Eden



そろそろ帰りますね、と言って会釈したなまえさんの手を、思わず掴んだ。

「送って行きます」

戸惑ったように視線をさまよわせる彼女の手を引き、近くに停めてある車まで歩く。助手席のドアを開けて、なまえさんを座らせて、僕も運転席に座ってエンジンをかけた。

「家、どの辺りですか?」

「ブロンズステージの……というか、そこまでしていただかなくても」

呆気にとられていたなまえさんが慌ててそう言ったけれど、今更ここで別れるつもりはない。アクセルを踏み込んで走り出すと、わあともきゃあともつかない悲鳴が聞こえた。

「お店には寄った方がいいですか?」

ブロンズステージへと降りる道すがら、なまえさんに尋ねる。開放されてすぐに病院へ搬送されたのだから、何かと用があるかもしれない。そう思っての問いかけだったが、なまえさんはゆるゆると首を横に振った。

「私物はバイト先の人が届けてくれましたし、今日はもう、ゆっくり休むように言われたので」

それきりなまえさんは黙ってしまい、車内にはエンジンの音だけが響く。僕はあまり沈黙を気にする方ではないけれど、この静けさは、少しばかり居心地が悪かった。

「あなたは、NEXTなんですよね」

何か話題を、と思ったけれど、気の利いたことも考えつかず、結局さっきのことを聞く。しかし、隣で小さく頷くなまえさんの表情が、僅かにこわばったのを見て、失敗だったと思った。NEXTだからといって差別や迫害を受ける人は、比較的NEXTに寛容なこの街にも、依然として存在する。彼女もそんな過去を持つ人だったとしたら、触れられたくないことだろう。

「……NEXTの能力を、無効化する能力なんです」

長い沈黙のあと、なまえさんがぽつりと言った。それは僕の言葉に応えているようでいて、一人言にも近い呟きだった。

「すごいじゃないですか、それで、あの男が操っていた鉄骨が落ちたんですね」

どう反応すればいいのか迷って、当たり障りのない相づちをうつ。こんなとき、虎徹さんなら何と言うだろうか。僕には、どうすればいいのかわからない。窓の外を見ていたなまえさんは、こちらを向くと、今にも泣き出しそうな顔をして言った。

「すごくなんて、ないんです。私は自分のことしか守れない」

僕へと向けられた瞳は、きっと僕ではなく、もっと遠い何かを映している。こんなに傍にいるのに、彼女がここにはいないような錯覚すら起こしそうだ。

「でも、さっき、あなたは僕を助けてくれました」

ようやく口にできた言葉はそれだけで、何のフォローにもならない。取材にはうまく答えられるのに、彼女を慰める言葉は、どんなに探しても見つからなかった。それでもなまえさんは、悲しげに笑って、僕にお礼を言う。

「ありがとうございます。今日、はじめて人を守れて、はじめて、NEXTでよかったと思えたんです。……バーナビーさんの、おかげです」

そうして、ふと前を見たなまえさんが、あ、と声を上げた。丁度信号で止まったので彼女の方を見ると、すでにシートベルトを外し、車から降りている。特に意識していなかったが、いつの間にか、もう、ブロンズステージの中央付近だった。

「すみません、家、この近くなんです。今日のお礼は、今度必ずしますから」

呼び止める間もなく、なまえさんは一礼して通りの反対側へと行ってしまう。ぽっかりと空いた助手席はいつもと同じはずで、だけど、どこか物足りない。さっきまでそこに座っていた彼女の痕跡すら曖昧なのに、どういう訳か、寂しさに似た感情を抱いていた。
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テーマ「人外ファンタジー」
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