こんなの、もう捨てようと思ってたのになあ。 コートのポケットの中にある鍵をするりと撫でた。今日でこれを使うのも本当に最後になるだろう。 カンカンとヒールの音が階段に響いた。あらかじめ電話しておいたからあっちはわたしが来ることをわかってるはず。どんな顔をして、どんなことを思いながらわたしが着くのを待ってるんだろうか。 別れた女のことを。 「久しぶり」 チャイムのあと、ドアの隙間からのぞいた銀髪に片手をあげる。相変わらず好き勝手な方向にはねている頭。死んだ魚の目のようなやる気のない瞳。すこしも変わってない。 「入れよ。…あ、いちご牛乳いる?」 「いーよ、荷物取りに来ただけだから」 「せっかく来たんだからすこしくらいいいだろ?」 わたしの否定もするりと避けてすでに冷蔵庫を漁りはじめている。もう、とため息を落として隣の部屋に向かった。引き出しの上から3番目。わたしの下着や服が入っている場所。決まっていつもそこにいれていた。 数ヶ月前、わたしと銀時は別れた。4年間の付き合いはあっという間に終わってそれはそれはあっさりしたもので。 別れた理由なんて一言で言えるほど簡単じゃない。すれ違いやお互いの仕事とかそういうものが絡まって偶然生まれてしまった答えが『別れ』だっただけ。 用意していた紙袋に次々と服をいれていく。同時に思い出もそこにしまいこむ。蓋をするように、もう思い返すことのないように。 「コーヒーいれた」 「ありがと」 甘いものが好きな銀時と、甘いのが苦手なわたし。テーブルに置かれていたのは湯気を出しているマグカップといちごの絵がプリントされている紙パック。銀時の向かい側に座ってそれをすする。だけど、目は合わせない。 「よくコーヒーなんてあったね。甘いのしかないと思ってた」 「あー、それ試供品でもらったインスタント。自分で買いやしねェよ」 「へえ、どこのメーカー?これ美味しい」 「ちょっと待ってろ」 ひょこひょこと銀髪を揺らしながらゴミ箱を漁ってさっき捨てたパッケージを読み上げる。どこかで聞いたことのあるメーカー名を頭の中で数回復唱して、覚えた。 こういうなんでもない会話が今のわたしには痛かった。何年も一緒に暮らしてきてどこの戸棚にお皿がしまってあるかとか、銀時の好きなエロ本がどこにしまってあるかとか、全部わかってしまう。友達でいた記憶より恋人としての記憶のほうがはるかに強いから。 「なァ」 「なに?」 「なんでこっち見ねェの」 手にしたマグカップが揺れて一瞬コーヒーが波打った。気づかれないようにそっとそれをテーブルの上に置いてなんでもないように紅い目を見つめた。 「見た」 「…相変わらずだなオメェも」 鼻でフンと笑ってコーヒーにまた口をつける。もうマグカップの底が見え始めたたころ、椅子を引いて席を立つ。 「もう行くね」 衣服の入った紙袋とハンドバッグを持って玄関に向かう。その後ろから慌てたようにバタバタ音をたてて銀時が追いかけてくる。 「待てよ!」 「っ、離して」 掴まれた腕を振りほどくも、また反対の手を強い力で引かれた。 「帰ったらもう二度と会わなくなんだろ?」 「……当たり前でしょう。もう別れたのよ、わたしたち」 「だったらまたやり直せばいい」 「なに言って、」 「好きだ」 ぎゅうっと抱きすくめられて抵抗もできないくらい強く。好きだと呟かれたその掠れた声は数ヶ月前のまだわたしたちが付き合っていたころのそれと変わっていなかった。 もし、わたしがこの背中に手を回したら。まぶたの裏にあの人の顔が浮かんだ。銀時と別れてからわたしには新しく恋人ができた。きっと今も帰りを待ってるだろう。そんな人を裏切ることなんてできない。こうして抱きしめられていることに後ろめたさを感じているのが彼を想っているなによりの証拠。 「………ダメだよ」 もう子どもみたいに素直に好きだと言えるほど、幼くない。ゆっくりと腕をほどいて銀時を真正面から見つめる。それからドアノブに手をかけてこの部屋から出ていく。 「忘れモン」 「なに…………ふっ、ん」 クイ、と服の裾を引かれて振り返れば唇に熱のこもった柔らかなものが降り注ぐ。胸元を押しても止まらずに呼吸だけが苦しくなっていく。 「これで最後だ」 離れていく唇にほんのすこしだけ名残惜しさを感じながら今度こそお別れ。カツン、とヒールの音が響いてわたしの背後でドアが閉じる音がする。右手にある鍵を数秒間見つめてから、ポストに入れた。 これで、わたしと銀時を繋ぐものはもうこれでなにもなくなった。すべてはそう、過去なのだ。一緒にいた時間や同じにおいの空間だって全部。鼻の奥がツンと痛んで黒い闇に浮かんだ月がじわりと歪んだ。なんにせよ、いつも終わりは悲しすぎる。 誰もいない夜道でわたしは静かに涙を落とした。 哀歌様に提出 |