小説 | ナノ


届けばいいのになあ、と何度となく思ってはため息。好きな気持ちは誰にも負けない自信はあるのに、一歩踏み出す勇気はない。


「トシ兄!」
「おう」


黒髪が揺れて、振り返ったその胸に飛び込む。ぐりぐりと頭を擦りつければ、数回撫でてくれた。


「変わんねーな、お前も」
「これでも成人してますぅー」


唇を尖らせてそう反論すればまた小さく笑った。

近所のお兄さん。それがトシ兄だ。幼いころから面倒を見てもらっていて、背中を追いかけまわしていたっけ。小学生のとき、トシ兄と結婚する!と宣言したわたしの頭を撫でて照れたように笑っていたのに。
わたしが高校生になって、トシ兄は大学生になった。5年も早く生まれたトシ兄にはすでに彼女がいて。結婚してくれるって言ったのに、なんて遥か昔の約束にすがっていた。
ようやく大学生になって、成人したと思えばトシ兄は会社員になった。一歩進めば、トシ兄は三歩進む。歩幅が合うことはない。


「大学、楽しいか?」
「うん。今日の夜にサークルの飲み会」
「そうか」


いつの間に煙草を吸うようになったの。いつの間にスーツを着こなすようになったの。わたしはなにも知らない。


「…そろそろ行くね」
「気をつけろよ」
「じゃーね」


いつまでも妹みたいな存在でいたくないって。そうやって言えたらたぶん今みたいに苦しくはなかった。




「カンパーイ!」


カチャカチャとビールや酎ハイの入ったグラスが鳴る。ごくり、と一気に飲み干すと喉が熱くなる。友達や先輩に勧められるままに飲んでいくと、お酒に強いわたしにも酔いがまわってきた。2次会も終えて、そろそろお開き。バイバイ、と友達に手を振ってふらふらとおぼつかない足をどうにか動かす。


「大丈夫?」


顔を上げると飲み会にいた同じ学部の男の子。茶髪の髪からキラリと光るピアスがのぞく。


「だいじょーぶ」
「でも、足ふらついてるけど」
「ヘーキだから」
「俺方向一緒だから送ってくよ」


半場無理やりについてこられてすこし困る。仕方なくじゃあ途中までなら、と頷けば満足そうに笑った。
よたよたと歩いていくといつの間にかホテル街に出ていた。そういえばこの人、女遊びが激しい人だったっけ。ああ、嵌められたと気づいたのもすでに遅く。


「ちょっと寄ってかない?」


安い文句に肩を抱かれて、気分が悪くなる。わたしは黒髪で眼孔が鋭くて頭が良くてクールで女の子にへらへらしない人が好きなのに。いつの間にか想像していたのは、トシ兄のことだった。


「…離して」
「え?」
「帰る」


ちょっと待ってよ、と慌てだすその人に背を向けてずんずん歩いていく。
どうして本当に好きな人には見向きもされないのに、どうも思ってない人にはああして誘われたり肩を抱かれたりするんだろう。


「おい!何してんだこんな所で」
「……トシ兄」


まだ酔ってるのかな。目の前に盛大に眉をひそめたトシ兄がいる。


「千鳥足じゃねェか。そんなになるまで呑むなバカ!」
「…ごめんなさい」
「ったく、」


すると急にくるりと背中を向けて乗れ、と声をかけられた。


「え、」
「んなふらつく足で歩いて怪我でもされたら迷惑だっつってんだよ。はやく乗れ」


戸惑いを隠せないまま、でもすこしだけ自分の幸運に浮かれて広い背中にしがみつく。すぐに温かい温度が流れて、心地よさに目を細める。


「あんまり心配かけさせんな」
「…うん」


優しくて頼れるトシ兄。昔から迷惑ばかりかけて困らせて。ごめんね、と小さな声で謝れば黙ったまま歩き続けていく。

…どうすれば追いつけるのかなあ。化粧をしてみても髪を巻いてみてもトシ兄は振り向いてくれない。背伸びするな、と頭をこづかれるだけでそれだけで。一言でいいから似合ってる、可愛いと言ってほしいのに。こんなにも大好きなのに。


「トシ兄、」
「あー?」
「好きだよ」


ぎゅっと背中の服を握りしめる。届いてほしい、と願いを込めて。


「トシ兄が、好きだよ」
「ん、俺も好きだ」


…違うよ、そうじゃない。そんなんじゃないの。トシ兄の言う『好き』と、わたしの思う『好き』は違う。 わかってるよ、トシ兄がわたしを女としてじゃなく妹のように見ていることなんて。でも、それでももしかしたらって。もしかしたらわたしを、って淡い期待を抱いていた。それも今破れてしまったのだけど
あーあ、どうして届かないのかなあ。ずうっと昔から大好きなんだけどなあ。

ぽたりとこぼれたそれは頬を濡らしてトシ兄のシャツに染み込む。


「…どうかしたか」
「んーん、なんでもない」


ただちょっと胸が苦しいだけだよ、なんて。
濡れた頬を擦り付けてすん、と鼻をすする。どうかこの涙に気づかれませんように。そしてどうかこんな夜だけは泣かせてください



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