*大学生くらいの年齢設定です。 『雅治、水ちょうだい。』 「ん。」 ぼんやりとした顔で起き上がった名前がそう言ったから俺は手を伸ばしてテーブルにあったペットボトルの蓋を取って名前に差し出した。 そしたら、すんなり飲むわけでもなく。ただぼーっとしたままペットボトルを持ったままの名前を俺も同じようにぼんやりと見詰める。 このやり取りは何回目じゃろう。大体、俺らこの部屋からいつ出たっけ。なんて考えながら。 そういえば、食うもんがないって話になって部屋を出たんが、多分3日前の話。 しばらくして名前がようやく水を飲んだと思ったけど相変わらず目線はハッキリせんまま。 黙ったまま俺の背中に手を伸ばしてそっと指先を滑らせる。 寝て起きる、ただその繰り返しをする為に借りた狭い俺のワンルーム。 この部屋には、必要最低限のものしかない。 俺らはこの部屋でずっとそんな事ばかり繰り返しとった。 『あ…そういえば、今って何時だっけ?』 「わからん。土曜日…いや、火曜日…かのう。 どっちでも…ええじゃろそんなん。」 『…携帯も、充電切れてる。』 「俺も。」 名前の肩にもたれてそんな会話をするのも何回目だったか。 俺らはこの狭い部屋で、大抵の時間お互いの肌に触れながら時間を過ごす。 よく鳴って鬱陶しかった名前の携帯も今になってみればただの鉄の塊。 そういえば、キッカケは何だったんだろう。そんな事を考えてみた。 お互いに都合のええ時間に会って。時々ここに来とった名前をふいに帰したくなくなって。 近くに部屋借りとるんじゃったらおったらええじゃろ。別にここから、学校も行けるし問題なか。 そんな事を言って優しいフリして擦り寄ったのがキッカケだった。 よくある話じゃそんなん。ちょっと一緒におったらそっからずるずる一緒に居る。 そんだけの話。 そう何度も自分に言い聞かせとったらあっという間に俺らはこんなんになった。 名前の肩にもたれとったら、俺の頭を優しく抱え込むようにして頭を撫で始めた名前が愛おしい。 普通に彼女をかわいいってかわいがる。その心理。 ただそれだけじゃ。それだけの事。 『雅治の髪本当細いね。』 「あー…昔からじゃ。」 『この髪好きなんだよね、触るの。』 「俺も、名前に触られるん好き。」 ほら、こんなのよくある話じゃ。前に柳生にあなたは今何をしているのか分かっているんですか。 そんな事を言われた事がある。 名前とこの部屋に籠り始めてから一週間くらい経った時にかかって来た電話で言われた事だった。 何って、普通じゃろ。そん時も同じように柳生によくある話じゃ。そう言った気がする。 本当は、よくある話なんかじゃない。そんな事は俺が一番よう知っとった。 名前も俺も。 互いに納得してこうしとる筈やのに、時間が経つ毎に何かを擦り減らして。 それを補うようにお互いに触れる。今俺の髪に触りよんも多分同じ。 目が覚めて、思ったんじゃろう。 自分が何をしてるんだろう、くらいの事を。 だけど俺は、他に欲しいもんなんか無い。 ただこの空間に二人で居れたらそれでええ。 後の事は、後から考える。あれ、俺ってこんな人間だったっけ。 ふいに、俺の頭から生温い水滴が伝って来て。 焦って顔を上げれば名前はぼんやりした表情のまま。 声も上げずに涙をぽろぽろと流し始めた。 『…ねえ、雅治。』 「なあ…何で泣くん?」 『…私泣いてる?』 「泣いとるじゃろ。何、寂しい?」 『雅治が居るから寂しくなんかないよ。』 じゃあ、何で泣くん。なあ、お願いだから下らん事を考えんとって。 俺だけを見とって。そんだけでええ。 そんな事を思いながら名前の頬に手を伸ばして涙を拭った。 何度も拭ってみてもポロポロと流れ出す涙は止まる事はない。 ちなみにこんな事になったのは初めてじゃない。 時々名前はこうして情緒不安定になる。言っとくが、泣きはせんけどそれは俺も同じで。 ああ、よっぽど擦り減っとるんじゃなって。他人事のように思うだけ。 「なあ、どっか出掛ける?」 『…行かない。用事ないもん。』 「そしたら、少しは落ち着くかもしれんじゃろ。」 『落ち着くって…何が?私が?私が、変だって言いたいの?』 「そうじゃない。勘違いしなさんな。ただ俺は…」 『なんか、いらないって切り捨てられてるみたいに思っちゃうから…もうそういうのやめて。 逆効果だよ。』 そう言って涙を流したまま、名前は力なく笑って。 そしてまた俺の頭を撫で始めた。俺じゃなくて、自分を落ち着かせるように。 …それって、どういう意味じゃ。今自分で考えた事が喉の奥でひっかかった刺のようになってじりじりと首を締められていく感覚。 何じゃこの違和感は。なあ、誰か教えてくれん? もう分からん。俺には、何も。 『ねえ、雅治…ごめんね。』 「別に、気にしてないし謝ってもらわんでもええ。」 『そうじゃなくて、ごめんね。』 そう言った名前は立ち上がって俺から身体を離すと。 俺の前に座って俺の目を見据えた。そしてまた繰り返す。 ごめんね、雅治、ごめんね。そう言われた瞬間首を締め付けられよったような感覚が更に強くなって、 息をするのが苦しい気さえしてきた。 は?なんなん?意味がわからん。 何でごめんとか言うんか、そんで。何で離れるんか。 意味がわからんのじゃけど。 いや、本当謝るんやめてくれん。頼むからやめてくれ。 そう言った時名前は久しぶりに見せた昔の顔で笑って言った。 『雅治、ごめんね。大好きだったよ。 でもそろそろバイバイしなきゃ。』 その顔があまりに綺麗で。何か別の生き物みたいに見えて。 俺は立ち去ろうとする名前に手を伸ばす事も出来ずに荷物を簡単にまとめて出ていく名前の背中を見送る事しか出来んかった。 玄関のドアが閉まった時。自分の身体半分もってかれたような気分になって。 俺はそん時初めて泣いた。 女みたいにボロボロ涙を流してしまって止まらんくて。 だけどずっと知っとった気がする。 俺らはずっとずっとこの部屋にはおる事なんて出来ん事を。 そんで、そうするべきじゃないって事を。 けど最後くらい、もう一回俺から触れたかった。 諦めが悪いって言われようが何と言われようが。もう触れる事なんか出来んって分かっとっても。 それでも触れたくて俺は泣いた。 お互いにあなたが必要です、いやならやめてもいいけど。だけどそんなの嘘。 本当は必要です。そう、思わないといけないんだ。 そんなやり取りを繰り返しながら。俺らは何を得たんじゃろう。 ただ…ただ。俺には必要な事じゃった。 けど、名前に必要だったのが。 その繰り返しじゃのうて、俺から離れる事だったのは。 最初からこんな風にさせた時から。本当は知っとったんじゃ。 切り捨てられてるみたいで嫌だ、それが本音だったとしても名前が俺を切り捨てる必要だけはあった。 全部俺が招いた事じゃから。 これからどんどん時間が過ぎて。 例えば俺が落ち着いて外に出始めたとして。 そしたら、あの時は…なんて思えるときが来るんじゃろうか。 そん時俺は少しはマシになっとるんじゃろうか。 そんな事を思いながら、床に放置された鉄の塊を拾って充電器に繋ぐ。 しばらくして、電源を入れたらそこには。 出会った頃に撮った俺らが笑っとって。 俺は今度は声も出せずに涙を流した。 名前は上手に、全部が駄目になる前に。 この部屋を出て行った。 この携帯の画像の頃を消さないように。 それなのに、俺は取り残されたままで。 これからどうやっていけばいいのかさえ分からないでいる。 end 「ジレンマ speena」 |