。

「もうそろそろ行くよ」
「え、あ、はい」

 まだ追いつかない頭のままで、ジャケットを着て荷物を片手に玄関へと向かう降谷さんの後ろを追った。思考が停止した状態の私は玄関先で、靴を履く姿を見つめるだけになる。
 扉に手をかける降谷さんは、こちらへ視線を向けた。

「時間とかは、また後で連絡する」
「わ、かりました……」

 私の返事を聞いて、降谷さんはふっと表情を緩めた。

「じゃあ、行ってくるよ」
「い、いってらっしゃい。零さん」

 降谷さんは「あぁ」とだけ返事をして家を出て行った。ただ、扉を閉める前に「戸締りはちゃんとしてくれ。最近は物騒だからな」と付け加えて。
 いや、もうね。一度に色々ありすぎて訳が分からなくなった。何が起こったというのだろうか。
ぱたんと閉められた扉を見つめて、とりあえず言われた通りに鍵とチェーンをかける。その後で、玄関先だというのに、その場で顔を押さえながらしゃがみこんだ。

 いや、どうしよう! まってまって! 駄目だ。ちょっと追いつけない。誰かこの状況を説明してくれ! 後生だから。

 ◆

 あの後、暫くは頭の中が真っ白だった。無心のままで食器を洗い終わって、ゆるゆると支度をして街へと出てきたのだ。
 〇〇ショッピングモールに着いて、店を回っていれば、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。そして、お昼時になって、モール内に入っているカフェへと、休憩がてら入ったのだ。
 コーヒーを飲んで、一息をついた頃。頭も大分すっきり出来ていたと思う。そして、降谷さんの事を考えた。
 どうしてなんだ。何故、突然あんな事を言ってきたのだろう。昨日だって、態度が柔らかかったし、前の様な冷たい視線でも無かった。何か私がしたのとでも言うのだろうか。答えは否。何もしてないない。しいて言うなら、記憶が戻って以降は生活態度の改善をしたくらいだ。
 もしかして、それだけで? だが、無理やり結婚させられたのではなかっただろうか。それだけで、私の事が嫌いになる理由は十分すぎる。むしろ恨まれていても、なんら不思議ではない。
 しかし、思い返すと生活態度の改善位しか思い浮かばないのだ。それ以外だと、後はお弁当を作った位か。え、それだけで? いいや、あの降谷さんだよ? お弁当がきっかけなら、あまりにも単純すぎないだろうか。
 だって、好感度はマイナスだったはずだ。……うーん。考えても考えても思いつかない。

 まぁ、後で聞いてみるとしよう。これから降谷さんと、夜にご飯を食べに行くのだから。その時にでも聞けばいいだろう。よし。分からなければ、直接聞けばいいんだ。こうやって一人で悩んでいたって仕方がない。
 もう少しモール内を見てから、一度家に帰ろうかな。そう思って、カフェを後にした。
 いくつかのお店を見て回っていた頃。もうそろそろ時間かなと思って、腕時計を確認した。その時だった――。
 ドォン! という大きな爆発音と、建物全体の振動。かなり揺れが大きくて、その場でよろけてしまった。周りの人たちの悲鳴も聞こえる。
 一体何なんだ。もしかして……まさか。そう嫌な予感がした。こういう時の勘って当たってしまうものなんだ。ありがたくはないのだけれど。すると、アナウンスがモール内に響いた。

『八階のレストランで火災が起きました。指示に従って、落ち着いて非難をしてください』

 やっぱり。どこか冷静な頭で、そう思った。今までは被害が無かったから忘れていたけれど、ここは『名探偵コナン』の世界で、このモールは米花町にある。つまりはそういう事なのだ。
 阿鼻叫喚となったモール内は騒然としている。他の人達は、もはやパニックだ。当たり前の事だろう。
 それでも係の人たちに誘導されて、外へと連れ出される。私は運が良かったのか、それまでは特に怪我をすることもなかった。
 外に出て、燃え盛るモールの建物を見つめていれば、隣で話す人たちの声が聞こえてくる。どうやら、八階のレストランでガス漏れを起こして、それが爆発してしまったらしい。幸いにも、八階は改装中だった様で被害は少なかった、とのことだ。あぁ、それは良かった。
 ほっと胸を撫でおろしていれば、ふとスマホが鳴っている事に気か付く。取り出して画面を見れば、非通知。誰だろう? と思ったが、この番号を知っているのは降谷さんだけだ。だったら、彼なのだろう。
 通話ボタンを押して、耳に当てると向こうから焦った様な声が聞こえてきた。

『っ大丈夫か……?!』
「え、あ……はい。大丈夫です」
『良かった……君が行っているショッピングモールで火災があったから……無事ならいいんだ』

 あれ? でもどうして降谷さんは知っているのだろうか。

「運よく何も無かったです。怪我もしてません……けど、どうしてわかったんですか?」
『いや……丁度、仕事で近くに居たからな』

 成程。そういう事だったのか。それなら、知っていることも納得だ。

「そうだったんですね」
『あぁ……少し抜けてそっちに行く』
「え? 悪いですよ……お仕事中なんですよね?」

 怪我も無かったのだから大丈夫だと言っても、降谷さんは「いや」と言うのだ。

『妻が巻き込まれたんだ。それ位はいいだろう』

 それに、もう向かってる最中だ。なんて言うものだから、きっと止めても無駄なんだろう。心配してくれて嬉しい反面、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

「あの、すみません……」

 私が、そう返した時だった。後ろの方から、女の人の叫び声が聞こえてきたのだ。

「娘が居ないんです……! 途中ではぐれて……!」

 泣き崩れながら、そう言う女の人。もしかして、まだあの中に? 信じられない気持ちのまま建物の方を見た。
 どうしよう。気の毒に思うけれど、私なんかがでしゃばる事ではない。救助隊が来るまで待つしかないのだ。だって、私はただの一般人。何もできるはずがない。
 無言になった私の名前を、心配そうに降谷さんが呼ぶ。それを聞いて、本当にそれでいいのだろうか? と頭の中がいっぱいになった。
 ここで動かなくても、きっと誰にも責められない。
 でも、見捨てて降谷さんに胸を張って顔を合わせることが出来るだろうか。どうやら私には出来そうにもない。
 折角、もう一度もらえた命。どうして記憶が戻ったのかもわからないけれど、二回も人生を歩めたのだから、少し位は頑張ってもいいのではないだろうか。降谷さんと歩み寄れることが出来てきたのになぁ。少し残念だけれど、無事に生還できる可能性だってある。だから私は。

「……零さん」
『なんだ?』
「子供が取り残されているみたいなんです。だからわたし、」
『? ……まさか!』

 電話の向こうで、降谷さんが焦った様な声を出した。そして『変な考えはやめろ』と、そう言うのだ。

「……いいえ。助けられるかもしれない命があるんですから、見殺しになんて出来ません」
『だからと言って、一般人である君が行く必要がどこにあるんだ 危険すぎる!』

 降谷さんの言う事はもっともだ。本来なら、私が行く必要なんてない。でも。でもね。こればっかりは、いくら降谷さんに言われても譲れない。

「そうですね。でも、ごめんなさい」

 そう言って、まだ何かを言っている降谷さんを無視して通話を切った。そして、その母親の元へと近寄って肩に手を乗せる。

「大丈夫です。私が助けますから」
「ほ、本当ですか……?」
「えぇ! 何処のあたりではぐれたんですか?」
「よ、四階です」
「分かりました」

 まだ驚いている母親に荷物を預けて、建物の中へと走りながら飛び込んだ。えぇい、ままよ! 昔、習った火災時の決まり事なんて、今この時だけは忘れた!


 建物の中へ飛び込めば、まだ下の階には火が回っていない様だった。しかし、それも何時まで持つかは分からない。早くなしければ。
 階段を使って、二階、三階を抜けて四階へとたどり着いた。しかし、四階までは火が回っていたようで、かなり熱い。そうは思っても、早くしなければ子供が危ないし、自分だって危ないのだ。別に死にたいわけではないのだから。
 声を出しながら火を避けてフロアの中を探す。すると、小さな鳴き声が聞こえてきた。その声を頼りに近付いて行けば、うずくまっている小さな女の子を見つける。直ぐにあの子だと分かった。
 ゆっくり近づいて、女の子へと話しかける。

「大丈夫? 助けに来たから、もう安心してね」

 ぐしゃぐしゃな顔でうんと頷く女の子に、安心させるように笑う。

「よく頑張ったね。もう大丈夫だから」

 そう言えば、またうんと女子は頷いた。

「さ、ママが待ってるよ。お姉ちゃんと一緒にお外に行こうね」

 声をかけてから、女の子を抱きかかえて立ち上がる。ヒールの無い靴を履いてきていて良かった。
 女の子にかからないように気を付けながら、火の中を走る。その途中で、地面の一部が崩壊した。これは、いよいよやばいかもしれない。
 崩壊したせいで、下の階へと火が回ってしまったのだ。階段は問題ないとしても、入り口が塞がれたら元も子もない。
 急いで階段へと走り、足早に駆け降りる。問題なく一階へとたどり着くことが出来たのだけれど、さっきの崩落は一階までぶち抜いていたようで、火が回ってしまっていた。
 この中を走り抜けることは出来そうだけれど、少しのやけどは覚悟しなければいけない。意を決して、広い一階のフロアを走った。
 半分くらいまで行った時に、聞きなれた声がする。

「れ、零さん……?」
「大丈夫か……

 私の方へと近づいて、肩を掴まれる。

「どうしてここに居るんですか……?」
「君が心配だったからだ! どうしてこんな……! いいや、今は先にここから出よう」

 そう言って、私の背中に居る女の子を降谷さんが受け取って抱えた。開いた手で私の手をしっかりとつかむ。

「もう少し頑張れるか?」
「は、はい」

 じゃあ行くぞと言って、私の手を引きながら走り出す。足が速くてついて行くのに必死だったけれど、それでも先導してくれる降谷さんのおかげで、出口までは問題なくたどり着くことが出来た。
 建物から出ると、母親が駆け寄ってきて降谷さんは女の子を地面に降ろす。すると、母親の元へ駆け寄って行った女の子を泣きながら抱きしめていた。
あぁ、良かった。心からほっとしながら、その姿を少し離れた所で眺めていた。

「君も早くこっちへ。建物から離れるんだ」

 そう促されて、降谷さんの方へ足を踏み出そうとした瞬間だった。上から爆発音が聞こえて、見上げる。すると、上からはその衝撃で瓦礫が落ちてくるのが見えた。それも私の丁度、真上。

「……え?」

 突然の出来事で、その場から動くことが出来ずにいれば、降谷さんの焦った様な切羽詰まった様な声で私の名前を呼ぶが耳に届いた。
 ゆっくりと降谷さんの方を向いて、

「れ、零さ……」

 そう呟いた私は、それ以上の記憶がぷっつりとなくなった。視界が真っ暗になって、意識が飛んでしまったのだろう。
 ただ、最後に見たのは今までに見た事が無い位に焦った降谷さんの顔だけだった。

 ◆

 ふわりと意識が浮上する。真っ先に視界に入って来たのは、真っ白い天井。それに、降谷さんの顔だった。あれ、どうして?

「れ、い……さん……?」

 私が降谷さんを呼べば、震える声で私の名前を呟いた。それは酷く安心した様な表情だ。

「っよかった……気が付いたのか」

 何度も良かったと呟く降谷さん。私は身体を起こそうとした。だが、それは体中に走る激痛によって叶わない。一センチも上がらない身体は、そのままベッドへとリターンする。
 すると、降谷さんは「無理をしなくていい」と言って、やんわりと私が体を起こすのを止めた。
 起きたばかりで少しの混乱を起こしながら、降谷さんに「ここはどこですか?」と聞くと「病院だ」と返される。

「君は崩落した瓦礫の下敷きになったんだ。だが、運よく骨折と打撲。それに切り傷程度で済んだんだよ。」

 命に別状はない。という事なんだろうか。そうは言っても満身創痍なのだけれど。ただ、下敷きになったのに怪我だけで済んだのは、確かに運が良かったのかもしれない。
 乾いた笑いを浮かべていると、目の座った降谷さんが目に入った。かなり怒っている様子だ。

「……どうして戻った」
「え? あ……お、女の子を助けなきゃ、と思って……」
「それで、もしもの事があったらどうする? 今回は生きていたが、死んでいたかもしれないんだぞ?」

 だからと言って、あのまま見なかったふりを出来るわけが無かったのだ。確かに降谷さんの言う事はもっともだとは思う。けれど。
 そう思っていたのが伝わったのか、更に目つきを鋭くした。

「君はだたの一般人だ! どうして救助隊を待たなかった! 本当に危ない事だったんだぞ?」
「す、すみません……」
「分かっているのか? 君の行った事は、本当に危ない事だったんだぞ……」

 それに。と降谷さんは続けた。その声は、震えていて私は何も言えなくなる。

「それで君が……死んでしまったら……俺は、」
「零さん……すみません。ごめんなさい……心配を、してくれたんですか……?」

 俯いたまま、降谷さんは「当たり前だろう」と声を荒げた。

「目の前で君が……生きた心地なんてしなかった。病院で眠っている君を見て、目が覚めなかったらと思ったら……」

 最後の方は弱く、消えていった。
 そこで降谷さんが、凄く心配してくれていたのだろうという事が分かった。それと同時に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 もう一度「すみません」と言えば、何も言わずに無言になる降谷さん。これはかなり怒らせてしまっているのだろうという事も分かった。
 ただ、どうしてそんなに心配してくれたのかが分からない。だって、嫌いなんじゃ……? もしかして……いいや、分からない。
 頭を抱えていると、降谷さんは「なぁ」と力のない声で言葉を発した。私が「なんですか?」と返せば、一瞬だけ間をおいてから口を開く。

「……もう、こんな事はやめてくれ」
「え?」
「危ない事はしないでくれ……」

 それはまるで懇願するかのように、降谷さんは言った。声も、震えている。

「頼むから」
「零さん……」
「これ以上、俺は失いたくないんだよ」

 そこで、私ははっとする。そうだ。降谷さんの大切だった人たちはもういない。彼は今まで色々な人たちを失ってきたのだ。
 だから頼む。ともう一度、私に言う。胸がぎゅっとなって、何だか私の方が泣きそうになってしまった。
 でも、私は降谷さんにとっては、その大切な任県に入っているのだろうか。そこに入れてもらえるような事は一切していないのに。一体どうして?

「でも、あの……私は零さんに嫌われていると思っていたんですけど……だから、どうしても分からないんです。どうして、そんな風に言ってくれるんですか?」

 思ってくれるんですか? と、今まで疑問に思っていたことを伝える。すると、降谷さんはぽつりぽつりと、ゆっくり話し始めた。

「……最初は君が行っていた通り嫌いだったよ」

 そんな言葉は、私の胸にぐさりと刺さった。これは痛い。知っていたけど、直接言われると辛いものがある。

「でも、君は途中で変わった。何故だかは分からないけれど、生活習慣がまともになった」

 あぁ、記憶が戻った後からは気を付けていましたからね。自分自身でも酷いと思った。あれは。

「それで、弁当を渡してくれただろ……? 不格好な見た目だったけど、美味しかった」

 あれ、悪くなかったって言っていたから、及第点だと思っていたけど、違ったのか。どうしよう。それは嬉しい。

「何だろうな……暖かかったって言えばいいんだろうか。俺の為に考えて作ってくれた料理は、美味しかったんだ」

 それはそれで照れてしまう。実際は、降谷さんの事を思っていたけど、言われると……少し、ね。

「その後、君と夕飯を食べた時もそうだ。あれも悪くないと言ったが、美味しかったよ。久しぶりに温かい手料理を食べた」

 それも、自分の為に作ってくれたものを。と、降谷さんは続けた。ふっと表情を緩めて、降谷さんは笑う。

「何だろうな……そうしたら、何だか君の事を知りたくなったんだ。今まで誤解していたのかもしれない、と。そう思ったんだ」

 だから話がしたくなったのだと、降谷さんは言った。だから、急に誘われたのか。何となく納得した様な気がする。

 成程。と、一人で頷いていれば、降谷さんは「それに」と言う。まだ何かあったのだろうか。

「君、一緒に寝た日に頭を撫でていただろう」
「え、あ……」

 バレていたのか。思わず「すみませんでした」と言えば「怒っているわけじゃない」と返される。

「その手つきが優しくて、何だか泣きそうになったのを覚えているよ」
「…………え?」
「それに、君の声も優しくて……少し疲れていた心にじんわりと広がったんだ」

 だから、と言うのだ。そうして顔を上げた降谷さんの顔が、何となく泣きそうに歪められていた。
 単純だろ? そう言って降谷さんは笑う。そして、まだよくは分からないけれど、少なからず引かれてはいるよ。と、言うのだ。失うのが怖いと思うほどには、と。
 なんだろう。分からないけれど、何故だか涙が流れた。嫌われていなかったから? 心配をしてくれていたから? 降谷さんの大切なものの中に入れてもらえてたから? 分からない。でも、嬉しい。その気持ちだけは確かに分かった。

「だから、頼むから……もう無茶はしないでくれ……君を失う事になったら、おれは」
「ごめんんさい……! もう、もう……無茶は、しません……! 零さんを悲しませる様な事は、しません、から」

 そう、私が言えば、降谷さんは色々な感情が織り交ざった様な、何とも言えない表情で笑った。そして「約束だからな」と言うのだ。だから私は力強く「はいっ」と言いながら頷く。
 すると、降谷さんが今度は笑ってくれた。そして、じゃあと小指を差し出す。そして、たった一言「指切り」と言った。
 うまく動かせないでいれば、ベットの上に投げられている私の手の小指に絡ませる。そして、私も降谷さんも馴染みのある歌を歌って、最後に「指切った」と言って離れた。

「次は許さないからな」
「はい! もうしません。零さんが泣いてしまうので……」
「……別に泣いていない」

 不機嫌そうに目を細めた降谷さん。少し前なら、怒らせてしまったのだと、びくびくしていたけれど今は違う。別にそんなに怒っているわけではなさそうだっていう事が分かってしまうから。
 だって、ほんのりと頬が赤いんだもの。


「そうだ。君が退院して元の生活に戻ったら……落ち着いた頃にどこかに出かけようか」
「え?」
「夕飯を食べに行く約束も果たせていないしな」

 そう言えばそうだった。どうだ? と聞く降谷さんに「いいですね。行きたいです」と答えれば、少年の様な笑顔を浮かべた。それは、私が前世でよく見ていた降谷さんの笑顔とは少し違って見えたのだ。原作やスピンオフで書かれていた降谷さんの笑顔も、とても素敵だった。けれど、今目の前にいる零さんの笑顔はもっと素敵に思えた。
 何でかは分からないけれど。でも何となく分かる。
 ふふっと笑っていると、零さんは「そうだ」と手を叩く。

「折角なら、花見にもいかないか?」
「お花見、ですか?」
「あぁ! もう少しで桜の季節になるしな」

 それはとてもすてきだと思う。零さんとお花見に行けるのは、とても嬉しい。凄く楽しみだ。
「……まぁ、嫌なら無理にとは言わないが」

 そう、頬を掻きながら言うものだから、私の頬が緩んでしまう。
「嫌じゃないですよ! 喜んで!」
「!それなら早く退院できる様にならないとな」
「そうですね……頑張ります!」
「でも、無理はしないでくれ」
「もちろんです!」

 そう言って、笑いあった私と降谷さんの表情は、今までのどれよりも自然なものだったと思う。それでいて、幸せそうだったのかもしれない。
 これからは、ちゃんとした普通の夫婦になれたらいいな。なんて思ってしまうのだ。でもきっと、なれると思う。私が、零さんの嫌われる様な事をしない限りは、普通の夫婦にきっとなれる。

 冷たい冬が終わって、温かい春が来る。穏やかな風が、病室の窓から流れ込んで二人を包む。

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