小説 | ナノ

大人になれば、きっともっと素敵な人に出会って駆け引きをしてたまに泣いたり切なくなったり、そんな恋をするんだと思っていた。だからわたしは逃げるようにこの小さな田舎町から飛び出して電車で何時間もかかるような東京にやって来た。ただ、あの人を忘れたくて


「はい」


ブルブルと震える携帯を手にして、電源ボタンを押す。耳に押し当てたそれからは母の声が聞こえた。


「うん、元気」


実家からの連絡というのはわずらわしさとほんのすこし嬉しさもあって。近況を適当に話し終えると、そろそろ帰ってきたらとお決まりの文句。きっとそんなことを言われるのだろうなとはうっすら予想していたけど。
もう何ヶ月経つんだろう。最後に実家に帰った日が思い出せないくらい、ずいぶんと帰ってない。お盆も近いし、と仕方なく今週末に帰ることを告げると嬉しそうな声が電話の向こうから聞こえた。

電話を切ってからベッドの上に携帯を放る。ため息を落として数年前のことを頭の中で反芻する。
数年前、わたしは高校生だった。たぶんどこにでもいる普通の。ただひとつ違ったのはわたしの好きな人が先生だったということだろうか。でもきっと日本中探せばそんな女の子は何人かいるはずだ。まあとにかく、わたしは先生だった坂田銀八が好きだったのだ。




下着や着替えを詰め込んだ旅行カバンを片手に、ホームに滑り込んできた電車に乗りこむ。あまり混まないようにと、夜遅い特急で実家に向かって朝早くに着くはずだ。席に座ってからゆっくりまぶたを閉じる。まだ到着まで何時間もある。日ごろの大学やバイトでの疲れも手伝ってすぐに眠りにおちてしまった。

わたしが初めて先生に会ったのは高校2年のときだ。放課後、用事があって職員室に向かう途中の廊下からふとグラウンドを見たときにきれいな銀髪がわたしの目に飛び込んできた。それはなんていうか衝撃的で、わけもわからないままじっと見つめていた。周りでキャイキャイ騒ぐ声に、ようやくその銀髪があの問題児だらけのZ組の担任だということに気づいた。
そしていつしか廊下ですれ違ったり、向かい側の校舎で授業する姿をいつのまにか追いかけている自分に気づく。でもそれが恋だとはまだわかっていなかった。




ガタン、と軽く上半身が揺れて目を開く。うっすらと明るい光がわたしを照らしていて、もうすぐで到着することを知らせていた。車内にアナウンスが響いたのと同時に席から立ち上がり、右手にカバンを持つ。無人のホームに降り立って、久しぶりの地元の空気を吸い込む。やっぱり東京と違って澄んでいるし、おいしい。夏だというのにさほど暑くなくてむしろ涼しいくらい。
長い長いあぜ道をひとりで歩く。ああ、懐かしいななんて思ったりして。小学生のころは道端で拾った棒切れでチャンバラごっこをしながら、中学生のころは友達と好きな男の子の話をしながら、高校生のころは将来のことを話しながら。この細い長い道と一緒にわたしは大きくなっていった。

懐かしい思い出を蘇らせているうちに、いつの間にか見知った家の前に立っていた。ぼうっと立っていると、中からパタパタと走る音がして嬉しそうに笑いながらお母さんがわたしを迎えてくれた。久しぶり、と声をかけながら我が家へと足を踏み入れる。


「今日、お祭りがあるのよ」
「ああもうそんな時期だね」
「地元の友達と久しぶりに会ったら?」


いつかのクラスメイトの名前を数人出されて、うんと頷く。そのかたわらで麦茶の入ったグラスを揺らしながら思う。
夏祭りは、わたしにとって甘酸っぱい思い出がある。高校最後のお祭りで、坂田先生も行くというのを噂で耳にしたわたしは浴衣というすこし背伸びをした格好で遊びにいった。似合うじゃねーか、とメガネの奥で笑った紅い瞳はまだ忘れられない。

元気ー?という大きな声がして振りかえればすこしだけ大人になった友達が手を振っていた。考えていたことは同じだったようで、夏祭り一緒に行かないかとに誘われる。二つ返事でオーケーを出して、台所にいるお母さんに声をかけて外に飛び出した。


「おいしー」
「やっぱ暑い日はビールだよね」
「もう、あんたいくつよ」


数年前まで自分が夏祭りでビールを飲むなんて予想もできなかった。あんなに好きだったわたあめやりんご飴にはもう惹かれることはない。


「ねえ、あれ銀八じゃない?」


ドクン
胸が大きく鳴る。指差されたほうを見れば、懐かしい銀髪が飛び込んでくる。
先生!と声をかける友人に背を向けるようにして、できるだけ目立たない位置でビールを煽る。


「おー、久しぶりじゃねえか」
「先生なんか老けた?」
「おいおいおい。それ言っちゃいけねェよ」
「アハハハハ!変わってないね」
「お前らは数倍ひどくなった」


楽しげに言葉を交わすみんなが羨ましいような、すこしだけ妬ましいような。なんともいえないようなぐちゃぐちゃとした気持ち。
横でぽつんと座っているわたしに気づいたらしく、先生がゆっくり近づいてくる。うわ、と慌てる暇さえなく気づけば目の前に広がったギンイロ。


「よう」
「………どーも」
「なんかすこし見ねー間に冷たくなった?」
「…そんなことないです」
「ならいーけどよ」


ビールなんか飲んじゃって、と頭をこづかれてカアアッと顔が熱くなる。ごまかすように下を向いて服のしわを直すふり。


「どーよ東京は」
「忙しい、けど楽しいです」
「悪い男にひっかかんねえようにしろよ」
「…それいつの時代のセリフですか」


昔みたくどもったり、うまく舌が回らなかったりというのはもうなかった。ほんのすこし大人になれたのかと思うとようやく追いかけ続けた先生と並べたような気がして自然と胸を張ってしまう。


「……ピアス」
「え?」
「そのピアス、まだ持ってたのか」


じっと右耳を見つめられて、そこにそっと手を這わす。
高校3年のとき、射的で当たったという安物のピアスを先生にもらったのだ。それは先生がくれたというのもあるけど、デザインがかわいくて今日まで毎日のようにつけている。


「似合うよ」


切なくなるような笑顔で、胸が苦しくなる。涙もろいのはあれから変わっていないようですこしだけ視界が揺れる。

東京に逃げたのは、むくわれないこの気持ちが苦しかったから。この狭い田舎町で先生に会うのが怖かったから。ようやく自分の想いを整理できたと思って、こうして帰ってきたけどどうやらそうじゃなかったらしい。
だってまだ、先生を見るだけで心が痛い。



レイトショーと揺れるピアス

たぶんきっと届かないまま、




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