小説 | ナノ


「器量も悪ィし、飯もまずい」

 使用人の女の白い首に赤い花を散らせながら高杉が嘲る。それに呼応するように使用人もクスクス笑い声をたてる。
 床に散らばった皿やおかずを片付けながら、泣くまいと眉間に力を入れる。

 ………惨めだ。言い返すほどの勇気はない。実家にいる両親の顔が思い浮かび、唇をぐっと噛みしめる。
 高杉は女がなにも言えないことを知っているかのように、さらに貶めようと言葉を連ねては笑う。床に這いつくばっている女とそれを見ていっそう笑みを濃くする男は、まるで二人の関係を物語っているかのようであった。

 これが、女の日常だった。


 女はただ苦しかった。男と同じ空間にいると息が詰まり、腹に重たい石かなにかを埋められたようなそんなどんよりとした気分にさせられる。嫌いだとかそういう感情ではなく、「怯え」と形容したほうが正しいだろう。
 許されるのなら、すぐにでもここを飛び出して両親の待つ家へ帰りたい。もう何度夢を見たか。自分の存在を認めてくれて、受け入れてくれるあの温かい家に帰る夢を。だけどその温かい家を支えているのは高杉の財力であった。女が嫁ぐことで、傾きかけた父の事業を支えているのはいまや高杉であり女が出ていけば当然親もろとも路頭に迷うことになるだろう。
 がんじがらめに縛られた身体には、もう自由はない。家に帰ることはきっともう二度と叶わない。

 夢は、夢のままだ。


 ある夜、いつものように遊郭へ行きほろ酔い気分で帰ってきた高杉は、一室から光が漏れているのを見つけた。
 あそこは、あの女の部屋だ。先ほどまで一緒にいた別の女の色香をまとわりつかせながらゆらゆら歩を進める。
 一体こんな夜中になにをしているのか。光に導かれるようにふらふら近づいていく。
 すっと障子を開けると、物音に驚いた女がおそるおそるこちらを見ていた。

「お、おかえりなさい…」

 女はようやく来客の正体が高杉だとわかり、か細い声で言葉をつむぐ。当然高杉はそれに答えることもなく、じろりと部屋を見渡した。
 見れば、布切れや着物が落ちていて女の手元には針山がある。
 こんな遅くまで針仕事をしていたのか。不意に高杉を、言い様のない気持ちが襲った。目の前の、申し訳なさそうに眉を下げるこの女がどうしようもなく哀れでどうしようもなく愛しい。むくむくとわきあがる気持ちは欲望へと形を変える。

「晋助さ………んっ」

 女を畳の上へ押し倒してひたすらその唇を貪る。甘い蜜のようなそれは高杉を酔わせる。
 別に高杉はこの女が嫌いというわけではなかった。むしろ逆の気持ちを抱いていたが、素直に好きだの愛してるだの囁くのは自分の柄ではない。それにいつまで経っても心を開こうとしない女にイライラしていたのもまた事実だ。
 だからこうして肌を重ね合わせるときだけが、唯一高杉が素直になれる瞬間だった。決して愛なぞ囁かないが、ひたすら女を求めて刻印を残す。悲しいくらいまっすぐな欲を、女は黙って受け入れた。
 そして彼女もまたわかっていた。日頃あれだけ邪険にされ蔑まれてもなお、ここを出られないのは親の事業が高杉の庇護にあることだけじゃない。夜な夜なぶつけられる熱の、その深いところに高杉の本心が見え隠れしていることを知っているからだ。

 不器用な人。外面ばかりを気にして本当の自分を押し殺していままで生きてきたのだろう。そんなかわいそうで不器用な男の頭をなでて、そっと微笑む。男も呼応するように女の胸元に額をつけた。
 夜はまだ、明けない。