小説 | ナノ


なぜかわたしは昔から「好き」という言葉が言えなかった。なにか好みの食べ物を言うときも友達に好意を伝えるときも。「好き」と口にしようとしたらいつも喉がひゅうひゅういうだけで、「す」の字も言えなかった。
なぜか、いつもそうだった。




「はい、終わり!解散!帰れクソガキ!」

夏休みに入る前の最後の委員会はやっぱり締まらなかった。まあ、担当が坂田先生だしな。
みんなもぶちぶち文句を言いながらも早く帰れるのが嬉しいらしく、さっさと荷物をまとめて帰っていった。わたしはというと、ロッカーにためた重い荷物のせいでみんなより一足遅れてしまった。

「あっ」

ドサッと勢いよくすべり落ちたノートを拾おうと屈む前に、大きな手がそれを覆った。

「ん」

「あ、ありがと」

見れば同じクラスの土方くんで相変わらずなクールさでノートを差し出している。どぎまぎして震えないよう気をつけながら、それを受け取る。

「今日は早く帰れるね」

「ああ。あの糖尿、やけに早かったな」

「なんか新台入るってスキップしてたけど」

「パチンコかよ……」

忌々しそうに舌打ちする土方くんに苦笑する。
確かに、坂田先生は教師という職業には似つかわしい人だ。国語教師のくせに白衣着てるし、いっつもペロペロキャンディー舐めてるし。

カバンを肩にかけながら、ふと土方くんがまだ帰りの用意をしていないことに気づいた。

「あれ、土方くんはまだ帰らないの?」

「ああ」

「そっか。じゃあお先!」

「おう、じゃーな」

ゆるく手を振った土方くんがかわいいなんて思いながら別れた。

忘れものをしたと気づいたのはそれからすぐ。せっかく履き替えた革靴をしぶしぶ脱いで、ハイソックスのまま廊下を走る。たぶんまだカギは開いてるはず。
今なら、廊下は歩け!と古風な叱り方をする体育教室もいない。頬をなでるぬるい風が妙に気持ちよく感じる。

ちょっとだけ疲れてきて、ペタペタと音をたてて歩く。ようやく教室にたどり着いてほっと息を吐いたとき。

「好きです。」

静まり返った教室に女の子の声だけが妙に響く。ドアに伸ばしかけた手が中途半端に空をさまよった。

「土方くんが、好き」

聞こえてきた名前にどくんと胸が大きく鳴る。なにも考えられなくなって、頭ががんがんする。

「……は……ィ」

途切れ途切れに聞こえた低い声はたぶん土方くんのもの。これ以上ここにいたらいけない、と動こうとしない足でどうにか一歩踏み出した。

廊下をとぼとぼ歩いて虚しいような、寂しいようなそんな気持ちになる。下校時刻を過ぎた校舎には人影がなくて、それがまたわたしをどうしようもなくひとりにする。
好き、って言えるのはどんな気持ちなんだろう。怖いかもしれない。不安かもしれない。でもきっと気持ちを伝えられる嬉しさがあるはずだ。わたしには、たぶん一生かかってもわからないことだろうけど。

目を瞑れば、自然と土方くんの顔が思い浮かぶ。優しくてでもそれと同じくらいぶっきらぼう。

『すき』

声に出したはずのそれは、誰にも届くことのないただの空気に変わる。そうして誰に伝わることもなく、また空に消えるのだ。



title:かなし