私はもう自分の恋人を愛してはいない。いや、愛だなんてたいそうなものでもなくてつまり好きではない。そんなことを言ったら全国の女の子にはやく別れてしまえばいいのに、とどやされてしまいそうだけれど。 不満があるかと問われたら「ない」。暴力を振るわれるわけでもないし、ギャンブルやお酒に溺れているわけでもない。ただ、長年連れ添った老夫婦のように愛だとかそういう甘ったるいものが消えてしまって同じ空間にいても恋人としてではなくただの異性でしか存在を認識できない。 それでも離れられないのは、この人があたしをまだ想ってくれているから。その優しさを裏切れるほどあたしは強くない。 「今日、遅くなる」 「仕事?」 「ああ」 どんなに忙しくても、あたしの部屋に来てくれる彼を可哀想だと思う。哀れだと思う。どんなにあたしに尽くしてくれても、あたしはそれをすこしだって返してあげることはできない。 「鍵、ちゃんとかけろよ」 くしゃりと頭を撫でられて目を細める。こんな女に優しくしてくれるなんて。 あたしは知ってる。マヨネーズが大好きな彼があたしの料理には決してそれをかけないこと。年中煙草を吸っている彼があたしの体調をおもんばかって、あたしの前では吸わないこと。 ぬるま湯のような優しさは、ひどく居心地がよくて一度その温かさを知ってしまえばもう湯船から上がることはできない。彼があたしを縛りつける、わずかな毒のようだ。 「いってらっしゃい」 そしてあたしは今日も、ゆるく手を振って彼を見送る。 彼が仕事へと出掛けていってから時計が一回り。もうそろそろだろうか。ちらりと視線を上げると同時にタイミング良くチャイムが鳴った。 はい、と返事をしながら鍵をあけるとすこし緊張気味の青年が立っていた。 「どうも」 「いらっしゃい、山崎くん」 やって来たのは彼の部下である山崎くん。丁寧にもお土産を持ってきてくれたらしく、右手にぶらさがったビニール袋がかさりと音をたてる。 入って、と大きくドアを開ければ辺りをきょろきょろ見渡してから足をふみいれた。 そんなにびくびくしながらやって来るのなら、最初からここに来なければいいのに。小動物のように怯える山崎くんについ意地悪を言ってしまいそうになる。 「お茶いれるね」 「あ、ありがとうございます」 彼と生活しているこの空間に、ちょこんと座る山崎くんが明らかに異物でなんだかおかしい。誤魔化すようにわざと物音を大きくたてて湯飲みを取り出す。 鼻歌まじりに用意をしていると、ぎゅっとお腹あたりに手が回される。ふんわりと香る緑のようなにおいが鼻腔をくすぐる。 「山崎くん」 ねだるように肩におでこをすりつけてきて、たまらずそれに応える。ゆっくりと離れた唇から、あたしの名前がつむがれていく。 そう、あたしは彼の部下である山崎くんと関係を持っていた。はじまりはいつだったかなんてもう忘れてしまったけど出会ってからそれなりに年月は経っている。 もちろん彼が山崎くんの存在を知るはずがない。まさか隠密という職業をこんなところに活かしているなんて、思ってもいないだろう。 向かい合って、遊びのようなキスを繰り返す。それがだんだん深くなって思考も止まる。ただ、溺れていくだけだ。 キスの合間に山崎くんの瞳を見つめれば、ちらちらと欲望が顔を出している。そしてその欲望のむこうに彼の姿があることを、あたしはずいぶん前から知っている。 山崎くんがあたしを選んだのは、美しさでも優しさでももちろん愛でさえない。あたしが彼の女だから。いつも虐げられている上司の女と関係を持っていることがスリルと優越感を与えているのだ。あたしと山崎くんは、ただプライドを保つだけのか細い糸で結ばれている。 だけどもうどうだっていい。そう思えるくらいにはあたしは深い場所に堕ちてしまっていた。 きっとそこにはなにもない title:彼女の為に泣いた |