03



 あの日から、私は考えた。
 もしかして、本当に少しずつだけれど降谷さんからの対応が柔らかくなってきているのだろうか。いや、しかし。最低限の挨拶を今までしていたのか? と聞かれると、答えは否である。今まで、とは記憶が戻る前の事。
 そもそも、会話自体していただろうか。微妙にしていたな、そういえば。うーん。
 いつからだっただろうか。用意した料理も手を付けなくなった。それだって、栄養のバランスなんて考えていなくて、当時の私が食べたいものばかりだったと思う。多分、もういい。と言う事だったのだろう。
 同じくらいから、家に帰ってくる頻度もぐんと減った。それに、当初の頃は比較的に良かった彼の、私への対応が冷たくなったのだ。
 とは言っても、最初からそこまで印象がよくはなかったと思うけれど。多分、私との結婚は無理やりだったのだろうから。
 詳しくは知らないけれど、恐らくだが私の父親が降谷さんの上司にあたるのではないかと思う。
記憶が戻った今、父親の言動を思い返すとどことなく思い当たる節がある。これは、最初から記憶があったら気がつかなかったかもしれないけれど。途中で戻ったからこそ、見えてくるものがあると言うもの。
 それに、初めて顔を合わせた時から安室 透のような穏やかさなんてなかった。いや、笑ってはいたけど、目が笑っていなかったと言えばいいのだろうか。バーボン、とはまた違った怖さがあった様な気がする。
 とどのつまり、最初から私に対して好感なんて持っていなかったのではないだろうか。上司に言われたから、仕方なく。
 それで、いざ一緒に暮らしてみれば、あの有様。そりゃ降谷さんの反応も当たり前のことだろう。対応が冷たくなるのも、帰ってこなくなる事も、仕方のない事だ。あまりにも自業自得すぎて何も言えない。むしろ降谷さんに土下座をしたい気持ちが強くなる。

 だと言うのに、お弁当は受け取ってくれたのだ。一体どういう事なんだろう。どうして受け取ってくれたんだろう。
 降谷さんの為に作ったものだから、受け取ってくれた事は嬉しい。しかし、本当に大丈夫だったのだろうか。後で何か怒られる、なんて事も有り得る。とは言っても、今日この日まで何も音沙汰ないのだけれど。
 うーん。降谷さんの考えている事が全く見えない。それが少し怖いと思ってしまうのは、仕方ない事だろう。例え、仲睦まじかったとしても、彼の考えが読めるかと言えば、否だけど。
 ため息を吐きながら、夕飯の支度をしていた時だった。ピロリンという音が聞こえてきたのだ。あぁ、なるほど。そう思ってポケットに手を突っ込む。これはスマホの着信音だ。
 画面を見て、驚きで目を見開いた。その後すぐにその場で崩れ落ちそうになる。キッチンの淵に手を掛けたおかげで、後少しの所で崩れ落ちる事はしなかったけれど。
 だってそこには、簡素ではあるけれど、しっかりと書いてあったのだ。

『今日、帰る』

 たったそれだけだったけれど、間違いなく降谷さんからのメッセージ。
え? 本当に? 信じられない気持ちが強くて、もう一度スマホの画面を覗く。見間違いかとも思ったが、全くそんな事はなかった。
 やはり、そこに表示されていたのは降谷さんからのメッセージで間違いない。
え、何で?
 いや『今日、帰る』と書いてあるのだから、帰宅する事を告げていると言うことはわかるのだ。しかし、こう言うことではなくて。
 まさかだって、こんな事でメッセージをくれるなんて思っていなかったじゃないか。え、本当に? 送り間違いではなく? いや、送り間違えだったとすれば、色々な意味で問題なのだけれど。誰に送ろうとしてたのよ、と言う話になってきてしまう。ともすれば、やはり宛先に間違いが無いはずだ。
いや、何で突然……そんな。死ぬほどびっくりした。
 返事を返さないのもあれだから、と震える指先を動かして文字を打ち込んでいく。やはり、こちらの返事も簡単なものになってしまったけれど。一応、夕飯も食べるかと聞けば、いるとの事。
 どうしよう。そう思いながら、しばらくの間はその場から動く事が出来なかった。

 ◆

「よし! こんなものかな」

 降谷さんが帰ってきて、夕飯を食べると言うので、いつもよりも気合が入ってしまった。ちょっと焦げてしまったところもあるけれど、まぁ及第点だろう。全部が全部、と言う訳では無いのだから。
 さて。もういい時間になってきた。あとどのくらいで降谷さんは帰ってくるのだろうか。
 いつになくそわそわとしてしまって、心が落ち着かない。だって、仕方ないじゃないか。誰でも無い降谷さんが帰ってきて、夕飯を食べると言ったのだから。私にとっては、それだけでそわそわとしてしまうのだ。
 椅子から立ったり座ったり、部屋の中を行ったり来たり。そんな風にじっとしていられず、つい身体を動かしてしまう。
 もうどれだけの時間、そうしていたのだろうか。ちょっと私には分からない。そんな時だった。玄関の扉が開く音が聞こえてきたのだ。ぱっと顔を上げて、ぱたぱたと足音を立てながら玄関の方へと向かう。
 そこにいたのは、やはり。

「ふ、零さん!」

 そう、降谷さんだった。
少し声が大きくなってしまったからなのか、それとも私が出迎えたからなのか分からないが、彼は僅かに目を見開いている。とどのつまり、驚いているのだ。しかしながら、そんな表情もかっこいいのだけれど。

「あ、あぁ」

 少し引き気味に、小さく返事を返してくれた様だ。やっぱり勢いが良すぎただろうか。反省しよう。そんな風に思いながら降谷さんの、どこか疲弊の色が見える顔を見て、何とも言えない気持ちになる。
 どんな仕事をしてきたのか。それがどれほど危険だったのか、大変だったのかはどうしたって私には分からない。幾ら前世の記憶が戻って、ある程度の事は把握できているとはいえ、それでも知らないことの方が多いのだ。
 だから私は、降谷さんに対して口を開いた。

「お帰りなさい。お仕事、お疲れ様でした」

 無事に帰ってきてくれて良かった。忙しいのはわかっているけれど、それでも何事もなく帰ってきてれた事が嬉しい。顔を見る事が出来て安心した。
 そう伝えれば、降谷さんはひどく驚いた表情になった後に、私から顔を背ける。しかし、それは一瞬だけだった。直ぐにまたこちらの方へと視線を向けて、少しだけ表情を緩める。
 それは初めてかもしれない。何時もは怖い顔や、張り詰めた表情ばかりだったから。何だか新鮮に見えてしまう。いやだって、そんなの仕方ないじゃないか。
呆けながら降谷さんの顔を見ていれば、そのまま眼を細めた。

「ただいま」

 それは、今までよりも少しだけ柔らかい声だった。そんな降谷さんに胸がきゅんとなって、ほんのりと頬が熱を帯びた様な気がした。推しからの供給で嬉しいからなのだろうか。それとも……?
 そのまま固まっている私に、降谷さんは怪訝そうに首を傾げる。そんな彼の様子を見て私ははっとなった。おっと、いけない。
 誤魔化す様に「そういえば!」と、少し裏返りそうになりながら、大きな声をあげた。少し大きすぎただろうか。

「夕飯! 用意してあります」
「え? あ、あぁ……そうか、悪いな」

 勢いに押されたのか、降谷さんは少し引き気味に返事を返した。なんか、すみません。ちょっと勢いが強かったかもしれない。

「それで、お風呂の用意もしてあるんですけど……どうしましょうか……? 先にお夕飯にしますか? それともお風呂にしますか?」

 あ、これ新婚っぽい。そこに『それとも……わ・た・し?』がないのは、そういう雰囲気なんて私と降谷さんの間になんて無いから。あったとしても絶対にやりたくないのだけれど。ごめん、無理。
 まぁ、独特の甘い空気というものは皆無ではあるが、やりとりだけで言うならそれっぽいのだ。いや、一応は新婚なんだけども。結婚をしてまだ一年未満だし。
 すると、また目を丸くした降谷さんは、数秒ほど考えた様子を見せた後で「じゃあ」と、口を開いた。

「先に風呂に入るよ」
「そうですか? 分かりました。それなら着替えをお持ちしますか?」
「いや……いい。それは自分で取りに行くから大丈夫だ」

 そう言って、そのまま降谷さんは寝室へと消えていった。暫くしてから、部屋から出てきた彼はお風呂場へと向かって行く。その後ろ姿を見届けた後で私もキッチンへと向かった。
 さて。降谷さんが出てくる前に冷めてしまった料理を温め直しておこう。出てきて直ぐに食べれる様に、整えておいた方がいい。
 そう思って、緊張する手を押し込めながら準備を進めていった。もう直ぐで終わりそう、という所で降谷さんは戻ってきた様だ。ほんのりと血色が良くなった顔を覗かせた。まだ少し濡れている髪をそのままに。
 その姿が、少しだけ色っぽく見えたのは気のせいだ。きっと気のせい。降谷さんにそんな邪な気持ちなんて抱いてません。神に誓えるかって聞かれれば……無理なんだけれど。
 いいや、そんなことよりも、だ。

「え、えぇっと……おかえりなさい」
「……あぁ」
「お湯加減はどうでしたか? 少し熱かった、ですかね?」

 勝手なイメージだと、降谷さんはぬるめより熱い方が好きだと思っていたから、そうしたのだ。しかし、熱すぎたかもしれない。

「丁度良かったよ」
「それなら良かったです」

 それは杞憂だった様だ。ほっとして緩む顔のままで言えば、降谷さんはじっとこちらを見ていた。あれ、もしかして私の緩んだ顔がやばかった? 見るに堪えないものだったのだろうか?
なんか……その、すみません……。そう、一気に申し訳ない気持ちになった。
 反射的に謝れば、降谷さんは怪訝そうな表情を浮かべている。しかし、直ぐに「あぁ、いや」と頷いてから口を開いた。

「こちらこそ不躾に見つめてすまなかった」

 一体、何だったのだろうか。やはり私の表情が駄目だったのだろうか。疑問は残るが、このままでは夕飯の時間が遅くなってしまうし、料理も冷めてしまう。

「え、えぇっと……夕ご飯の用意はしてありますのでよければ」

 促せば降谷さんは頷いてから椅子に座った。それを見届けてから、私も彼の前にあたる椅子へと腰を下ろす。テーブルをはさんで降谷さんと向き合う形になった。
 思い返せば、こうやって降谷さんと向き合って夕飯を食べる事は随分と久しぶりだ。そもそも、三〇分以上も家に居ること自体が久しぶりなのだけれど。何か月ぶりだったっけ?
 わずかな緊張を覚えたまま、胸の前ですっと手を合わせる。同じ動作を降谷さんもしている姿が目に映った。
 そして、どちらともなく、

『いただきます』

 そう、口に出した。合わせたわけではなかったけれど、綺麗に声が重なって何だか可笑しくなってしまう。
 小さくふふっという声が漏れて、降谷さんが不思議そうな顔で私の方を見ていた。

「どうかしたのか?」
「あ、いえ……何でもないです」

 私がそう言えば、彼はまだ不思議そうにしてはいたが「そうか?」とだけ言って、それ以上は特に追及することは無かった。
 お互いに無言のまま、もくもくと料理を食べ進めている。はっきり言いおう。無言である、この空気が辛い。とても気まずい。
 降谷さんを盗み見た感じでは、箸が止まっていない。だとすれば、食べられない程まずい訳ではなさそうだ。多分。何も言わないから、実際の所は分からないのだけれど。どうしよう。
 無理して食べているわけではないよね……? もしも、まずいのであれば、はっきり言ってくれても全然いいのだけど……。むしろ降谷さんに無理に食べてもらう事の方が居た堪れない。申し訳ない気持ちでいっぱいになって来た。え、しんど。
 耐えきれなくて、思わず「あの!」と声を荒げてしまった。すると、降谷さんは箸を止めて私の方へと視線を向ける。

「……どうかしたのか?」
「えっと、その……美味しく、ないですか……? ご飯……」

 私の言葉に、降谷さんは目を瞬かせた。そして少しの間。返答に困らせる事を聞いてしまったのだろうか。いや、そうだよね。面と向かって「まずい」だなんて言いにくい。しまった。やらかしたな。そう思っていれば、降谷さんは小さく「いや」と言葉を漏らした。

「……悪くは無いよ」
「やっぱり、まずいですよ……え?」

 聞き間違いだろうか。思わずぽかんとした顔で降谷さんを見つめていれば、ため息交じりに「だから」と続けた。

「別に悪くはない」

 これ以上は話さない。と、言わんばかりに口をつぐんでしまった。少しの信じられなさを含んだ視線を向ける。しかし、聞き間違いでも無ければ、嘘を言っている様にも見えない。
 美味しい。とまではいかなくても悪かった訳でもなさそうだ。あぁ、良かった。まずかった、という訳でなければいい。その事に私は、つい安堵の息を漏らしてしまったのだ。

「それは……よかった、です。ただ見栄えは、もう少し頑張らないと、何ですけどね」

 乾いた笑いが出てしまう。すると降谷さんは「まぁ」と続ける。あ、降谷さんも、そう思っていたんですね。間違いではないのでいいんですけど。

「だが。それは追々、練習をしていけばいい」

 違うか? と、降谷さんはほんの少しだけ表情を柔らかくした。励ましてくれているのだろうか。まさか降谷さんが……? それは、ちょっと……いいや、かなり嬉しい。
 返事が無い私を、じっと見つめる。緩む頬のままで「はい……っ」と答えれば、満足したように降谷さんは視線を外した。そして、また料理へと箸を伸ばそうとして、ぴたりと止める。今度は一体なんだろう?

「そういえば」
「? 何ですか?」
「この間、弁当を渡してくれただろ」

 あのお弁当ことだ。それも猫ちゃんの描かれたお弁当箱に詰めたもの。もしかして、あのお弁当で何か思う所があったのだろうか。渡しては駄目だったか。それとも、あっちの方は口に合わなかったのだろうか。
 嫌な方でどきどきとしながら、降谷さんの方を見つめた。なんて言われるのだろう。あまりにも怖すぎる。どうしよう。そう思いながら、降谷さんの言葉を待った。

「……あっちも悪くなかったよ」
「…………え?」

 少し不格好ではあったけどな。降谷さんは、そう付け加えてからまた箸を進めた。
 これはもしかして、分かりにくいけれど褒めてくれているのだろうか。見た目については、あれかもしれないけれど。それでも、悪いとは言っていないのだから良いのだ。
 嬉しくて、彼に「ありがとうございます」と言えば、それに返事を口に出す事はしなかった。その代わりに、視線で返してくれたように見える。
 嬉しくなりながら、私も止めていた箸を動かし始めた。だって、これが嬉しくない訳が無いじゃないか。
 お互いに食べ終わって、片付けも済んだ頃。不意に降谷さんに「なぁ」と話しかけられた。私が何ですか? と首を傾げていると、じっとこちらを探る様に見つめている。一体、なんだろう。何か不手際でもあったのだろうか?
 しかし、その不安は杞憂だった様だ。

「どうして急に料理を始めたんだ?」
「どうして、ですか……えぇっと……」
「前は一切しなかっただろ」

 それは、確かにそうだった。降谷さんが疑問に思うのも無理はない。私だって、料理をしなかった人間が突然やり始めたら不思議に思う。

「偏った栄養を取り続けるのも、身体に悪いかと思いまして……」

 これは嘘ではない。ただ、その後に『主に降谷さんの』とは続くけれど。とはいっても、特にそれを口に出すことはしなかった。なんとなく、というだけで別にこれといった理由は無いのだけれど。
 すると降谷さんは「そうか」とだけ呟いて、それ以上は特に何も言わなかった。そして、そのまま無言の時間が続く。少し気まずいと思うのは私だけだろうか。
 ちらりと降谷さんの方を見たが、私には何を考えているのか予想も出来なかった。一体どんな事を考えているのだろうか。私と同じ空間に居て嫌な気持ちを持っているかもしれない。しかし、帰ってきて一緒に夕飯を食べたという事は、そこまで嫌われているという訳でもないのだろうか。
 駄目だ。考えても分からない。好かれているとは思えないけれど、心の底から嫌いだっていう雰囲気も感じられなかった。

 分からない事だらけだ。
 
 前世を思い出したから、少しは分かったつもりでいたのだけれど。それは大きな間違い。
 彼の心の中まではわかる筈が無かったのだ。それはそうだろう。あくまで私が知っているのは、紙面の上での“降谷 零”という人物について、なのだから。
 今、目の前にいる彼は、現実世界に存在している人間。物語に登場するキャラクターではなく、一人の人間なのだ。他人の心など、本人にしか分からない。それは至極当然。当たり前の事である。
さて、どうしたものか。私が悩んでいれば、降谷さんが「君も風呂、いってきたらどうだ?」と、こちらに向かって言った。壁にかかっている時計へと目をやれば、もういい時間である。それもそうかと頷いた。

「そうですね……じゃあ、頂いてきます」
「あぁ」
「もう時間も遅いので、先に寝ていてください」

 降谷さんが頷くのを横目に、私はお風呂へと向かった。

 ◆

 少し長風呂になってしまった。ぽかぽかと身体が温まって、眠気が強くなりながらあくびを一つかみころす。そのまま、寝室へと向かった。
 寝室の扉のドアノブへと手をかけて、ふと思い出す。そういえば、ベッドは一つではなかっただろうか? と。
 もしかして、一緒に寝る? 降谷さんと? ベッドが一つしかないのだから、一緒に寝るほかない。そもそも、夫婦なのだから問題はないのだけれど、そういうことではない。思い出す前。それも結婚当初は確かに何度か一緒に寝たこともあった。別に、何かあったわけではなく、文字通り“一緒に寝た”だけだったけれども。
 しかし、記憶が戻った今はどうだろう。気恥しくて同じ布団で寝れる訳がないじゃないか。どうしよう。
 扉の前でもだもだとしながら、頭を抱えていれば、不意に寝室の扉が開かれた。近くにいたからか、それを避けることなどできずに、おでこにぶち当たってしまう。ごんっという大きな音が鳴った。
 これは痛い……っ!
 ぶつけた所を押さえてうずくまっていれば、少し驚いた顔の降谷さんが顔をのぞかせた。

「入らないのか?」

 そう言って、こちらの方へ視線を向けてうずくまる私を見ると「あっ」という顔をした。

「ぶつけたのか? 凄い音が鳴ったが……」
「……はい」

 ばつが悪そうに視線を彷徨わせてから小さく「悪い」と口に出した。それに「大丈夫です」と答えてから、その場で立ち上がる。
 すると、押さえていた私の手を優しい手つきで、動かした。何ですか? と、口に出す間もなく「どれ」と言って私の前髪を避けたのだ。

「あー……すまない。少し赤くなってるな」
「あ、え……?」

 呆然とたちすくんで、されるがままになっている私を他所に、降谷さんはまじまじと顔を近づけて私のおでこを眺めていた。
 あまりの近さに、私の肩が小さく跳ねる。

「れ、い……さん……? あの……えっと」
「冷やすものを持ってくる」

 そう言って、キッチンの方へと消えて行った。その後ろ姿を、私はただ何も言えずに見送る。
 数分ほどして降谷さんが帰って来た。その手には、小さなビニールに水と氷を入れたものがある。氷嚢を作ってくれたのだろう。
 そのまま、私の近くに来てまた前髪を上げた。

「少し冷たいぞ」

 降谷さんは、そう言って氷嚢を私のおでこに充てる。思ったよりも冷たくて「ひゃっ」という、なんとも間抜けな声が出てしまった。

「これで赤みは引くだろ。悪かったな」
「あ、いえ……ありがとう、ございます」

 どういたしまして。と、小さく笑った降谷さんの顔が目に映る。
 あれ? 今、降谷さん、笑った……? 目を丸くしながら降谷さんを見つめていれば、今度は不思議そうに首を傾げていた。しかし、直ぐにまぁいいかと小さく息を吐く。

「……そういえば、どうして中々入ってこなかったんだ?」

 降谷さんの言葉になんて答えたらいいのだろうか悩む。まさか、一緒に寝る事に躊躇していた……なんて言えるはずもない。さて、どうしたものか。
 ずっと答えられないでいれば、降谷さんは眉間にしわを寄せた。もしかして、怒らせてしまっただろうか。

「もしかして、何かあったのか?」

 私の不安を他所に、そんな事を口に出した。

「何か……?」
「心配事、とか。それか気分でも悪くなったか?」

 心配を、してくれているのだろうか。それはとても嬉しい。ほんのりと頬が熱くなる。

「あ、いえ……特には……」
「そうか? それなら、どうしてだ?」

 不思議そうに首を傾げる降谷さんに、なんと答えるべきなのだろう。とても悩む。
 嘘を言うわけにもいかない。むしろ、言ったとしても直ぐにばれてしまうだろう。さて、どうしたものか。そう思って、視線を彷徨わせていれば、降谷さんは「じゃあ」と言葉を紡ぐ。

「緊張でもしていたか?」
「……え?」

 どきりとした。どうしてわかってしまったのだろう。言葉にしていないというのに。読心術……なんて、そんな非現実的な能力を持っていない筈だというのに。どうして?

「……その反応は当たりか?」
「えっと、その……」

 言葉が見つからなくて、言い淀んでいれば降谷さんはふっと表情を和らげた。

「まぁ、普段からいない人間と一緒のベッドは緊張もするだろ。仕方ない事だよ」
「そ! そんな事は……ないです……」
「無理をしなくていい。もしも寝にくいなら……嫌だったり気になるなら、俺はリビングで寝るが」

 どうする? そう目で訴えかけていた。確かに緊張はするけど、そういう事ではない。嫌なわけでは、断じてない。むしろ私と寝て大丈夫なのだろうか? という心配はある。だって、私の事が好きではないしょう? 少なからず嫌いなんでしょう? 無理なんてする必要はない。
 悲しいけれど、嫌いな相手とは気が乗らないのも分かる。それに彼には、寝る時くらい無理をしてほしくはないのだから。

「い、いえ! そんな事は、ないです……でも、零さんは……その、嫌ではないんですか……?」

 私が、そう言えば降谷さんはきょとんとした顔になった。それも一瞬だけだったけど。

「もし嫌なら聞かずにリビングで寝ていたよ」

 と、いう事はつまり。

「いや、ではないんですか……?」
「あぁ」

 なんて表現をしたらいいんだろう。こう、心が温かくなるというか。嬉しい、と言えばいいのだろうか。いいや、でも。そんな言葉じゃ表現しきれない。
 何も言えず、降谷さんを見つめていれば「決まりだな」と言って、寝室の扉を開いた。先に部屋の中へ入っていく降谷さんの後ろを、ただただ無言でついて行く。
 先にベッドに入る降谷さんに続いて、私もベッドの中へと潜り込んだ。並んで寝てはいるが、私と彼の間には僅かなスペースが空いている。
 どちらも近寄ることはしない。そのままだ。
 しかし私は、降谷さんと同じベッドに入っているという事だけで、やはり緊張してきた。このまま大人しく眠れるかどうかは分からないけれど、きっと無理だと思う。思春期の中学生みたいではあるけれど、仕方ないじゃないか。

 二人分の熱がベッドの中にこもっているからなのだろうか。それとも私の体温だけが高くなってしまっているからなのだろうか。どちらかは分からないけれど、何だか熱い。
 心の中でひえええ、と情けない声を出していれば、ふと「なぁ」と声を掛けられた。思わず裏返ってしまった声で「はい?!」と返事をする。

「最近、変わった事とかあるか?」
「……え? 変わった事、ですか?」
「あぁ、そうだ」

 最近、ねぇ。あると言えばあるし、無いと言えばない。一番は記憶が戻った事ではあるけれど、そんな事を言えるはずもない。それ以外だと、やはり見つからないのだ。
 悩んでいれば、降谷さんが「無ければ、いい」と呟いてこちらに背を見せた。

「あ、でも……変わった事、という訳ではないんですけど。お店で可愛いお弁当箱を見つけたんです」
「お弁当箱……もしかして」
「えぇ、そうです。この間、お渡しした猫ちゃんの描かれたお弁当箱です」

 思わず買っちゃって。そう言えば、降谷さんは静かに「そうか」とだけ返す。しかし、その声色は柔らかかった。

「えっと、零さんは……? 最近は何かありましたか?」

 答えてはくれないのだろうとは思う。流石に、そこまでは心を許してくれているとは思わない。でも、聞いてみたかったのだ。

「……いいや、特にはない」

 あぁ、やっぱり。思っていた通りの返答で、私は納得をしても落胆はしなかった。だからこそ私は、静かな声で「そうですか」とだけ返事をする。やはり降谷さんはそれ以上、何も言う事は無く無言だった。
 これ以上は、降谷さんの睡眠の邪魔になる。あまり話しかけていると、彼もゆっくり寝ることが出来ないだろう。もういい時間なのだし、大人しくしていなければ。明日もきっと降谷さんは、また忙しくてハードな仕事があるのだろうから。
 降谷さんの背中に向けて「おやすみなさい」と声を掛ければ、小さくだが「あぁ」と返事が返ってくる。布団の中でふふっと笑いながら私は、静かに目を閉じた。
 もしかしたら、朝起きたら降谷さんが居ないかもしれないなぁ。でも、もしも居るなら朝ごはんはどうしようかなぁ。なんて頭の片隅で思いながら。
 暫くして私はぱっと目を覚ました。正確に言えば、目を覚ましたというよりも、眠れなかったのだけれど。ただ目を閉じていただけで、頭は覚醒したままだった。いや、降谷さんが隣に寝ている状態で、すやすやと眠れるわけが無かったんだよね。
 ベットの上で何回か寝返りを打っていれば、降谷さんが小さく唸った。これはいけない。そう思って、私は動きをぴたりと止める。しかし、何だか余計に眠れなくなってきたような気がするのだ。寝ようと意識すればするほど眠れなくなるというやつなのだろうか。
 どうしたって、眠気なんて来る気配はない。駄目だ。一回、水でも飲んで落ち着かせよう。そう思って、こっそりとベッドを抜け出した。ちらりと降谷さんの方を確認したけれど、規則正しい寝息だけが聞こえる。どうやら彼を起こしていない様で、心の底から安心した。少し動いただけでも起きてしまいそうなイメージはあったのだけれど。

 部屋を出る時もこっそり、なるべく物音を立てないように気を付けた。
 暗い部屋の中を歩いてキッチンへと向かう。グラスに水を注いで、一気に飲み干した。自分では気が付かなかったけれど、喉も乾いていた様である。多分、緊張の所為だと思う。
 暫く暗い部屋の中で心を落ち着かせてから、来た時と同じように、また音を立てずにこっそりと寝室へと戻った。ベッドに近付いて降谷さんの様子を見たけれど、出た時と同じで規則正しい寝息が聞こえる。その様子にほっとしながら、私はベッドの中へと潜り込んで座ったまま彼の後ろ姿を眺めた。そして、今日の事を考える。それは、降谷さんの言動について、だ。
 前よりも柔らかくなった様なきがする。それがどうしてなのかは分からないけれど。しかし、口数は少なくても言葉を交わしてくれたし、一緒に夕飯も食べてくれた。それどころか、前に渡したお弁当も。
 私の事が嫌いなんじゃなかったのだろうか。それならば、どうして? 少しだけ許してくれたのだろうか? うーん……やはり考えても分からない。
 それに、こうやって隣で寝てくれたのは、いったいどうしてなんだろう。心を許した相手ではない筈の私と一緒に寝るだなんて、辛いだけだと思う。ちゃんと寝ることが出来ないのではないのだろうかと思う。
仕事で疲れてるのに、無理をさせてしまうのも申し訳ない。だって、彼はこの国を守るために、身を粉にして日々を生きているのだから。誰にも知られず、陰からこっそりと。
 それはどんなに大変な事だろう。温室でぬくぬくと育ってきた私には、想像も出来ない。幾ら前世で原作を読んでいたとしても、それはただの情報としての知識。実際の大変さなんて、わかる筈もないのだ。大変。その一言で片づけられるものではないのだろうけど。
 こっそりと降谷さんの寝顔を見つめて、あまり目立たないけれど隈がある事に気が付いた。それに、何処か疲弊の色も見える。
 思わず彼の方に手が伸びてしまった。そのまま降谷さんの頭に手を当てて、緩慢な動作で撫でる。さらりとした感触が手を伝う。

「……いつもお疲れ様です。それに、頑張ってくれて、ありがとうございます」

 私たちの為に。そこまでは流石に、口には出さなかった。理由は特にないのだけれど。ただ、寝ていて聞いてはいないだろうけれど、降谷さんに言いたかった。同じ世界線に存在しているのだから、ただ言いたかったのだ。彼に届いていなかったとしても、それでいい。私の自己満足。
 いつもぼろぼろになって、自分を犠牲にしている降谷さんに、なんだか泣きたくなった。無理をしないで欲しい。怪我なんてしてほしくなんてない。出来ることなら、笑っていて欲しい。
 お願いだから、

「……どうか、無事に帰ってきて」

 気が付けば、そんな言葉が口から洩れた。しかし、それは静かな空間に溶けて消える。ただただ部屋の中は静寂に包まれた。
 今、自分は酷い顔をしているのだろう。情けない顔をしているのだと思う。自分で自分の顔なんて、鏡を使うか写真を撮るか以外に知る術はないけれど、多分きっと、そうなんだろうと思えてしまうのだ。何だかおかしいね。そう思うけれど、なんとなくは予想がついてしまうのだ。だって、自分の事なのだから。
 暫くの間、降谷さんの頭を撫でていた。ぴたりと撫でていた手を止めて、最後にさらりと髪を撫でてから手を離した。数秒程じっと降谷さんを見つめてから漸く私も布団の中へと沈む。
 最後にもう一度だけ、私は「おやすみなさい」と言った。しかし、やはり眠っている降谷さんからの返事は無い。

「良い夢を」

 せめて夢の中だけでも安らぎを。そんな風に思いを込めて。
 私はそのまま、ゆっくりと目を閉じて夢の世界へと旅立った。今度はちゃんと眠れそうだ。

 その後、横でごそりと動く気配を感じていれば、微睡む私の耳には微かに声も聞こえてきたような気がした。
 ちゃんとは聞こえなかったのだけれど。一体、なんだったのだろうか。もしかしたら、それは気のせいだったかもしれない。あるいは、夢だったのかもしれない。

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