傑が居なくなってから私は、抜け殻のようになった。だけど、以前と同じように動かない表情筋を必死で動かして笑った。硝子が気を遣ってくれているのは痛いほど感じて居た。
だから私は硝子と話す時、前と同じように笑った。任務を言い渡された時も淡々と呪霊を祓った。祓って、祓って、祓って高専に戻って私は笑った。硝子から「休んだ方が良いんじゃない?」なんて言われたけど『全然大丈夫だよ。』そう答えた。
五条君とは以前のように会話をする事が出来なくなった。何故かと言われるとあの六眼に私の気持ちを見透かされるような気がしたからだ。
本当は私は全然大丈夫なんかじゃなかった。

全然大丈夫じゃなくて、一人になって何度も何度も枕に顔を押し付けて声を殺して傑の名前を呼んだ。傑、傑、そう呼んで居たら前みたいに「どうしたの?」なんて部屋に入って来るような気がした。だけどそんな事は無かった。
携帯を開いたら傑としたやりとりが残っていた。居なくなる前日まで、呑気に私は傑と休みが合えばどこか行こうねなんてやり取りをしていた。傑が何を想っているかも知らずに。
私は、自分で言ったのだ。『私はここに残るね。』と。
そう言うしか無かった。というより選択肢なんか無かった。傑を探すあても無ければ、
傑は私を置いて行ったという現実しか存在しないのだ。

もう一回触れてよ。ねえ、私を見て笑ってよ。
いつもの優しい声で「大丈夫だよ。」って言ってよ。
届かない願いは一人きりの部屋で溶けて行く。私はいつまでこうやって過ごして居たら良いのだろうか。ずっと呪霊を祓って、そうして大人になっていって。何処かで自分が死ぬ時に傑を思い出してしまうんだろうか。涙が枯れて嗚咽だけが漏れる。ひゅうひゅうと喉が鳴ってそれでもそれでも消えてくれない。

不意に携帯が鳴って画面を開くと、そこには知らない番号が表示されていた。
まさか、ね。なんて思いながら通話ボタンを押した。

『はい、』

「名前。私だよ。」

『す…ぐる…』

声を聴いて一瞬で分かった。何度も何度も名前を呼んだから私は今夢でも見てるのだろうか。傑から電話がかかる夢。だけど、震える手も掠れた喉もこれは現実だと知らせている。

「泣いてたのかい?」

『…誰のせいだと思ってるの。』

「うん、そうだね。私だね。ねえ、名前。私は其処のものは全て捨てて来たんだ。
だけど、名前の事だけが気がかりでね。というのは口実で…」

『うん。』

「悟は元気にしてるかい?」

『…傑が居なくなってから、びっくりするくらい大人しくなったよ。
まるで、世界が変わったみたいに。変わったよ、本当に。色んな事が。』

「大袈裟だね、名前は。そう簡単に世界が変えられるなら苦労しないよ。」

『ねえ。傑。そうじゃなくて、何か…言いたくて電話してくれたんじゃないの?』

「名前、一般的価値観で幸せに絶対なれないとしてそれでも私と一緒に居てくれるかい?」

優しい声で、以前と同じ声で傑は私にそう言った。絶対に幸せになれない、ね。
傑、そういう時は嘘でも幸せになれるとか言わないのかな。そういう所は変わらないんだね。それでいて狡いね。

『そこは、幸せにするとか言った方がいいよ。』

「名前が今まで描いていた世界じゃなくなるからね。それは君にとって幸せかどうかは分からないよ。ただ、私なりに君の幸せの為に何だってしてみせるよ。」

『…それで行かない、って言える程強いと思う?ねえ、何処に行けばいい?』


言うより先に身体が動いていた。出張用の任務の大きなバッグの中にぎゅうぎゅうに衣服を詰め込んで着ていた制服を脱いで、ベッドの上に置いた。
もう衝動的に体が動いて居た。傑が場所を伝えた時、「悟は私の事許さないだろうね。」
なんて最後に軽く笑って居た。短い通話が終わった後、私は抱えたバッグを持って息を殺して自室を出た。誰にも、会いませんように。そう願いながら私は必死で走った。高専を出てから必死で走った。息が切れて脚が縺れそうになりながらも走った。
必死に走って、走って。こんな長距離走り続ける事なんて任務以外であるのだろうかと思う位に走った。
心の中で、誰に謝罪してるのか分からない謝罪を繰り返しながら私は走った。
荷物なんか持って来るんじゃなかった。そう思う位身体が重い。
走り続けて、真夜中に一台高専近くにあるタクシーに滑り込んだ。まだ今なら引き返せる。

傑が言った場所の近くまで行っている最中、「夏油の事は忘れろ。」そう言いながら硝子が背中を撫でてくれたのを思い出した。
ごめんね、本当にごめん。硝子、五条君。私、嘘を吐いた。
タクシーが進む度に罪悪感がどんどん切り離されて行く。
料金を支払って傑が指定していた場所に向かっている途中、不意に後から抱き締められた。
この感覚を私はよく知っていた。

『傑、どうしよう。本当に捨てて来ちゃった。』

「うん。」

『会いたかったよ、ずっと。』

「私もだよ。」

『私は傑が何であんな事しちゃったのか未だに分からないよ。だけど、
もしも私が死ぬとしたら、傑の近くに居たいって思っちゃったんだよ。どうしようもないよね。』

「ねえ、名前。もしも、嫌になったら私に無理矢理攫われたって言っていいからね。
それで君から離れても構わない。」

『離さないでよ。』

「そのつもりなんだけどね。矛盾してるよね。」


傑が行こう。そう言った手を私は取った。
二度と、離れても構わないからなんて保険をかけないで欲しい。
連れて行くなら、最後までそのつもりで居てよ。そう言う代わりに私は繋がれた手を強く握った。
深夜、静まった世界の中で私は今までの全てを捨てる。衝動的に。
だけど私が傑を好きになった日から理性的であった事なんてきっと無かった。


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